夏休みの終わり、異世界転生

萌木野めい

8月31日

「来たね」


「え……?」


 菅波飛路都すがなみひろとがふと気がつくと、眼の前には、事務机に頬杖を付いた若い女がいた。


(あれ、僕、夏期講習からの帰り道で通学路を歩いてた筈じゃ…)

 

 夏休み最終日の絶望を胸にしながら、家に帰る途中だった筈だ。

 状況の飲み込めない飛路都は自分の身体を確かめる。

 服装は飛路都が通う公立中指定の半袖白ポロシャツに制服の濃グレーのスラックス。靴は、これもまた学校指定のださい白スニーカー。

 何時も通りだ。


 飛路都は自分の周りを見回した。女と事務机以外は、空間の全てが真っ白かった。虚無が目に見える形で存在するならこういう見た目かもしれない。

 白は白でも雪景色とは違って何の質感も感じられない、ひたすらに、ただの白だ。


「おーい。聞こえてる? あたしそろそろ定時だからさ。手短に行くよ。明日から夏季休暇なの」


 状況が飲み込めずに戸惑う飛路都に、女は事もなさげにこちらに向かって言った。飛路都は改めて、目線を目の前に女に向けた。


 三十歳過ぎくらいの年齢と思しき女は、事務机の上の閉じられたノートパソコンの上に気だるそうに頬杖をついている。

 机の上には蛍光色の付箋が所々に付けられた大量の書類とファイルボックスが並ぶ。机の一番端に祖母の家にあるようなぼやけた灰色の家庭用ファックスが書類に埋もれているのがかろうじて見えた。お世辞にも整理整頓が上手いとは言えない乱雑さだ。

 飛路都の通う中学校の職員室に並ぶ教師達の机によく似ている。机自体は見慣れた景色だ。


 しかしその一方で圧倒的な奇妙さを放つのは、女の風貌だ。

 緩くうねりながら腰まで伸びた明るい金髪に、抜けた青空のような鮮やかさの虹彩。

 日本人の自分とはとても比にならない鼻梁の高さと抜けるような白さの肌。明らかに欧米人だ。


 女は真珠色の布をたっぷりとドレープさせたシンプルなドレスを身に纏っている。確か、美術の教科書に載っていたサモトラケのニケがこんな感じの服を着ていた。


「菅浪飛路都くん。十四才五ヶ月。間違い無いね」


「……はい」


 女の言葉に「何で日本語?」と心の中でつっこみを入れながら、とりあえず返事をする。言われたことは間違っていない。

 菅浪飛路都。すがなみひろと。両親が付けた自分の名前だ。


 その名前はたまごとひよこマークの出版社から出た「はばたく!男の子のすてきな名前辞典」の「やさしい人に育つ名前⭐︎」ページの一番上から取られた。


 飛路都が生まれた翌年、「ひろと」は男の子の人気の名前ランキングで堂々の一位にランクインした。十四年後、「ひろと」が同学年に十二人もいることになると両親は考えただろうか?

 同じ中二の「ひろと」の中で、飛路都は「最も画数の多いひろと」だ。なんかかっこいいからと無駄なことをする。それが父と母のクオリティだ。飛路都は小さく溜息をついた。


 しかし、ここは一体何処なのだろう。状況は全く飲み込めないが、飛路都の知っている状況で一番近かったのは、先週の台湾への家族旅行の空港でのイミグレーションだ。


 それは飛路都にとって記念すべき初の海外旅行であったが、苦い思い出となって飛路都の心に沈み込んでいる。

 両親が初日にガイドブック巻頭に掲載された長蛇の列の小籠包屋に並ぶか並ばないかで大喧嘩し、その後ずっとぎくしゃくしたせいだ。


 国内ならまだしも海外では両親のどちらかに付かないと思うように行動できず、二人の不仲のはざまで何処にも逃げ場のない台北での四日間はただただ苦痛でしかなかった。

 台湾の人達が皆気さくで優しかったことだけがせめてもの救いだった。


 せっかくの受験前最後の夏休みであったが、両親の「家族の思い出づくり」への強制参加要請の前では飛路都の意見は存在しないに等しい。

 しかも、父の仕事の休みに合わせたせいで、前々から友達と計画していたキャンプの約束も断ったのに。嫌なことを思い出してしまった。

 こちらの様子を伺いつつ、女が口を開く。


「君は夏休み最後の日、夏期講習の帰り道で歩道に突っ込んで来た軽トラックに轢かれたんだ」


「え」


 聞き覚えしかないシチュエーションだ。飛路都は女の言葉に矢継ぎ早に答えた。


「僕、死んだんだ。で、お姉さんは女神だ」


「……理解早すぎじゃない? 助かるけど」


 女改め女神は片眉を釣り上げ、飛路都にあからさまに不審な表情を向けて言った。


「異世界転生もののラノベで、何回も読んだよ。

 主人公がトラックに跳ねられたり自殺したりして、気がついたら自分の運命を変えてくれる女神に会って、チート能力を身につけて異世界に転生するんだ」


「え? そこまで知られてんの? まあ、この世に人間が生まれてたら大分経つからね。死に際の景色を見たのに生き返っちゃった人も合計したら相当な数だろうから、そういう人が生きてる人に伝えちゃったんだろうね」


 女神は相変わらず机に頬杖をついたまま、ため息混じりに言った。


「しかし、青少年が好んで読む本の冒頭が死で始まるものばっかりっていうのが、あたしは割と心配だな。みんな、そんなに死にたいの? 大丈夫なのか? 君の生きてた世界は」


「正直分からない。大丈夫じゃないかもしれない」


 女神は返事をする代わりに、大げさに肩をすくめた。


「で、僕は転生できるの? 異世界に」


 飛路都は興奮を隠しきれずに女神に問いかけた。クソオブクソの両親を捨てて違う親の元に転生出来るなんて、どう考えても最高すぎる。

 飛路都の目の輝きを感じたらしい女神はすっと真顔に戻り、口を開いた。


「君の夢をぶち壊して悪いんだけど、残念ながら、その辺はフィクションだね。異世界なんてのは無い。有るのは君が生きた世界における過去と未来だけだ」


「……そっか」


 流石に、異世界転生はラノベの中だけの話か。現実はそんなところだろうが、期待した分の反動は飛路都の心に重くのしかかった。


「でもさ。一応、希望があればこの世界でならどの時代のどの場所にも生まれ変わらせることが出来るよ。生まれ変わる年齢もご希望どおり。日本の中学生を中世ヨーロッパにでも送り込めばそれはもう異世界みたいなもんだろう? ただ、そういうの希望する人はたまにいるけど、流行り病やら戦争やらに巻き込まれて割とすぐ死んじゃうみたいだね。チート能力とか無いから。世の中そう甘くない」


 その時、卓上のファックスが急に起動し、ががががと音を立ててコピー用紙を吐き出し始めた。


 女神は「あれ、珍しいな」と言いながらファックスの上に積もった書類をどける。ファイルボックスに引っかかって皺になりながら排出されたコピー用紙を摘んでぺらりとめくり、顔の前に持って読み出した。

 こちらから内容は見えないが、薄っぺらなコピー用紙の裏側にほんのりと透ける様子から察するには、何か文章が書いてあるようだ。女神の金色の眉がぴくりと動いた。


「それ何?」


「今、下界にいる天使ちゃんから緊急のお知らせが来たんだけど。君はどうやら、身体が蘇生しそうらしい。しかも五体満足らしいし。ここまで来てもらったけど、やっぱり生き返ってもらうよ。良かった良かった。こんなの超久しぶりだわ」


「え? そんな……」


 飛路都は女神の言葉に、高揚していた心がずんと一気に重くなったのを感じた。


「そんな? 死にたかったの?」


「……」


 夏休みの最後の日、明日からも生きたかった、と断言ができなかった飛路都は黙って俯いた。女神は溜息をつくのが聞こえた。


「ここに来る君くらいの年の子って、ちょっとだけ嬉しそうな子、たまにいるんだよね。本当に心配だなあ」


 独り言のように女神は言った。


(また、元の世界に戻るのか。また……)


 飛路都は自分の目にぎゅうっと涙が集結して来たのを感じ、目を伏せた。鼻がつーんと痛くなる。女神は飛路都を見て目を細めた。


「飛路都くん。さっき来たファックスには君が本当に死ぬ時期と、そこに至る君の未来の話がざっくり書いてある。ほんとは駄目なんだけど、少しだけ教えてあげるよ。はっきり言うのは気の毒かもしれないけど、君には特に特出した才能はない。運動神経は普通。勉強は中の上くらい。大学に進学して就職。平凡に生き、平凡に死ぬ。まあ、そんなこと言っても逆効果かもね。人生が平凡であることの幸せを噛みしめるには、君はまだ若すぎるね」


「ほら。そんな奴は生きてても、しょうがないじゃん。帰りたくないよ」


 飛路都は涙をごしごしと擦り、ずるずると鼻を啜ってから半ば投げやりに女神に言い返した。


「でもね、女神のあたしが本当に、強く生きて欲しい、力になりたいと願うのは、君みたいな人達だ。ただ毎日を、もがきながら必死で生きる人。ここを通り抜ける人たちを、沢山見てきた。これまで生まれて死んだ人間全員だからね。一千億人ちょいかな。それで、確信したことがある。世界を良くするのは一人のヒーローじゃない。それ以外の、市井の人々だ。そういう人がいないと世界は回らない。だからあたしは君にも、生きてほしいよ」


「……」


 飛路都は女神の励ましに何と返したらいいか分からず、ただ、俯いたままで鼻を啜った。真っ白い虚無の床に自分の鼻水だか涙だか分からない液体がぼたぼたと滴っていた。飛路都は女神の壮大な励ましをそのまま受け取れるほどの大人になれていないと自覚し、胸が締め付けられた。女神は続ける。


「勿論知ってると思うけど、人間は全員、等しく死ぬ。そしてその前に全員が絶対に、ここを通るんだよ。だから飛路都くんはいつかもう一度ここに来て、あたしに会う。ここに二回来れた超超超レアな君は次来た時に、生きてみたを感想を教えてよ。結局クソオブクソだったとか、思ったよりはそれなりだった、とかさ。いつでもいい。君がどうしても死にたくなって、ここに来るのがこのファックスに書いてある時よりずっと早まったりしても。あたしはそれを絶対に咎めたりしない」


「……それだったら、出来ると思う」


 飛路都は何とか顔を上げ、目を擦りながら言った。


「おっけ。じゃっ、待ってるよーん」


 女神が笑顔でそう答えると、コピー用紙を破いた。その裂け目から真っ白な光が放たれ飛路都を包み込む。

 女神も、事務机も、全部が虚無の白に溶けて見えなくなる。その光の暖かさに包まれ、飛路都はその胸に女神の言葉の不思議な温かさを感じながら、意識がどこかへ溶けていくのを感じた。

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