プシュケーの船

長門拓

プシュケーの船

 わたしが目覚めたのは、一艘いっそうの船の内部でした。

 その船は広大な宇宙を音もなく進み、あらゆる方角に星の明かりが見えます。

 わたしは船のなかで、幾億の星を眺めました。船はわたしの知覚とつながっているようで、あらゆる方角が観測の対象となり得ます。

 わたしはやがて夢を見ることを覚えました。



   〇



 夢の中でわたしは、とある漁村の一人の少女でした。

 これといった特技があるわけでもなく、学校の成績がよいわけでもありません。どこにでもいるような、ごく普通の少女です。

 ところが夢の中でわたしは、その少女にある違和感を抱いていました。

 どこがどう変なのかはわかりません。ただ何とはなしに、変なのです。

 わたしは意識の波長を少女に同期させます。ピントが合うにつれ、違和感の正体が明らかになりました。

 わたしはその少女に興味をもつようになりました。



 唐突に夢は別の位相いそうに投げかけられます。

 今度は少年です。場所は……先ほどの少女の住む漁村から、さほど離れていないようですね。似たような景色、見覚えのある風景。

 現象は漁村の外れ、岬の突端にある灯台から始まります。

 灯りと音響を発する建造物の内部で、少年は灯台守の仕事をしています。

 そうして今度もわたしは、その少年にある違和感を抱きます。

 どこがどう変なのかはわかりません。ただ何とはなしに、変なのです。

 わたしはまたも意識の波長を少年に同期させます。

 わたしはその少年にも関心をもつようになりました。



   〇



 わたしをのせた一艘の船は、広大な宇宙の波の中を進んでいました。

 あらゆる方向にひらかれた窓から、波間を泳ぐ魚としぶきを浴びる鳥が見えました。

 魚と鳥は幾万年も前から、わたしの船に付き従っているようです。

 時折、思い出したように彼らが奏でる子守唄が、わたしを再び夢にいざないます。うつらうつらと、少女と少年に想いを馳せながら……。



   〇



 季節は、秋の終わり頃のようです。

 夕焼けのあかが濃い草原で、少女はひとり泣き崩れていました。

 彼女の心が悲しみを訴えかけています。どうして誰も彼女を理解してやれないのだろう。彼女の皮膚に触れることのないこのわたしが、どうして彼女を一番理解しているのだろう。彼女は本当のことを語っているだけなのに。

 どうやら彼女の意識は、ごくまれに未来の出来事を予知するようなのです。

 どんなことを予知したのかは、よくわかりません。所詮は夢の中です。

 彼女のふらふらとした足取りは、黄昏たそがれの道をさまよい、灯台の方角に向かいます。



 灯台守の少年は、霧笛むてきの音に耳を澄まします。

 亡くなった父親の代に、ほとんどの作業が自動化されました。彼が引き継いだ数少ない仕事の一つが、毎日の霧笛がきちんと鳴っているかを確かめることなのです。

 今日も霧笛は、何かの動物の鳴き声のように、大気をかすかにふるわせます。

 少年には友達がいないようです。少年は話すことができないのです。

 灯台に一人ぼっちの彼のもとを、訪ねる人もいないようです。

 ところがその日は珍しく、一人の少女が灯台に訪れました。



   〇



 わたしは一艘の船の中で、地図に目を通していました。

 もちろん、こんな複雑な地図を読めるわけではありません。船ははじめから地図が内部に組み込まれています。わたしが読まなくとも、航海に支障はないのです。

 けれども膨大な暇を潰すのには役立ちます。起きている間は、特にすることもないわたしです。

 そろそろまぶたが重くなってきました。今日も今日とて夢を見ます。あの少女と少年は元気でしょうか。



   〇



 冬も終わりに近づいた頃でしょうか。灯台のそびえる岬にも、春の息吹が感じられるようです。

 海岸には、あの少女と少年が並んで座っていました。少女は花のように笑いながら、少年と語り合っています。

 少年は話せないので、少女の他愛ない話に耳をかたむけているのがほとんどです。それでも、少年は楽しそうに、いちいち少女に相槌を打ちます。

 少女は少年を、心から信頼しきっているようです。

 夢を見ているわたしは、それを心底微笑ましい光景だと思いました。

 わたしの意識の波長は、「彼ら」に合わさります。わたしも「彼ら」の仲間に加わりたい。そう思いました。できることならば、「彼ら」の子どもとして生まれたい。心からそう思いました。

 しかし彼らはまだまだ幼く、その機会はまだまだ先になりそうです。楽しみながら待つとしましょうかね。


 そんなことを考えながら夢を見ていると、少年が少女に、何かの花束を贈っていました。まるでたんぽぽの綿毛をそのまま大きくしたような、心のこもった花束。

 意外にその機会は早く来るのかも知れません。



   〇



 わたしを乗せた船が、急に航路を変えるのがわかりました。

 思いがけないことでした。てっきり、このまま規定の進み方をするものとばかり考えていたのです。

 しかしわたしは、心のどこかである種の既視感を抱いていました。これまでにも似たようなことがあったのを、かすかに覚えていたような気分にもなりました。

 あらゆる方向にひらかれた窓からは、少しずつ光が失われようとしています。また幾年月をこうして過ごさなければならないのでしょうか。

 わたしは闇をさえぎるようにまぶたを閉じます。おそらく、これが今回は最後の夢になるのでしょう。あの少女と、あの少年はいったい。



   〇



 その漁村にいったい何が起こったのか、今となっては知るよしもありません。

 あれからそれほどの時間が経っていないはずなのに、漁村と灯台は目を覆うばかりに荒廃していました。そして、荒廃した一面には、見覚えのある植物がところせましと生い茂っていたのです。

 その植物は、少年が少女に贈った、あのたんぽぽの綿毛のような花と、よく似ていました。


 夢の中のその綿毛がいったい何であるのか、夢を見ているわたしには検証のしようもありません。また、その綿毛がどこからやって来たのかも、同じくわからないままです。

 確かなことはひとつ、その漁村にも灯台にも、もうあの少女と少年は存在していなかった、ということだけでした。

 誰もいない春の岬を、咲き乱れた綿毛が埋め尽くしています。

 ひと筋の海からの潮風が、それをふうわりと吹き散らします。


 ふうわり、ふわり、と。

 ふうわり、ふわり、と……。



   〇



 わたしが目覚めたのは、一艘の船の内部でした。

 その船は広大な宇宙を音もなく進み、あらゆる方角に星の明かりが見えます。

 わたしは船のなかで、幾億の星を眺めました。かつてわたしを導いた、あの懐かしい光をそこに探します。わたしの心を暖めてくれたあの記憶を、そこに求めます。

 ふたたび夢見ることを思い出すまで、どうかわたしと共にあらんことを。

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