第5話

 甘くて苦い曲が終わって、店内にはまた別の曲が流れ始める。

(若かったなあ、私)

 思って、そんな考えをすぐに打ち消す。

 たかだか数年前のことを、そんな言葉でごまかせるわけもなく。今もって私はバイト漬けの日々だし、絶対に失敗できない就職活動に挑み続けている。

 

 ただ、若さだけで片付けることはできないけど。

 テーブルに置いたスマホを手に取った。就活サイトを開いて、新着メールをチェックする。

(これはお祈りか。あーでも、良さそうだった会社、エントリーシート通過してる。こっちは最終まで通ってるし……)

 あの頃のまま、止まっているわけでもない。

 望み通り進学して、それで終わりじゃなかったけど。就職すれば、心配事から解放されるわけでもないけど。

 それでもあの時、手の届かないお月様を夢見て、愛にすがって立ち止まるようなことはしなくてよかったと思う。


(智明のことは、傷つけちゃったかな)

 だけどあれ以上一緒にいたら、きっともっと傷つくことになった。

 住む世界が違うなんていう言葉は好きじゃないし、多分、私と智昭は、ほんの少しのところでズレてしまっただけなのだろうと、今は思うけど。

(でも、やっぱり二人じゃ月には行けなかったよ)

 

「お待たせいたしました。オリジナルブレンドになります」

 コーヒーが運ばれてきて、私はスマホから目を離した。久々の香ばしい香りに一瞬、胸がざわついて。匂いが一番強く記憶と結びついているって本当だなあと、そんなことを考えて意識をそらした。

 コーヒーカップに口をつける。コーヒーがほんの少し舌先に触れて、一瞬カップを傾ける手が止まって。

 だけどそのまま、一度もカップを持つ手は降ろさなかった。

 休み休みでは、あるけれど。ゆっくりゆっくり、中身をすべて飲み干して。

「にがい」

 つぶやいて、カップをソーサーへ置いた。

 

「ごちそうさまでした」

 出て行った金額に、わずかばかりの後悔を感じながら財布をしまう。

(いいの、今日は)

 相変わらず贅沢はできないけれど。最近じゃどうしても疲れたときとか、しんどい面接を乗り切ったときとか、ごくたまにカフェでお茶をする余裕が出てきた。

 懐の余裕というよりは、多分気持ちのほう。

(やっぱり、若かったのかも)

 二年分だけだけど。

 少しは、前に進んで。

 店を出るとそこはすぐに歩道で、仕事に、人生に忙しい人々が速足で行きかっていた。

 

 ――私を月に連れて行って。


 雑踏の中で歌を口ずさむ私は、きっと変な目で見られているのだろう。それともみんな、周りの人間を気にする余裕なんてないのかもしれない。

 月は相変わらず遠いけれど。

 私は何とか、今日も前に向かって歩いていく。

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