初夏
どうして降るときはいつも土砂降りなんだ――か。
カウンターに置かれた白いコーヒーカップに指をかけたまま、店内に流れるブルージーな曲に聴き耳を立てる。
色気のあるしゃがれ声が、語りかけるようなフレーズの後のかき鳴らされたギターと重なる。そんな音色と歌声が、私の生きてきた証を掘り起こしていく。
智昭の元から逃げ出した後、泣いても笑ってもやっぱり初夏はやってきて、私は女の子を出産した。
地元から遠く離れた土地で、乳飲み子を抱えた女ひとりの生活は想像していた以上に大変だった。
生まれたばかりの子供を預けて働き続け、夜にはおっぱいが出ないと泣く娘を寝ずにあやしもした。
学もなく技術もなく、ましてや人と関わる仕事もできない、薄給で蓄えるお金がまるでない私でも、子供が病気になれば仕事を休み看病した。
私は貧乏には慣れていたけど、大切な娘にひもじい思いをさせたくなかったから昼も夜も働いた。体を売れたら楽だったのにと何度も思ったけれども、私にはそれさえもできなかった。
私の身勝手で父親のいない子供にしてしまった負い目はあった。けれども、自分が浅はかだったとは思っていない。後悔もしていない。
みんなに考えなしだと嘲笑われても、馬鹿だと罵られても。
本当にいい子に育てる事ができたと思う。自慢の娘だ。
そうだ。忘れていた。駅に置いてきてしまった娘に連絡しておかなきゃ。
私はバッグからスマートフォンを取り出し……
スッと私の視界に割り込んでくるノート。マスターが差し出した一冊のノート。
それは、天井や壁に貼られた写真や名刺と同じく、来店者が自由に思い出を残していくための自由帳――思い出ノートだった。
こんなものあったなんて事をすっかり忘れてしまっていた。
あの頃の、まだ青臭かった私と智昭が、来店する度に色々書き込んでいたのに。
表紙に書かれた日付は……
十五年前――私が智昭から逃げ出した後? 何でこんなものを?
ノートの期間はゴールデンウイーク前から六月の頭まで。ちょうど今と同じ季節。
私は最初のページをめくって、そこに書かれたどこかの誰かが書いた文章を読む。
二枚目、三枚目とページをめくりハッとして、ゴールデンウイークが終わった辺りからの書き込みを慌てて探す。そして見つけた。
『ありがとう。初夏色ブルーノート』
息を飲み、口元を手で押さえる。
智昭だ。間違いない。こんな事を書くのは智昭しかいない。
勢いよく顔を上げてマスターを見る。
やっぱり、マスターも覚えてる、の? 私の事を。もう十七年も経っているのに。顔だって、あの頃とは違って、疲れたおばさんになっているのに。
私の視線に気づいたマスターは、智昭と楽しそうに音楽の話をしていたあの頃と同じようにほほ笑んで、一枚のCDを私の目の前に置いた。
これを、私――に?
キャラメル包装された未開封のCD。ジャケットはこの店の外観だった。
ああそうか、『初夏色ブルーノート』ってこのCDの……智昭、音楽を捨てていなかったんだ。
思わず顔がほころぶ。
考える事は同じ、か。でも、私の方が先だから。
カウンターに置いたスマートフォンが短い音を鳴らして小刻みに震えた。
見ると、娘からのLINEが山のように届いていた。
『
大切な娘を置いてどこ行ってるのよ。ホントに勝手なんだから』
いけない、全然気づかなかった。
いつしか雨は上がっていて、雲の隙間から青空がのぞいていた。
私は慌てて席を立ち、思い出ノートに書かれた智昭の言葉の下に一言だけペンを走らせる。
やまない雨はないよね、きっと……と。
ぬるくなってしまった懐かしい苦味を一気に飲み干して、私はマスターに深く頭をさげて店を出た。
「あ、お母さん! もうっ、毎回毎回いい加減にしてよね。娘を置いてひとりでお茶してるなんて」
店を出てすぐ、私を見つけた
あの頃の私とよく似た
そんな
けど……そう、今度――また今度でもいいかな。
軽井沢銀座へ向かって先を歩く
大きな目を丸くさせて振り返る。
「どうしたの? お母さんが鼻歌なんて珍しい」
懐かしいあの歌を聴いたせいかもしれない。
それとも智昭を思い出したせいなのかも。
夢を忘れていた訳じゃない。
歌いたい。
今はまだ、歌えないけど……
「今の鼻歌って何? 凄くいい曲だったけど」
興味津々に目を輝かせる
「わ……わ? わた……わた……し……の……す……すき……な……う……た」
穏やかな風が頬を撫でる初夏色した雨上がりの軽井沢で、何十年ぶりかに出した私の言葉は、きっとほんの少し――微分音ずれていたに違いない。
FIN
初夏色ブルーノート えーきち @rockers_eikichi
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