ブルーノート
智昭はブルースが好きだった。ブルーノートが好きだった。
本格的な夏がくる前の、暑さと寒さが入り混じった草木が香る初夏が好きだった。
ブルースも初夏も、まるで浮き沈みする人生のようだって。
いつしか私は、そんな智昭との暮らしに夢を描いていた。
遠い遠い昔、幼いころ思い描いた子供じみた夢を。
滑稽だった。智昭の好きな季節にすら、土砂降りの記憶しかないこの私が。
歌いたかった。歌って、歌って、歌いたかった。
毎日声が枯れるまで歌っていたあの頃のように。
そんな私の思いを知った智昭は、いつか私もバンドのメンバーに入れて、一緒に歌おうなんて笑っていたっけ。
他の奴らに文句は言わせない。リーダーである俺が決めたって。
嬉しかった。土砂降りの人生でも、ずっと燻っていた儚い夢を見てもいいんだと思った。
それなのに……
それは夏もすぎて、短い秋の
「
目の前が真っ暗になった。
何――智昭は何を、言ってるの?
「大学も遊びももう卒業だ。いつまでも音楽音楽言っていられないからな。バリバリ働いて明子に楽をさせたいんだ。だから俺と……」
嘘、嘘だ。智昭はあんなにも音楽が好きだったのに。
いつか上京してバンドで食べていけたら、なんてずっと言っていたのに。
他のメンバーは? ユースKさんや
伝わらない。私の心は智昭にこれっぽっちも伝わらない。
笑っている智昭の顔がセルロイドの人形みたいで気持ちが悪かった。
薄く笑みを返しつつ、頭ではそんな事を考えている自分が本当に気持ち悪かった。
私に歌わせたいと語った智昭の夢は、子供の頃に作った砂場の山のように脆くも儚い夢だったのかと失望した。
どうして私の人生は、いつも土砂降りなんだろう?
貧しい暮らしは慣れっこだ。そんな些細な事は我慢できるし、自分が頑張ればどうにでもなる。夢をなくしたら生きていけない。過去に失ったものが大きすぎて、せめて夢を見なければ、私は自分の存在を認める事ができなかった。
歌いたかっただけなのに、ずっとずっと歌いたかっただけなのに、まだ父も母も優しかった、小学生になったばかりのあの日を境に、私は歌を失った。
歌いたくても、歌えなくなってしまった。
楽しかった歌の発表会の後、上手く歌えたご褒美にと、少し遠出をしてレストランを探しに駅前へ向かった私と母。
あの時、仕事で発表会に来れなかったはずの、そこにいるはずのない父の姿を私が見つけなければ。
「あ、お父さんだ」なんて、言ったりさえしなければ。
私は自分の声を呪った。吐き気がした。怖くなった。
私の声が、やまない土砂降りを招いたんだ。
他の子からすれば、『大好きな事よりも自分を選んでくれるなんて女冥利に尽きる』なんて思うかもしれない。けど、そうじゃない、そうじゃないんだ。
私の夢は私のもの。智昭の夢は智昭のもの。
誰にも理解なんてされなくてもいい。共感されなくてもいい。
私に智昭を背負わせないで。夢を手放す言い訳に私を使わないで。
お父さんもお母さんも智昭も、私を振り回さないで。追い詰めないで。
私を可哀想な女にしないで。
今に甘んじてる? 上昇志向がない?
そんなの知らない。お金のある暮らしが幸せだなんて思わない。
ずっと土砂降りだったけれども、辛い事も苦しい事もあったけれども、私は不幸だった訳じゃない。
気持ち悪い。寝ても覚めてもどす黒い感情が私の心に絡みつく。
やめて。やめて、やめてやめてやめて。
ついには智昭の家を飛び出して、私はそのまま連絡手段を絶った。
智昭からしたら寝耳に水だったかもしれない。けど、私には智昭との幸せな未来は描けなかった。
家に帰ると、ずっと会っていなかった母は、そんな私を見ても何にも言わなかった。
学生の頃から碌にお金を使っていなかったおかげで、私は幸いにもそこそこの手持ちがあった。
智昭の好きな季節――待ち望んでいた初夏を待たずに、私はそこから逃げ出した。
その日もやっぱり土砂降りだった。
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