其の二 ぼろぼろの浪人

 みんみんと鳴く蝉の声が、賑わう宿場の騒々しさに、拍車を掛けていた。日暮れを迎えた空は薄暗く、街道の提灯ちょうちんがぽつぽつと灯り始めていた。


 風車片手に走り回る子供、樽をぶら下げた天秤棒を担ぐ魚売り、三味線を弾いて腕前を売る女……宿場を行き交う人々は、皆近隣に住む庶民達だったが、そこに一人、周囲から浮いた余所者が歩いていた。ぼろぼろの浴衣を着た大柄の中年男性で、腰には刀を差している。周りの奇異の目も、どこ吹く風といった表情だ。


 正面から歩いてきた、甚平を羽織った中年男とぶつかる。「いでっ」と尻餅をつくその中年に、余所者は手を差し伸べた。


「失敬。立てるかい」

「あ、ああ。どうも……」


 差し出された手を掴んで起き上った中年男は、「すいやせん」と会釈しながら、余所者の腰に差された刀を一瞥した。


「武士にしちゃあみすぼらしい格好だな……ってかい?」

 無精髭を蓄えた口元を、にやりと歪める。心中を見透かされた中年男は「いやいや、そんな」と慌ててかぶりを振った。


「そう気を使いなさんな。こんな脱藩浪人に」

「脱藩浪人……?」

「ああ」と、余所者は頷いた。


一生一学いっせいいちがくってんだ。あんたは?」

「あたしゃあ、橋上老益はしのうえしにますって言います。この宿場で水売りやってる商人です」


「そうかい。橋上さん、この辺りは詳しいかい?」

「ええ、そりゃもう。どこかお探しで?」

旅籠はたご屋探してんだ。良い場所は無いかねぇ?」


 馬のように長い橋上の顔に、得意げな笑みが浮かんだ。


「それなら、最高の宿を紹介出来ますぜ」

「おお、本当かい。早速連れてってくれよ」


 橋上が連れて行ったのは、もがみ屋という小さな旅籠屋だった。暖簾を潜ると、屋内の中央を真っ直ぐに道がのび、厨房に繋がっていた。その両脇は外堀の如く一段高くなっており、畳が敷かれていた。そこにあぐらをかいた客達が、蕎麦をすすっている。


「ここはね、二階で旅籠屋、一階で蕎麦屋をやってんです」

 草履を脱いで畳に上がると、橋上は「おぉい」と仲居を呼び、定番掛け蕎麦二人前を頼んだ。


「それにしても、結構な混みようだね。ここの蕎麦は美味いのかい?」

 辺りを見回しつつ尋ねる一生に、橋上は首肯しつつ、「まぁ、それだけじゃないんだがね」と付け加えた。


「皆、ここの仲居の話が聞きたくて来んでさぁ」

「はぁ、さっきの仲居さんかい? どんな話なんだい?」

「聞いて驚くなかれ! ここの仲居はなんと、赤穂義士と世に名高い、堀部安兵衛の実の娘なんでさぁ! そんで、赤穂義士に関わる話を説いてくれるっつー訳です」

「へえ、赤穂義士……。たまげたな」


 そう言う一生の顔は、平常心そのものである。眉を顰めた橋上は、反応の薄いやっちゃな、と思ったが、口にはしなかった。


「お待ち」と言って、盆に蕎麦二人前を乗せた件の仲居がやって来た。

「おお、噂をすればだな。おたださん、今晩はどんな話をしてくれるんでぇ?」

 お忠と呼ばれた二十代半ばに見える仲居は、「そうだねぇ、今考え中」と答えて、蕎麦を二人の眼前に置いた。


「俺ァよ、こう、ずばずばっと……胸がすく武勇譚が聞きたいね」

「そういう血生臭い話はなしだ」

「なんでぇ?」と不服そうに口を尖らせる橋上に顔を近付け、囁くようにお忠は言った。


「昨夜ね、船大工の修三さんが亡くなったんだよ」

「修三が!?」と、橋上は小さな目を丸くする。お忠は首肯して続けた。


「どうも、流れ者の人斬りに殺られたらしいんだ。で、今晩はお水さんもいるからさ、旦那さんの事思い出させるような話はしたくないんだよ」


 見回すと、向かいの畳に、項垂れた女性の姿があった。眼前の蕎麦には箸もつけず、この世の終わりといった顔で、机の木目を見つめている。


「そうかい……。そりゃ気の毒だったねぇ……分かったよ」

「ところでお連れさん、見ない顔だねえ。旅の人ですかい?」

 辛気臭い表情を解き、お忠は橋上の向かい席に座る余所者に視線を向けた。


「ああ、この人はね、さっきそこで出会ったんだ。名前は……」

「一生一学と申す。この宿場には初めて来るもんで、宿を探してうろついてた所を、こちらの橋上さんに良い旅籠屋があるってんで、連れて来て貰ったんだ」


「あらまぁ。なんだい老益っつぁん、良い仕事するじゃないか。飯代まけてやるよ」

 えくぼを作って顔を綻ばせたお忠は、橋上の肩を軽く叩く。「それが狙いよ」と、橋上は得意気な笑みを浮かべた。


「部屋は空けときやすね、一生さん」

 そう言い残しお忠が厨房に消えると、二人は蕎麦を食べ始めた。


「おお、こいつァ美味い。麺のこしが違わぁ」

 蕎麦を口に含んだ一生は、くちゃくちゃと咀嚼しながら言った。

「でしょう、でしょう」


 麺で口を膨らませながら、橋上が応じる。二人が丼を空にする頃、時刻は宵五つ刻を迎えていた。机の上を片付け、大方洗い物を済ませたお忠は厨房から現れると、畳に腰下ろした。


 食後も残っていた客達は、待ってましたと言わんばかりに、ささやかな拍手を送った。お忠は、片手の団扇を張扇代わりに、机をぺしぺしと叩きながら喋り始めた。

 語りに緩急をつけて、調子を取る様は話家顔負けであり、一生は爪楊枝つまようじを差し入れた口端をにやりと吊り上げた。


 なるほど、これァ客が集まる訳だ……。


 話は、堀部安兵衛の忠節心や、隊士との絆に関わる内容が主だった。時折交えるユーモアが奏功してか、主人を亡くしたお水という女性の面持ちも、幾分明るくなっていた。橋上の要望を意識してか、隊士同士の稽古という形で、堀部安兵衛の武勇も語った。お陰で男客の反応は上々だったが、これには、一生は顔をしかめた。


「……どうです、一生さん。蕎麦は美味ぇ話は面白ぇ、良い旅籠屋でしょう?」

 お忠の講談を聞き終えた橋上は、満足げな笑みで対面席の一生に尋ねた。


「だねぇ。こんな愉快な夜を過ごしたのは久々だ。いやいや本当、橋上さんには良い所を紹介して貰った」


「へっへっへっ」と、突き出た腹を上下させて笑った橋上は、「じゃ、俺は帰りますぜ」と言って立ち上がった。

 手をひらひらと振って暖簾を潜る橋上の背を、一生は見送った。


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