其の九 人の世
昼八つ刻のもがみ屋の客入りは疎らだったが、厨房で天ぷらを揚げるお忠の表情は明るかった。間食時に混むのは、甘味処と相場が決まっている。夕食時には、また昨日のように客で混み合うだろう。
揚げたての天ぷらを客のもとに運ぶ。顔を綻ばせる棺桶屋の亭主に会釈を返しつつ、お忠はふと外を見た。風車を片手に持った子供達が、元気いっぱいに走り回っている。
人斬り事件の際はすっかり寂れたこの宿場も、一月後には、かつての賑わいを取り戻していた。つわりも落ち付いて安定期に入ったお忠は、もがみ屋を切り盛りする女将として、懸命に働いていた。
蕎麦屋から一般の食事処へと鞍替えしたもがみ屋は、お忠持ち前の達者な講談と、何とか金を取れる域にまで達した彼女の手料理によって、一時期の火の車から脱していた。貯金も順調に出来ているので、出産期を迎えるまでには人を雇い、店を続けていくつもりである。
一様にお忠を
その書き手は、お忠の夫……もがみ屋の亭主だった。
赤穂義士を義父に持つ者として、赤穂の名を名乗り悪事を働く偽者を、見逃す訳にはいかないーーーーというのが、その内容だった。
噂は即座に伝播し、もがみ屋の亭主は、命と引き換えに偽の赤穂義士を倒した〝この宿場の義士〟と持て
一時期は、石まで投げ入れてきた者が、菓子を持参して来る日もあった。お忠は複雑な気分だった。
実は、この斬奸状は偽物であった。それを書いたのは、夫ではなく、一月前にこの宿場を去っていった、一生一学という浪人だった。自ら人斬りを斬り、そこに夫が書いたという体の斬奸状を添え置く事で、夫の手柄とする……という彼の計らいが成功した結果だった。
嘘を重ねて世を渡る自分も自分なら、その度に
堀部安兵衛の娘という嘘は、再び信用を得ていたが、周りからどれ程懇願されても、お忠はその手の話をしなかった。嘘が暴かれるのが怖いからではない。彼女の脳裏には、もう一月顔を見ていない、未亡人お水の言葉が焼き付いていた。
――――ありもしない話をでっちあげて、言いふらしたりするから……本物の赤穂義士が怒って来たんだ!
それが、この人斬り事件の本質なんだろうと、お忠は考えていた。瓦版によれば、人斬りは赤穂義士及びその血縁者ではなかったそうだが、何らかの形で赤穂事件に関わった者なのであろう事は、容易に想像出来た。
聞く者に美談の印象を与えやすい赤穂事件は、噂話になり、芸能の題材になる事で、勧善懲悪の物語となった。
脚色され、誇張された善と悪を、自分を含め多くの人々が鵜呑みにし、一方を褒め称え一方を口汚く罵ってきた。それが作り話ではなく、実際の事件であった事も忘れて。
偏向的な世間の見方に、嘆き涙し、怒る当事者もいただろう。そうしてある男は、人斬りにまでなったのだと思う。
彼の凶行の動機は、結局分からず終いだった。しかし、赤穂を名乗り罪を重ねる様に、お忠は一種の悲壮感を感じ取っていた。たった一人で、世の善悪観を覆そうと足掻く、哀れな男の姿を……。
故に彼女は、世の華々しい印象を助長するような赤穂義士の話は、しないと決めた。今後世間がどのように赤穂事件を扱おうと、口出しするつもりはないが、自身は、顔も人格も知らぬ人間を褒め称えたり、貶したりするような真似はしたくない。それが、お忠にとっての人斬り事件の教訓だった。
客の帰った店の畳に腰掛けたお忠は、人の往来が激しい街道を暖簾越しにぼんやり眺めた。いずれ、自分と夫の嘘が暴かれて、また皆が態度を急変させたら、その時は店をたたんで、この宿場を出よう。
最近、本を読むようになった。講談のネタ探しとして始めた事だが、ゆくゆくは一生さんのように国々を流れながら、旅の講釈師として生きるのも面白いかもしれない。
そんな事を考えていると、ずん、と腹を内側から蹴られたような気がした。驚いたお忠は、視線を俯けるや表情を崩して、膨らんだ自らの腹を優しく撫でた。
「安心おし。お前を置いて行ったりなんてしないよ。……その時が来たら、お母さんと一緒に日本中を旅しようね」
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