其の八 弓弦橋の決闘

 暫し、二人の間に沈黙の時が流れた。川のせせらぎ、柳の葉擦れとそこに群がる鈴虫の声、遠くからはホトトギスの夜鳴きが聞こえる。彫刻のように動かない二人を残して、夏夜の旋律は普段と変わらぬ調子で流れていた。


「参る!」


 先に仕掛けたのは、小林だった。右上に振り上げた刀で袈裟斬りを放つや、清水は居合いで応じた。傾いた十文字状に太刀が衝突し、きぃん、という金属音が鋭く空気を貫く。


 途端に、今度は周囲が水を打ったように静まり返った。本能的に危機を感知してか、虫も鳥も鳴くのを止めた。流水や葉擦れの音すら消え、川や木々でさえ、その戦いに固唾を呑んでいるかのようだった。


 敵の斬撃の重さに、清水は歯を食いしばった。小林の太刀に弾かれ、自分に返ろうとする太刀を、剛力で押さえつける。


 対する小林は、少々驚いていた。自身の初太刀を受け止めきれる剣客は、そう多くない。大概の者は、刀を折られるか、さもなくば弾かれた刀の峰に頭をかち割られるかで、終わる。


 流石に、あれ程の抜刀術を披露するだけの腕はある……。

 小林は再び刀を振り上げた。刀身は真っ直ぐ上を向いている。

 唐竹が来るな……と清水は察知した。


 相手の防御の上から強引に叩き斬る豪剣、加えて、反撃を許さない連続攻撃。まるで薩摩の示現流だ。初太刀に重きを置き、かわされれば即座に二の太刀へ移行するこの流派に、防御という発想はない。

 ならば、正面からまともに斬り合うより、連撃に繋ぐ隙を突くべきだ。


 そう考えた清水は、太刀を地に水平に寝かせ、切っ先を左後方に向けた。


「えぇい!」という掛け声と共に、小林の唐竹が風を切り迫る。鋭い衝突音を響かせ、再び両者の太刀が交わる。同時に、清水は小林の左側に左足を出した。


 前後方向に傾斜のついた清水の刃を、小林の太刀が滑っていく。きりきりきり、と甲高く鳴きながら、火花を散らさんばかりに両刀は摩擦熱を帯びていく。


 こちらの斬撃を後方に受け流しつつ、側面に移動し、すれ違いざまに斬る算段か……!


 小林は清水の狙いを看破したが、然りとて、勢いに乗った太刀筋を今更変える術はない。

  

 前方への重心移動の流れを無視して、小林は強引に右に飛んだ。慣性と干渉し合い、体は右前方へと流れる。

 間一髪の所で、小林は清水から距離を取る事に成功した。結果、彼は左首筋に軽傷を負った。後一瞬、右へ飛ぶのが遅れていたら、頸動脈へ直走っていた清水の太刀により、首筋から血を噴出させていた事だろう。


 しかし、息つく暇などない。体勢を崩した小林に、清水は返す刀で追撃に出る。

 だが、小林は弁えていた。敵が好機と捉え攻勢に転じる瞬間こそ、最大の好機であると。太刀を右の片手持ちに変えた小林は、不安定な体勢のまま、腕の伸縮と腰の捻りのみで、刺突を繰り出した。


 唐突に眼前に出現した刀の切っ先に、流石の清水も肝を冷やした。眉間に迫るそれを、首を傾け紙一重でかわす。こめかみから、耳の付け根にかけて一筋、浅い切り傷を負った。

 体勢を崩したまま攻撃に出るたァ……とことん守勢のねぇ型だな!


 清水は内心舌打ちしつつ、即座に次の手を打った。刺突をかわした勢いのまま、踏み出した左足の踵を軸に、体を回転させる。

 相手に体勢を立て直す気がないなら、取るべき戦術は一つだ。動きで翻弄して、体勢を完全に崩す――――つまり転倒させればいい。


 清水は小林の背後に回った。小林は、転倒寸前の状態だった。

 貰った! 

 確信した清水の右薙が、小林の背中に迫る。すると小林は、振り返らぬまま、背負った鞘に納刀するかの如く、背面に太刀を差し入れた。


 きぃん、と三度目の衝突音が木霊する。太刀を挟んで背後から斬撃を受けた小林は、叩き飛ばされる形で、前方に小走りした。

 距離を取りつつ橋の手摺に捕まり、体勢を立て直す。小林は振り返り、二人は再び橋の中央で睨み合った。


 背中に鈍い痛みを感じながら、小林は敵の技量を改めて実感していた。剣技、剣速、洞察力。全てにおいて、敵は自身に勝っている。

 深呼吸した小林は、にやと口元を歪めた。こいつだ……こいつを越えてこそ、俺の剣は究極の域に達する!


 清水もまた、小林の技術に驚愕していた。速度と威力を両立させた斬撃、不安定な体勢での戦闘継続力、そして敵の攻撃を利用し体勢を立て直す臨機応変さ。

 恐らくは二十代半ばであろう年頃で、よくもここまで極めたものだ。正直、命を奪うには惜しい才能。残念に思いながらも、小林の剣客としての実力を認めた清水は、本気の相手にしか見せない構えを取った。太刀を左の片手持ちに変え、右手を遊ばせる。


 敵が構えを変えたのを見て、小林は怪訝そうに目を細めた。


 片手持ち……しかも左手だと? どうしてわざわざ力を半減させる? ……まぁいい、我が渾身の一撃、片手で受け止めきれるなら、やってみせろ!


「えぇい!」と声を張り上げ、小林は清水に迫った。刀を地に水平に寝かせた、左薙の太刀筋。

 片手持ちの太刀など、忽ち弾き飛ばしてくれるわ! 


 意気込んだ小林は、互いの間合いに入った瞬間、遊んでいた清水の右手が、小太刀の柄を掴むのを垣間見た。


 決着は、一瞬だった。二人の剣客の間を、一条の雷光がほとばしった。

 鞘から放たれた、地を水平に走る稲妻は、正しく紫電一閃しでんいっせん。これまでの二人の剣戟を嘲笑うかのような、恐ろしく速い清水の斬撃が、小林の頸動脈を断ち斬っていた。 


 右手による、小太刀の逆手抜刀術……太刀と小太刀の二刀流で名を馳せた清水一学の、真骨頂と言える一撃であった。


 血の霧を浴びて、清水の顔片面が濡れる。その傍らで、どさ、と小林がうつ伏せに倒れた。


「何故……ですか……」


 消え入りそうなか細い声で、小林は尋ねた。


「太刀と、小太刀の……二刀流。それ程の腕前……ま、正しく貴方は、清水一学その人だ……」


「だから、最初にそう言ったろう」


「貴方とて、殿に仕え、父上と共に……あ、赤穂と戦われた筈……。どうしてですか? どうして、我々の……吉良家の名誉を、挽回してくれんのですかっ……!」


 か細い声が、震えていた。自らが沈む血の池に、小林は、ぼろぼろ溢れる大粒の涙を溶かした。


「あ、貴方には、忠義がないのか……!」

「分からねぇ。俺も、そいつをずっと探してる」


 川のせせらぎが、柳の葉擦れが、鳥と虫の鳴き声が、返す波のようにゆっくりと、辺りに戻って来た。

 入れ替わるように、小林の魂は冷たい肉体から去っていた。その横顔は、無念と悔しさに歯を食いしばったまま凍り付いていた。自らの死にではなく、愛した者達の汚名を返上出来ぬまま果てる運命を、嘆きながら逝ったのだろう。


 血を拭いて二刀を納めた清水は、小林の遺体に書状を添え置き、瞼を閉じてやってから、立ち上がった。空を仰げば、色艶のある三日月が、柔い光を纏い浮かんでいた。

 どうか、この罪深くも悲しき復讐鬼の魂が、地の底にではなく、あの優しい光の中に向かうようにと、清水は願った。

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