其の七 人を斬る理由

 雲を千切ったような雪が、曇天から降り注ぐ。屋敷の濡れ縁に立った幼き少年は、純真な目でそれを見上げていた。隣には、仕立ての良い着物を着た、白髪の老夫が腰掛けている。少年が老夫に視線を送ると、にっこりと穏やかな笑みが返ってきた。


 その顔を見、少年は心中で呟いた。この方が、僕が将来お仕えするお殿様……。背後を振り返れば、脇差を差した父が、片膝を付き老夫に頭を下げている。槍の名手と名高い父も、若くない。いずれは自身が、その武勇を受け継ぎ、殿とその一族を護り抜いていくのだ……。脳裏に描いた将来像を宿命と見定め、少年は小さな掌をぎゅっと握り締めた。


 幼くも健気なその姿に、彼の父も、老夫も、微笑ましさと頼もしさを感じていた。近い将来に待っている破滅など、知る由もない彼らは、将来への漠然とした希望を目に湛え、遠い曇天を眺めた。


 うっすらと目を開け、人斬りは遠い日の記憶に蓋をした。弓状に盛り上がった弓弦橋の中央、手摺てすりを掴んだ彼は、上空を仰ぎ見た。視界を遮る被り笠の縁をくいと親指で上げると、星のない夜空に、孤独な三日月が浮かんでいた。


 弓弦川が奏でる、さらさらとした流水の調べに混じり、近付く足音が聞えた。人気のない宿場の外れ、弓弦橋の袂に、薄汚い浴衣姿の男が立っていた。


「その背の二つ巴の家紋……。お前さんが、赤穂浪士の生き残りを名乗っている人斬りだな?」

男からの問いに、人斬りは「いかにも」と無表情に答えた。


「赤穂浪士が、何の恨みがあってこの宿場を襲った?」

「ここに恨みなどない。今までもそうだ……目に付く人々を無差別に斬り捨て、俺は国々を流れ歩いてきた」

「そりゃあ随分と傍迷惑な旅だな。単なる殺戮が望みなら、赤穂を名乗る意味はねぇだろう」

「いいや、意味はある。それで少しでも、赤穂の名を貶める事が出来るのならな」


「何?」と、人斬りの言い分を理解しかね、男は眉を顰めた。その表情に答えるかのように、「先に見せた、貴様の見事な剣技に免じ、真実を話そう」と言った人斬りは、被り笠を脱いで川に放り投げた。露わになった面は、頬がこけ、血色の悪い肌に無精髭が生え、清潔感に欠けていたが、目鼻立ちは整っていた。装いに気を使えば、道行く女も振り返る、美丈夫に変わるだろう。


「俺は、赤穂の浪人などではない。俺の名は小林勝才こばやしかっさい。父は、亡き吉良上野介殿に仕えた武人、小林平八郎こばやしへいはちろうだ」


 予想外な名前の登場に、男は驚いた。小林平八郎……槍の名手と言われたその男には、覚えがあった。赤穂事件の際には、共に吉良側の兵力として、赤穂浪士達と戦ったものだ。強者との闘いを望んで参戦した自身と違い、代々吉良家に仕えてきた小林は、主君に対し厚い忠誠心を抱いていたと記憶している。彼は赤穂事件で討ち取られたが、その息子が人斬りになっていたとは、想像し得なかった。


「我が国において、吉良上野介殿は、領民を想う名君と名高いお方だった。そのような殿にお仕えする事は、父上と俺にとって誉であったし、小林家の幸福でもあった。……そう、幸福だったんだ、俺達は。あの事件が起こるまでは。


 赤穂事件によって、殿と父上は討たれた。突然の惨劇に見舞われた俺達吉良家の家臣は、赤穂の浪人共を憎み、然るべき処罰が下るのを待った。……同情が欲しかった訳じゃないが、当然、幕府も世間も、俺達を哀れみ、味方してくれるものだと信じていた。

 だが現実は違った。幕府はあろう事か、被害者たる吉良家に処分を下し、世間は赤穂の浪人共を義士と讃えた。吉良家は断絶し、殿の名は悪人の代名詞となった」


 ふるふると、握り締めた小林勝才の両拳が震えていた。怒り、嘆き、悲しみ、あらゆる負の感情が滲み、端正な顔を鬼の形相に変えていた。それが、幼い時分にあまりに残酷な運命を背負わされた、少年の成れの果てだった。


「こんな……こんな理不尽があるか? 殿が何をしたと言うのだ。家臣を想い、領民に尽くされた善行も報われず、凶刃に倒れられた殿が、何故こんな不名誉を被らねばならない!

 ……俺は、赤穂の浪人共以上に、世間が許せない。殿を醜悪な利己主義者と説き、父上を敵に命乞いする腑抜けと描く。そのお人柄を知りもせず、噂を鵜呑みにして虚言を吹聴する、下劣な民衆共が……!」


 男は、返す言葉がなかった。ほんの数分前までは、情け容赦なく斬るつもりだった。しかし、その思いが揺らぎ始めていた。小林の言葉はあまりに悲痛であり、そして間違っていなかった。


「……確かに、お前さんの言い分も分かる。あの事件に関する世間の受け止め方は、あまりに一方的だ。だけどよ、だからと言って、何の関わりもねぇ人達を斬っていい理由にはならねぇだろう?」


「それだ。関係無い……彼奴らの常套句だ。無関係という大看板を盾に、人を好き勝手に侮辱し、誇りを踏み躙る……! そうして、都合の良い時だけ被害者面をするのだ! 己が無責任な言動は棚に上げてな!

 ……関わりない人達だと? それこそ俺には関係ない。殿の為、父上の為、俺は赤穂の名を汚し続ける。斬って斬って、人の幸福を壊し続けてやる。その身勝手な復讐を、世は忠義と讃えてきたのだからな!」


 話は終わりだ、と言わんばかりに小林は抜刀した。相手が抜いた以上、こちらも抜かぬ訳にはいかない。鍔に親指を立てつつ、無駄と知って、男は口を開いた。


「……お前さんの怒りは、尤もだよ。だけどな、お前さんが何人斬ろうが、薄情な世の中が、お前さんの想いを汲んでくれる事ァない。お前さんを理解してくれるのは世間じゃねぇ、一人一人の人間だよ。真面目に生きてりゃあな、いつか必ずそういう人間と巡り会える。お前さんはまだ若ぇ。ここはぐっと堪えて、その刀納めちゃくれねぇか?」


 小林に返事はない。そうだろうな……と男は納得した。赤穂事件によって、小林の生き方は規定された。今日出会ったばかりの、一介の浪人に諭され、考え方を変えられる程、彼の恨みの根は浅くないだろう。小林を止める事が出来るのは、彼自身の死だけだ。ならば、この憂き世から解放し、往生させてやるのも、武士の情け……か。


 刀の柄に手を掛けた男から、むら……と闘気が立ち昇るのを小林は感じた。戦闘態勢に入ったのだと悟った彼は、橋の袂からゆっくり歩み寄る男に声を掛けた。


「こちらの素性を明かしたのだ。斬り合う前に、そちらも名を明かすのが礼儀であろう」

 一生……と言いかけて、男は口を噤んだ。この場に限っては、死んだ筈の男の名を名乗ろうと決めた。


「清水、一学だ」


 途端、小林は、怒りにかっと目を剥いた。

「痴れ者が! その名は、父上と共に忠に殉じられた英傑の名! 貴様のような薄汚い浪人とは、似ても似つかぬお方だ!」


 罵倒されても、清水は撤回しなかった。小林が、かつての自身にどんな幻想を抱いているかは知らないが、事実は事実だ。一生一学などという無名の流れ者にではなく、かつて父と共に赤穂事件を戦った、清水一学に引導を渡される方が、この悲しき復讐鬼も幾分か報われるだろう。清水なりの配慮だった。


「……ふん。己が名も名乗らずに果たし合いに臨むか。見下げた奴め……! 貴様なんぞに遅れは取らん」


 橋の中央で相対する清水と小林との距離は、一間を切っていた。切っ先を相手に向け、構える小林に対し、清水は、刀三寸抜いたまま刀身を見せない。先の旅籠屋での太刀筋を想起した小林は、恐らく敵は、抜刀術を得意とするのだろうと推測した。


 鞘から抜き放つ勢いを斬撃に乗せる抜刀術は、達人が使えば、抜刀した状態からの斬撃を上回る速度と威力を誇る。現に、小林はそれを目の当たりにしている。ごくり、と喉を鳴らした彼は、集中力を高めた。

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