其の六 嘘の代償

 あれから三日が経った。もがみ屋はすっかり閑古鳥が鳴いていた。がこん、と店内の机が音を立て、小さく跳ねた。また、誰かが店に石を投げ入れたのだろう。


 例の人斬り騒ぎの犠牲者は、奉行所の役人も含めると、十人にも上った。井戸端でのお水の言葉は、噂話となって忽ち周囲に広がり、事件の原因と見なされたお忠は、宿場全体から顰蹙を買った。


 暮六つ刻の空は、まだうっすら明るかったが、街道に人通りはなく、門戸を閉める所も多かった。昨日に続き、今日の来客も無し。客用の畳に腰下ろしたお忠は、疲弊した顔で溜息をついた。心労が、つわりで体調の優れない体に、追い打ちを掛けていた。


「そう浮かない顔すんなや。人斬りがいなくなりゃ、また元通りになるさ」

 厨房にいてもする事がなく、机を濡れ雑巾で拭く亭主が、陽気に言った。

「……ごめんねぇ、あんた」


 ほろりと涙を溢すお忠に「何謝ってんだァ」と明るく亭主は返した。


「今まで俺が、こうして蕎麦打ちに専念してこれたのは、お前の達者な講談のお陰じゃねえか。こりゃあれだ。もう手前一人の身じゃねぇんだ、ちったァ休めっていう、お天道様の粋な計らいだよ。心配ぇすんな。暫くはよ、俺一人に稼ぎを任してくれや」


「あんた……」


 さらりと暖簾が横に流れ、二人の会話を遮った。出入口に男が一人、無言で立っていた。

「いらっしゃい!」


 久しぶりの来客を、亭主は嬉々として迎え入れたが、お忠は不思議と胸騒ぎがした。腰に刀を下げた客は、被り笠を目深に被り、表情を窺わせなかった。この男、どこか様子がおかしい……。

 懸念を抱いた瞬間、お忠は、客の抜刀が自らの夫を斬り裂く様を見た。


「あんた!」


 お忠は絶叫した。亭主は声もなく仰向けに倒れ、その周囲に血の池を広げていく。刀の切っ先から亭主の血を滴らせ、客はお忠に詰め寄った。

 間違いない、とうとう、人斬りがうちの所に来たんだ……! お忠は悟った。逃げようにも、腰が抜けて上がらない。すると突然、その客―――人斬りの歩みが止まった。


「お、お忠……。逃げろォ……!」


 腹這いになり、人斬りの袴の裾を亭主が掴んでいた。血の泡を口の両端から垂らしながら、必死の形相で亭主は叫ぶ。彼に冷たい一瞥を投げた人斬りは、一言もなくその項に刃を突き立てた。

 ぐちゅ、と喉仏が刺し潰される下品な音が鳴り、白目を剥いた亭主は頭を伏せた。彼の肉体から、魂が離別する瞬間だった。


「あ、あんたァ……!」


 お忠の声が震えた。視界を霞める涙が、鼻水が、汗が分泌され、彼女から逃げようとする気力を奪い去った。生きる事を諦めたお忠の眼前に、人斬りが迫る。刀を振り上げた瞬間、ぱちん、という硬い物が弾かれる音を、人斬りは聞いた。


 途端、背後から何かが高速で迫り来る気配を感じ、人斬りは振り向きざまに、太刀を横一文字に振るった。小さな衝突音が鳴り、金属を斬った感触が手に返った。ふと足元を見ると、真っ二つに割れた一文銭の片割れが落ちていた。


「おいおい、人の銭叩き斬るたァ、随分な先客がいたモンだね。旦那の蕎麦が食えねえじゃねぇか」


 無精髭を蓄えた、薄汚い浴衣姿の中年男性が、出入口に立っていた。その姿を見た瞬間、人斬りの視線は釘付けになった。

 眼前に立つ男から醸し出される闘気は、剣客として、見過ごせない強烈さがあった。戦い慣れた剣客は、抜刀せずとも、その佇まいや纏った闘気から、相手の力量をある程度把握出来る。


 この男、俺より強い。

 人斬りは直感した。然りとて、勝てぬと知って退くなど武士の名折れ。矜持もとい男の意地に突き動かされ、人斬りは男に斬り掛かった。


「よしない。人様の店を、これ以上血で汚すんじゃねぇ」


 刹那、互いの刃を頸動脈に突き付け合って、二人の剣客はぴたりと静止した。両刀とも、二、三寸動かすだけで、相手に致命傷を与えられる位置だ。


 人斬りは拭いきれない敗北感を味わった。相手は、こちらが斬り掛かる動作を確認してから抜刀し、こちらの剣速に追いついた。後出しでなければ、確実に敵に軍配が上がっただろう。


「宿場外れの弓弦橋で待つ。必ず来い」


 亭主の血を拭い、納刀した人斬りは、出口に歩を進めつつ言った。男の返答を聞く前に、二つ巴の家紋が浮かんだ人斬りの背中は、暖簾の向こうに消えていた。

 刀を納めた男は、片膝を付き、足元で伏臥ふくがした亭主に近付いた。白目を剥いて息絶えた彼の瞼を、そっと閉じてやる。


「一生さん……」


 背後からお忠の声が掛かる。振り返った一生一学は、「忠告が現実になっちまったな、お忠さん……」と言って彼女に歩み寄った。


「一生さん、後生だ。私を斬っとくれ」

輝きの失せた目で見上げ、お忠は言った。


「お忠さん、馬鹿な事言っちゃいけねぇ」

「私はもう終わりだよ。宿場中の嫌われ者になって、旦那は逝っちまった。私一人生き残って、どうしろってんだい……!」


 わなわなと下唇を震わせて、ぼろぼろと大粒の涙で頬を濡らす。間の悪いつわりの波に襲われ、「うっ」とお忠は口に手を当て嘔吐感を抑えた。前のめりになった所を、一生に抱き留められた。


「ほら。それが、お前さんが生きなきゃなんねぇ理由だ」

 溢れる涙で、僅かに光が戻った瞳が、一生を見つめる。


「前に、旦那が言ってたぜ。男って奴ァ、誰かに尽くす事に、幸せを感じる生き物だって。侍が殿様に尽くすみてぇに、お忠さんに尽くす事が手前の生き甲斐だってね。だから旦那は、命を賭してお前さんを護ったんだろう」


 お忠が肩を上下させて泣きじゃくる中、一生は、新たな生命を宿して膨らんだ、彼女の腹を優しく撫でた。


「お前さんが命を賭して護るべきは、ここにいる子じゃねぇのかい?」

「うっ……。私にゃ、無理だよ。私はあの人みたいに蕎麦が打てる訳でもない。私には何もないんだよ」


「確かに、お前さんには、旦那みてぇな美味い蕎麦は打てねぇかもしれねぇ。だが、お前さんは話が上手ぇ。それァ旦那にも真似出来ねぇ、お前さんの武器だろう」

「この宿場に、私の話を真剣に聞いてくれる人なんて、いやしないよ……」

「心配なさんな、お忠さん。泊めて貰った礼だ、俺が少し手ぇ貸してやる。今から言う物を、持ってきて貰えるかい?」

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