一学伝
さとう
其の一 忠臣蔵の夜
松と石畳の庭園が、白粉で化粧をしたようだった。日没とともに降り始めた雪が、吉良邸の敷地全体を白く染め上げていた。
そこに飛び交うのは、男達の咆哮と断末魔、そして鮮血。
元禄十五年十二月十四日、主君
迎え討つ吉良側の兵は百人にも及んだが、戦況を有利に運んだのは赤穂浪士達だった。次々に斬り伏せられていくのは吉良の兵ばかりで、浪士四七人は一人として欠ける事はなかった。正しく猛者の集団だったのである。
しかし、そんな彼らの手を焼かせる
「見よ、
べっとりと返り血を浴びた一人の赤穂浪士が、指をさし男の名を叫んだ。庭の小池に掛かるアーチ型の橋の上、藍色の羽織を着た剣士が、刀を腰に下げ立っていた。
「どけ! 奴は俺が斬る!」
刀を振りかざした数人の浪士が、橋の袂から襲い掛かる。鋭い金属の衝突音が木霊し、直後、浪士は目を瞬いた。得物の刀身が欠けている。眼前には、いつの間に抜いたのやら、両手に刀を持った清水の姿があった。
「これが、清水一学の居合……!」
途端、腹に鈍い衝撃を感じた。橋から蹴落とされた浪士が、凍りついた池の水面を粉砕する。見下ろす清水の視線は、冷たかった。
「拍子抜けだ、赤穂浪士」
強者との死闘を所望し参じたのだ、こうも甲斐のない奴ばかりでは困る……!
双眸にしんとした怒りを湛え、清水は手中の刀をくるくると踊らせる。橋の袂で構える浪士も、清水に気押され、攻めあぐねていた。
「清水一学か……彼奴は俺に任せろ。貴様達は吉良殿を探せ」
背後から掛かった声に振り返り、その顔を見て安堵を浮かべた浪士達は、「は」と応じて庭を後にした。袂に一人残った剣士は、ただならぬ闘気を醸し、清水の口角を上げさせた。
「名を聞こう」
「亡き浅野内匠頭が家臣、
その名は清水にも覚えがあった。堀部安兵衛……高田馬場の決闘で三人の剣客を
「そういう貴様は二刀流の清水一学だな。斬る前に問いたい。貴様は何故、剣を取る?」
「決まっている。我が剣で天下頂きを獲る為よ。貴様ら、猛者共の躯を山と築いてな」
「つまり私欲か。哀れな……貴様には忠を誓い、命捧ぐ主君はおらんのか?」
「忠なぞ犬の飯よ。そんな馴れ合いは斬って捨てる」
むら……と堀部の闘気が湧き上がるのを清水は感じた。忠道を侮辱された武士の怒りが双眸に宿り、清水を睨み据える。
「相分かった。ではその身に刻んでやろう、忠義の剣を」
その言葉を合図とするかのように、二人の剣士は戦闘態勢に入った。外の動乱が遠退き、互いの挙動に全神経を集中させる。
先に動いたのは、堀部だった。腕を縮めて切っ先を前に向けると、清水目掛けて橋の袂から一気に駆け寄る。繰り出された刺突は空を突いた。ひらりとかわした清水は、腕を伸ばしきった堀部の右背面を取った。
その一撃に、清水は失望していた。あの堀部安兵衛の攻撃が、こうも単調かつ無謀とは。相手の出方も窺わず、初太刀の勢いに身を任せるなど愚の骨頂。何が忠義の剣だ、期待させおって……!
振り上げた刀を、怒りに任せ斬り下ろそうとした瞬間、清水は、自身の姿を捉えている堀部の冷静な片目を見た。
かわす事を読んでいた……? 誘い込まれたか!
それが、清水一学の最期の思考だった。直後、彼は戦場には場違いな程美しい、一筋の線を見た。
視界を一直線に分断するそれは、月光を柔らかく反射する、上質な絹弦のようであった。なんと、艶やかな……。戦いも忘れ見惚れた刹那、清水の目は赤い爆発を捉えたが、それが自身から噴出した血であるとは認識出来なかった。
隙だらけの刺突に誘われ、大きく太刀を振り上げた清水を、振り向きざまの堀部の左切り上げが捉えた瞬間だった。
清水はうつ伏せに倒れた。その目に既に意識はなく、積雪の上に血を撒いて、紅白を彩った。
流れ雲が月明かりを遮り、辺りから光を奪った。刀を薙ぎ血を払った堀部は、影の落ちた清水の躯に一瞥を投げた。
「先に逝って待っとれ、清水一学。あの世で
雲が切れ、
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