其の四 蕎麦屋の忠義

 風が柳の葉を揺らし、さあさあと淑やかな調べを奏でている。そこに下手な口笛を重ねる橋上老益は、上機嫌に川の岸を歩いていた。宿場を横断する弓弦川の向こうに、彼の住まいはある。川を跨ぐ弓弦橋に足を踏み入れた所で、彼は前方に見慣れない人影を見た。


 その者は、派手な柄の袴に紺の羽織を着て、被り笠を目深に被っていた。背格好からすると男で、腰には刀を下げている。周囲に人気はないので、余計に目についたが、妙な出で立ちだな、以上の感慨は起こらず、二人は橋の中央ですれ違った。


 途端、ちゃきと鯉口を切る音が響くや否や、橋上は糸の切れた人形のように倒れた。血溜まりに、瀕死の体が沈み込んでいく。橋上は、自らの身に何が起こったのか理解出来なかった。


 すれ違いざまの抜刀で、相手の頸動脈を切断したその男は、紙で刀の血を拭き取りつつ、足元の橋上を無感情に見下ろした。状況すら把握出来ずに冷たくなっていく間抜け面の上に、懐から取り出した書状を放り落とす。

 納刀した男は踵を返し、立ち去っていった。その背中には、二つ巴の家紋が浮かんでいた。


 ***


「悪いですねぇ、夜も蕎麦、朝も蕎麦で」

 眉尻を下げて朝食を運んできた亭主に、「いや、おたくの蕎麦は何度食っても飽きんよ」と一生は返した。お世辞でない、彼の本心だった。


「そうかい? 嬉しいねぇ……そう言ってくれるお客はなかなかいねぇ。皆、女房の話が目的で来るからよ」


 華奢な体躯に猫背の亭主は、畳にあぐらをかく一生の眼前に蕎麦を置いた。合掌して軽く頭を下げ、麺をつゆに浸しつつ、一生は尋ねた。


「そういうお上さんは何処へ?」

「井戸端でさぁ。この宿場の朝は早いんで」

「なるほど。道理で、旦那が作った朝食を、旦那が運んで来てる訳だ」


「いやぁ、こんだけしたって働き足らねぇくらいです。……あたしゃね、蕎麦打つくれぇしか能のねぇ男だ。そんなあたしがこうして店持って、食うに困らねぇでいられんのは、全部女房のお陰だ。本当、あたしにゃァ勿体ねぇくらい良い女ですよ」


「想ってんだねぇ、お上さんを。まぁ手前の女房大事にすんのは結構な事だがよ、旦那、たまにゃ男らしい所見せねぇと、舐められちまうぜ」

「いいや、舐められるとか、そんな事ぁどうでもいいんだ」


 ずるずると麺を啜る一生は、ひょいと視線を上げ、亭主の顔を見た。


「可笑しな事言うようだけどよ、あたしゃね、男なんてのは、犬と大差ねぇと思うんです」


「ほう、犬かい?」


「へぇ。何だかんだ見栄張って、格好付けても、結局男ってやつぁ、誰かに尽くす事に幸せを感じる生き物でありやしょう。一生懸命走り回って、そんで相手に褒められりゃあ、嬉しくて尻尾振っちまうってモンです。

 お侍さんの言う忠義ってのも、そういう気持ちを、格好良く言ってるだけなんじゃないかねぇ……。ま、あたしゃ商人なんでね、命捧げるようなお殿様はいねぇ。そんじゃ寂しいから、女房に代わりになって貰ってるって訳です」


 一生は暫し、食うのも忘れて亭主の話に聞き入った。

 誰かの為に尽くすという生き方……。主君にしろ、女にしろ、利他に徹して男の本懐を遂げようとする遠回りな利己、それが忠義なのだろうか?


「はっはっはっ」と、一生はおもむろに笑った。


「なるほど、殿様女房って訳かい。いやぁ、面白いねぇ旦那。蕎麦は美味ぇし話は面白ぇ、気に入った。俺ァここが気に入ったよ。今日は朝食食ったら出るがよ、また近いうちにお邪魔させて貰いてぇな」


「そりゃあもう、いつでも来て下せぇ。一生さんなら大歓迎だよ」


 頷いた一生は机上に視線を戻し、朝食の続きを再開した。蒸し暑い朝に、ひんやり冷たい麺が喉越し良く胃に流れ落ちていく。本当に、美味い蕎麦だった。


 

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