其の三 安兵衛の娘

 四方を木の壁で囲まれた六畳程の部屋に、もくもくと白い霧が立ち昇っていた。

「ああ……」と至福の息を漏らし、一生は樽の縁に後頭部を乗せる。

「湯加減は?」


 格子の向こうから、薪を燃やすお忠が尋ねてきた。


「良い塩梅あんばいだ」

 三日ぶりの風呂は、体に蓄積した疲労と垢をことごとく奪い去っていく。この世の極楽浄土は、湯ん中にこそあるモンだ……。一生は、全身でしみじみと感じていた。


「一生さん、脱藩浪人なんですってねぇ。生まれは?」

「三河の国だよ」


「はぁ、三河。そりゃまた遠くから……。何か、志しあっての脱藩ですかい?」

「やぁ、志しって程大層なモンじゃないよ。あるものを探してるんだ。一つの所にいちゃあ、見つからないものをね……」


「へぇ。何だか分からないけど、見つかるといいですねぇ」

「そう言うお忠さんは、赤穂浪士の肉親なんだってね?」


 格子の向こうから聞こえてくる声が、少しだけ得意気になった。


「そうですとも。さっきも話したけど、私の父はね、赤穂義士の中でも随一の剣士と言われる、堀部安兵衛でさぁ。私の母は正妻ではなかったから、父とも毎度会えた訳じゃないけど、稽古場なんかにゃあ、度々連れてって貰ったもんですよ」


「……お忠さんや。何も、お前さんの素性を疑ってる訳じゃねぇ。だがな、あの武勇譚は、聞く人が聞きゃあバレちまうぜ」


 穏やかに流れていた会話に、ひんやりとした冷気が入り込んだ。胸が早鐘を打ち、新薪を焚べようと動いたお忠の手が止まる。


「……何言ってんだい、一生さん。私が嘘付いてるとでも?」

 硬くした声を、お忠は格子の向こうに投げた。すると、ざぶっと湯がうねる音がした。


「お忠さん、ちょっとこっち見てみぃ」 


 訝しげな目で風呂場を覗くと、樽風呂の中で仁王立ちする一生の上半身が見えた。夫のそれとは比べ物にならない、力強く隆起した胸筋と腹筋に、一筋、痛ましい刀傷が刻まれている。


「これァな、お前さんの言う堀部安兵衛に付けられた傷だ。俺ァ二十年前のあの日、奴の剣を受けて生死を彷徨った。……いいや、一度あそこで死んだんだ。だからよ、奴の剣技に関わる話は、聞きゃあ真偽の程くらい分かんのさ」


 一生の傷を、お忠は丸い目で見つめた。二十年前と言えば、丁度赤穂事件が起きた年。〝一学〟という彼の名前が、不意に脳裏に浮かび、彼女は肝を冷やした。


「お前さん、まさか……!?」


 再び樽の中に身を沈めた一生は、話を続けた。


「嘘を付く事自体が悪い訳じゃねぇ。昔、何処ぞの偉ェお坊さんもそうおっしゃってるしな。ただ、赤穂浪士の話は、扱いに気ィ付けなきゃならん。あれに関しちゃ、まだケジメ付けられてねぇ連中も多いからな」


 お忠は返す言葉がなかった。一生の言葉に根拠はなかったが、お忠はそれを真実と受け止めた。そうせざるを得ない貫禄と重みが、彼の言葉にはあった。


「……この事は、宿場の皆には黙っといてくれませんかい? 確かにあんたの言う通りさ……だけど、私ゃ何も、皆を騙くらかしてやろうって訳じゃないんだ。ただ、皆に楽しんで貰えりゃいいなって。……まぁ、お腹の子の事もあるし、店をもっと盛り上げたいって気持ちも、正直あるけど……」


「心配なさんな、分かってるよ。言いふらしたりはしねぇ。お前さんの嘘にゃ悪意がねぇ。ちゃんと、皆を慮る気持ちがある。俺ァね、お前さんの講談の練度を上げたかっただけさ」


「ふふ。なんだ、そういう事ですかい。……ありがとう、一生さん」


 一度は強張らせた表情筋も、すっかり弛緩させて、お忠は手中の火鋏を動かした。一夜限りの、密やかな真実の吐露……それで終わると、この時の彼女は思っていた。その安心感から、お忠は、物陰から走り去る足音を聞き逃していた。

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