第130話 感情をどこに持って行ったらいいのかわからない……
家に戻ったリカルドはシルキーに籠を渡し、そのままいい匂いの漂うキッチンを通り過ぎて庭に出た。
目的は日課の水やりだが、今日はシルキー相手に挙動不審にならないための
ただ心構えをしていたおかげか出掛ける前程の動揺はなかったので、この分なら大丈夫だなとリカルドは一人無駄に頷き水やりを終えて戻った。
〝ご飯の用意、出来ていますよ〟
「ありがとシルキー」
勝手口のドアを開けるとテーブルには既に朝食が用意してあり、靴についた雪を落としながら礼を言うリカルド。最後に魔法で身体を綺麗にして、内心うきうきしながらテーブルについた。
本日の朝食は細く切ったジャガイモのガレットとふわふわのスクランブルエッグ。それに付け合わせの温野菜に焼きたての丸パンと野菜のスープだ。
さっそく手を合わせてガレットを一口食べれば、外カリカリの中しっとり。塩味が効いたハッシュドポテトの親戚みたいな美味しさで、その横のスクランブルエッグは逆に塩気控えめ。丸く柔らかい味わいは、ガレットとの相性が抜群だった。
箸休めのようにある温野菜にはオイル系のドレッシングがかけられ野菜の甘みが引き立てられており、
そして暖かなスープも身体に染み入るようで、野菜と肉団子の共演に大満足。丸パンも食べてみれば中からチーズが出てきて、そのちょっとしょっぱい感じがパンのほんのりした甘さと調和して文句なしの美味しさだった。
順繰りローテンションしながら食べれば幸せな時間はあっという間で、完食して落ち着いたリカルドは、あれ?とそこでようやく気が付いた。
「シルキー、リズさんって寝てる?」
昨日だいぶ早くに寝たので、起きてくると思っていた(そしてご飯を目の前にして忘れていた)リカルドが尋ねると、シルキーは苦笑して頷いた。
〝仕事を無事に終えられて、ほっとされたのだと思います。熟睡されていますよ〟
「熟睡……そっか。目が充血してたもんねぇ……疲れが溜まってるか」
そしたらゆっくり休んでもらうのがいいねと返し、食器を流しに持っていってシルキーと一緒に洗うリカルド。
〝今日は夕食はどうされますか? 食べてから出られますか?〟
「んー……」
教会で何か出されるかな?と思ったリカルドだが、出されても食べれるし問題ないかと頷いた。
せっかく帰ってきたので、シルキーのご飯を三食しっかり食べたいリカルドである。
「いつもの夕食時よりも早くなると思うけど食べて行きたいな。あ、でもお菓子作ってると大変か……」
〝お菓子の方は仕込みさえすれば、焼いていくだけになると思うので大丈夫ですよ〟
「本当? じゃあお願いしていい?」
〝はい〟
シルキーはお願いされて嬉しそうに微笑むと、食器を水切りに立てかけ、食後のお茶にと沸かしていたお湯をティーポットに注いで茶請けのお菓子とともにトレイに載せ、リカルドを居間へと促した。
「俺もお菓子作り何か手伝うよ。混ぜたりとか洗い物とか簡単な事は出来ると思うから」
〝ありがとうございます。では先に下拵えをするので、お手伝いをお願いする段階になったら声を掛けさせてもらいますね〟
「うん、なんでも言って」
やる気を見せるリカルドにシルキーは笑って頷き、お茶とデザート代わりの茶請けをテーブルにセットしてキッチンに戻った。
一人になったところでリカルドはソファに腰かけ、カップを手に取って一息。柑橘系の爽やかな香りがする紅茶に内心ほころんた。
茶請けの方は茶褐色の小さな四角い塊で、なんだろうと疑問に思いながらリカルドが口にすると、黒糖のようなサクリとした食感をしており、それでいてドライクランベリーのような甘酸っぱさが広がった。
(あ。美味しい)
日本でいうところのサンザシの砂糖菓子に近いのだが、そちらを食べた事がないリカルドはベリー系の何かかな?と思いつつ、さて。と頭を切り替えた。
(先にやれる事をやっておこう)
シルキーの手伝いに万全を期すべく、昨夜後回しにしたルゼへの連絡や、明後日に控えている剣舞の確認、それからラドバウトに作った認識阻害の魔道具を渡す事を指折り上げていき――そういやラドの護衛の話はなんだったんだろ?と、朝市での話が頭に浮かんだ。
(考えてみたら、俺が何も聞いてないってのはちょっとおかしいような気も……)
仮に守秘義務的なものがあったとしても、今回の魔族侵攻に関してリカルドは裏側を知っている当事者だ。であれば、リカルドもその守秘義務を守る側に位置しているわけで、わざわざ情報を伏せられる事はないのでは?と、そのように思えてきた。
(だとすると魔族の侵攻とは別件ってことか?)
何か別の問題が発生した可能性にリカルドは思い至り、急ぎ確認すれば——まぁ問題といえば問題だが、リカルドが心配したような別件の問題が起きていた訳ではなかった。
(……ハニートラップ回避のためか)
そういやそういう可能性もあったわ……と額を押さえるリカルド。
何があったのかというと、大々的に名が売れたラドバウトを自国に取り込もうと大国から小国まで多くの国が動き出し、その手段としてハニートラップが採用され、
タイミング的には恋人を失った直後(という設定)なので普通なら別のアプローチを試みそうなものなのだが、これは元々ラドバウトがどこの士官の話も断っており、列国のお偉方が精神的に弱っている今なら逆に狙えるのでは?と、ワンチャン数打ちゃあるかもでトライしたためだ。
ラドバウトもAランクやSランクに昇格した時に女性に言い寄られるという経験はしていたため、ある程度対処は心得ていたのだが、いかんせん今回はそのトラップの数が多かった。しかもハニートラップだけじゃなく単純にガッツのある女性にも迫られていたので、その分も加算され、あしらってもあしらっても引く事の無いあの手この手のアプローチに苦慮する事になってしまっていた。
その様子を偶然見かけたクシュナが助け舟を出し、自分の護衛とする事で簡単に近づけないようにして守ったのが『英雄が聖女の護衛を引き継いだ』という話の顛末である。
ちなみにクシュナが助け舟を出した理由は、一度リカルドの家でラドバウトと会った事があり、ラドバウトの事をリカルドの友人だと認識していたので、絡まれて疲れている様子のラドバウトを見て『リカルドさんの友達を助けなきゃ』と思ったからだ。
そしてこの経緯がリカルドに伝えられていなかったのは、ラドバウトが『リカルドが知れば気にするだろうから』とクシュナ達に伏せてもらえるよう頼んだからである。
(クシュナさん、めっちゃいい子。そんでラドはもうほんと……)
息を吐いて目元を覆い、言葉なく(心で)涙するリカルド。
尚余談だが、クシュナの心根が優しいのは確かだとして、ラドバウトがクシュナ達に伏せるよう頼んだのは『リカルドに知られて変に動かれるのが怖いから』という理由からだ。リカルドに気を遣わせたくない、などという理由は全体の一割程度に留まっている。
(でもそういう事なら知らない振りしてた方がいいのか……いやだけど、ラドがクシュナさんの護衛についてるって話は出回ってるっぽいしな……知らないのは不自然かもだし……)
んー……とリカルドは考えて、やっぱ知ってる事を伝えてしまおうと決めた。
ラドバウトの事情を自分に伏せるという事はクシュナに隠し事をさせるという事で、たぶんクシュナさんはそういうの苦手だろうな……と思ったからだ。
ラドバウトには悪いがそこはきっちり気にさせてもらって、何かやらせてもらおうと考えを固めるリカルド(ありがた迷惑)。
早速ラドバウトに連絡をとっても大丈夫か確認して、今日までクシュナの護衛をしているようだったので、じゃあ後でと考えて。
あれやこれやと済ませられるものをさくさくと片付け、リカルドはシルキーに呼ばれて手伝いに向かった。
そうして夕方。
リカルドは早めの晩御飯(洋風ピザとジャガイモのポタージュ)を食べた後に、粗熱の取れたお菓子を空間拡張と時間停止の効果をつけた袋に詰めて、じゃあいってくるねと家を出た。
日が落ちかけた外は朝方同様冷え込みが強い。だが知覚はしても問題にならないリカルドは、寒さに背を丸め鼻を赤くして足早に家路につく人々を尻目にいつもの軽い足取りで教会へと向かい、着いた頃にはすっかり暗くなって明かりが灯された正門をくぐった。
そのまま礼拝堂の中へと入ると、そこには変わらず静謐な空気が漂っており、女神像に深く祈る人の姿があった。
その光景を端に寄りながら何とはなしに眺めていたリカルドは、ん?と、ある事に気づいた。
(
人の吐く息がさほど白くなかったのだ。
視線を動かせば等間隔に並ぶ柱の下に見慣れぬ白い箱のようなものがあり、鑑定すればそれらが礼拝堂全体の空気を温めているのがわかった。
(一つ一つが温めてるんじゃなくて、相互干渉して礼拝堂全体がムラなく温まるようにしてるんだな……)
複数個で一つの効果を持つタイプの魔道具もあるのかと興味深く見ていると肩を叩かれ、振り向けばジョルジュがいた。
ジョルジュはこちらへと視線で示し、リカルドも無言でついていった。
「今日は神官長もダグラス神官も時間が取れないので、クシュナ様のところへ直接案内します」
「了解です」
見慣れた小部屋に案内され、ジョルジュから受け取った神官服を外套を脱いだ上から被るリカルド。それから忘れない内にと、小さな袋を取り出した。
「ジョルジュさん。これダグラスさんに差し入れしたいんですけど、渡してもらったりとかって出来ますか?」
「差し入れ?」
「お菓子(
クシュナへの差し入れを作っている中で、そういやダグラスさんにも差し入れしようと思ってたんだと思い出し、急遽追加で作った代物である。
最初は神酒を使おうとしたリカルドなのだが、そちらは焼いたりして熱を加えたり揮発したりすると効果が消えてしまう事がわかり、いろいろ検討した結果
ちなみに鑑定しても『滋養強壮剤(強)入り』としか出ず、毒見したとしても身体の調子がすこぶるいいな?ぐらいの感覚しかないので、
ダグラスの多忙ぶりを知っているジョルジュはリカルドのお菓子という小さな気遣いに苦笑して受け取ると、毒味とかしてもらっても大丈夫ですからと言うリカルドに首を振って、後ほど渡しておきますと請け負った。
元気になったらなったでさらに仕事をやらされそうでもあるが、まぁその時はその時。教会内の仕事の割り振りは内部の人間で頑張ってくださいと内心エールを送っておくだけの適当なリカルドである。
とまぁそんなやりとりをしながら二人で小部屋を出てクシュナの部屋へと向かったのだが、
「……警備、すごいですね」
聖女達が住まう奥の区画に入った途端、以前と比べて目に見えて警備に立つ騎士の数が増えていた。
「クシュナ様が戻られた今、不届きな事を考える輩がいますから」
「不届きって……今のクシュナさんを狙うのは人類を敵に回すようなものじゃないですか?」
よくやりますねと驚くリカルドに、危害を加えようとしてくるところは邪教関係ですからと目を細めて答えるジョルジュ。
あ、なるほどとリカルドは納得した。その手合いなら確かに躊躇わないなと。
ついでに、ちょっと調べて消しとくかな?とナチュラルに
そのまま人が多かったので雑談などはせず無言で進み、クシュナの部屋の前までいくとジョルジュはドアの前に立っている教会騎士二人に向かって左手を胸に当て敬礼した。
教会騎士二人も同じく左手を胸に当てて敬礼をジョルジュに返し、交代ですとジョルジュが告げれば黙礼してその場から離れた。
そうして彼らが完全に遠ざかったのを確認してから、ジョルジュはドアをノックし、
「ジョルジュで——」
「リカルドさん!」
言い切る前にドアが勢いよく開き、顔を見せたのはクシュナだった。
そしてその弾んだ声と笑顔の向こうではバルバラが頭が痛そうに、けれど仕方がなさそうな様子で首を振っており、ジョルジュもこうなる事がわかっていたのか、無言でリカルドの背を押してクシュナごと中へと入れると、自分は入らずパタンとドアを閉めた。
「ええと、お久しぶりです。お元気そうで良かったです」
何となく押し込まれた?とリカルドは思ったが、とりあえず挨拶が先だと頭を下げればクシュナは元気よく頷いた。
「リカルドさんも! 無事だって神官長から聞きましたけど、もう本当に心配したんですよ!? 最初に聞いた時はとんでもない内容だったから——」
「クシュナ様」
そのままそこで話し出したクシュナに後ろに控えていたバルバラが声を掛けると、クシュナは口を押さえた。
「——っと、そうだった。まずはお礼でした」
クシュナは表情を改めて姿勢を正すと浅く腰を落として胸の前で両手を重ね、聖女然とした姿で静かに頭を下げた。そしてそれに倣うように後ろのバルバラも深く頭を下げた。
その様子に、あっ、いやそれはと慌てて手を上げるリカルドだが、頭を下げていたクシュナはそのまま真摯な声で続けた。
「危険を省みず人々が暮らす地を守ってくださりありがとうございます。ラクサさんやカッサ様も、再び見える事が叶えば礼をと言われていました」
「いえいえいえ。全然そんな。頭を上げてください。バルバラさんも。あの時は出来る事をしたまでで、それはあの場に居た誰もが同じですよ。礼を言われるような事ではありませんから。それよりも最後までちゃんと護衛せず、申し訳ありませんでした」
改まって礼を言われるのは本当にもう勘弁してほしくて、ついでに謝罪するリカルド。
その心底困ったような声音にクシュナは下げた頭の下で、あぁ本当にリカルドさんだなぁと実感して笑み崩れ、頭を上げた時には元の調子に戻っていた。
「私には
「あー……それは、はい。確かに。申し訳ない」
腰に手を当て話すクシュナに、そりゃいきなり聞いたらびっくりするよなとリカルドが頭を掻いて謝ると、クシュナはにっこりと笑った。
「まぁ私はリカルドさんなら大丈夫だろうなって思ってましたけど」
わかってましたよ。と言わんばかりにドヤるクシュナ。それからさあさあどうぞ座ってくださいと促す姿に、リカルドは苦笑して勧められるまま椅子に座った。
「リカルドさんはこちらに戻ってから何をされていたんですか?」
「こっちに戻ってからですか?」
問われて、何してたっけ?と思い返すリカルド。
テーブルにバルバラが軽食や菓子を並べていく様子を眺めながら、
「話題になるような事は
「フロウビット?」
「半妖精の仲間です。子供だったから子犬みたいな見た目なんですけど、ふわふわの毛で触ると柔らかくて、温厚で人懐っこいので樹くんとかにすりすりしてました」
樹くんも可愛がっててよく相手してましたよと計算高かった事は伏せて言えば、口に手を当てたクシュナから、なにそれ触ってみたい……と心の声が漏れていた。
「今はもう野に帰したので家にいないんですけどね」
「そうなんですか……」
わかりやすく残念そうな顔をするクシュナに、幻影で姿形を見せようかと思っていたリカルドはやめておいた。見たら余計に残念がりそうなので。
「クシュナさんの方はどうですか? 忙しくて大変だと思いますが」
「うーん……忙しいですけど、でも神官長が無理な事はさせないって言ってくださってて、戻ってきてからはローリア様も会食とか面会とかに付き添ってくださってて、おかげでなんとかなってるかなあ? みたいな?」
えへへと誤魔化し笑いを浮かべるクシュナだが、その横でお茶を淹れていたバルバラがそんな事はないというように小さく首を振っているので、十分なんとかなっているし頑張っているんだろうなと思うリカルド。
「これ、よければ皆さんでどうぞ。シルキーに作ってもらったお菓子です」
ジョルジュに渡したものと同じ小さな袋(こちらは普通のお菓子)を取り出してクシュナに渡せば、クシュナは目を丸くした。
「シルキーさんの?」
「はい。結構量を入れたつもりなので、暫くは楽しんでもらえるかと思います。時間停止も掛けているのでゆっくり食べてもらっても大丈夫ですし」
「…………どうしよう、すごく嬉しいです。シルキーさんのお菓子おいしいから」
そっと小さな袋を胸に抱いたクシュナは、微かに涙ぐんでいた。
そこには純粋にシルキーのお菓子を貰えて嬉しいという気持ちもあったが、リカルドの家で聖女見習いとして大きな役目を負う事なくのびのびと生活していた頃を思い出し、今との違いに言いようのない寂しさを感じてしまったからでもあった。
「あ、鑑定とか毒見とか必要でしたら――」
「ヒルデリアで貴方が持ち込まれた
少しばかり見えた涙に、ちょっと動揺して無粋な事を言い出したリカルドをバルバラが一刀両断。良かったですねとクシュナから小さなを袋を預かった。
「ありがとうございます。ナクルくんやバルバラさん達といただきます」
瞬きで涙を散らして笑顔でお礼を言ったクシュナは、リカルドさんのところでやってた訓練を今も続けてるんですよと、その場で以前は作れなかった精巧な葉っぱの形を魔力で作って見せて、さらにリカルドがやったようにぷくっと膨らませて魔力の風船を完成させた。
リカルドはまさかそこまで出来るようになっているとは思わず、驚いて本当にすごいと手を叩いて賞賛。褒められたクシュナは嬉しそうに喜んで、あの頃はナクルくんに先に行かれて焦ってたんですよねと思い出話に花が咲いた。
途中、ナクルくんもそろそろ時間が取れるはずとクシュナがバルバラに頼んでナクルも合流して、「お姉ちゃん、ちゃんと帰ってきたよ!」と心からの笑顔を浮かべるナクルにリカルドは癒されて。
何を話していたの?と尋ねるナクルに訓練の話をすれば、ナクルも張り合うように上達したと披露して、クシュナとリカルドですごいすごいと手を叩いて褒めてと、わいわいがやがやと賑やかに時間は過ぎていった。
そうして夜も更けだした頃にはナクルが寝落ちして部屋へと戻され、クシュナも明日が早いからという事でお開きとなった。
リカルドはずっとドアの前の見張りについていたジョルジュに再び案内されて、来た時と同じ小部屋に入り――そこに先程見送ってくれたバルバラがいて驚いた。
「バルバラさん?」
転移?と思ったリカルドだが、内部の人間が使う最短の通路を使っただけである。
「申し訳ありません。どうしてもお伝えしたい事があり、少しだけお時間をいただけないでしょうか」
「それは構いませんが……」
何の話だろうと思いつつ、リカルドはバルバラの視線が自分の後ろにずれたのを感じ、つられるように振り向くと、ジョルジュが部屋を出たところだった。
あ、一対一の感じなんですねと閉まるドアに思うリカルド。
「ええと、お話というのは……?」
バルバラに向き直って尋ねると、バルバラは感情の読めないいつもの謹厳な表情で口を開いた。
「この話をするのは私の独断です。神官長もダグラス様も、クシュナ様の意を汲んで貴方に伝えるつもりがありません。ですので、ご不快に思われましたらその責は全て私にございます。それを先にご理解くださいますようお願いいたします」
一対一という状況に上乗せするような重い前置きである。
リカルドは表情を改め、何を言われるのかわからないが、とりあえずわかりましたと頷いた。
バルバラはそれにありがとうございますと頭を下げ、徐に話し始めた。
「今日クシュナ様は、貴方が龍に食べられたと聞いても大丈夫だと思っていたと、そう言われていましたが……覚えておられますか?」
「それは、はい」
さすがに数時間前に聞いたばかりの話なので、ドヤっていたクシュナの顔が頭に浮かび覚えていると頷くリカルド。
バルバラは一度目を伏せると、低く抑えた声で続けた。
「その話、実際は違うのです。クシュナ様はそのように思えていなかったですし、クシュナ様自身大丈夫と言えるような状態ではありませんでした」
「……え?」
リカルドの口から戸惑いの声が漏れた。
リカルドもクシュナの様子から、事実とは違いある程度話を盛ってるのだろうとは思っていた。しかしクシュナ自身が大丈夫と言える状態ではなかったというのは、完全に予想外だった。
あの腕輪をしている限り危険はない。それは間違いない筈で、どういう事だと混乱するリカルドにバルバラは続けた。
「ラクサ様から貴方の計画を教えていただくまで、龍に食べられたと聞いて恐慌状態に陥る寸前だったのです。なんとか聖女として役目をこなさなければとご自分を保っておられましたが、人目につかないところではずっと震えておられました」
自分の護衛になってしまったから、ここに連れて来てしまったから、龍に食べられてしまったのではないか。自分のせいで龍に食べられてしまったのではないか。
そんな自責の言葉をずっと口にされていましたと告げるバルバラに、何が大丈夫ではなかったのか理解したリカルドは、無言で額に手をやった。
そんな事を思わせていたのか……と冷や水を浴びせられたような心地で、今日顔を合わせてからずっと楽しそうにしていたクシュナを思うと、言葉が出なかった。
「あの時の貴方の行動を否定しているわけではありません。最善の事をしてくださったのだと思っております。感謝もしております。それは間違いありません。
ただ、今後についてお願いしたいのです。お仕事柄、無茶をしないでいただきたいとは申せないとわかっておりますが、それでもご自分の身体をもう少しご自愛くださいませんか。貴方を心配する者がいるのです」
どうかお願いします。
そう言って頭を下げるバルバラに、リカルドは息を吐いて気持ちを立て直そうとした。
今ここで返すべき言葉は何なのか。謝罪なのか、感謝なのか。二十九年生きても正解がわからなくて
「……確実な事はお約束出来ません」
今後も人から見れば、自分は無茶な事をするだろうとリカルドは思う。
何故なら自分は死霊で、大概の事が可能であるから。そしてそれが必要な事であり、そうすべきだと判断すれば、たぶん死霊の自分にとって危ない事だったとしてもやっちゃうのだろうと、そういう予感のような予想もあった。
この世界に来た当初はそんな予感も予想もなかったのに。大事なものがいろいろと出来てしまったから。
「でも、心配してくださる方がいるという事は胸に刻みます」
身を投げるのではなく、ちゃんと戻って来て笑えるように。
バルバラのお願いに対する答えになっていないかもしれないが、それがリカルドが今言える事だった。
バルバラは頭を下げたまま黙って聞いていたが、やがて頭を上げると、黙礼するようにもう一度頭を下げた。
それが諦めなのか了承なのかリカルドにはわからなかったが、確認するつもりはなかった。
話の終わりを感じて軽く頭を下げ、ドアの方へと足を向けて、
「あ、もう一つ」
バルバラの声に振り返れば、少し申し訳なさそうな顔でバルバラは言った。
「以前クシュナ様がお借りしたハンカチがあると思うのですが」
ハンカチ?と疑問符が浮かぶリカルド。
「もしクシュナ様がお返しになっても、そのまま持たせていただけないでしょうか? あれがお守り代わりのようになってしまっていて……お返しすべきであるとは承知しているのですが……」
ハンカチ……貸したかな?とリカルドは思い出せず、一旦時を止めて確認。
するとクシュナが教会に入って間もない頃、教会に馴染めず抜け出した夜に偶然出会って話を聞いて、ボロ泣きしているのを見て渡したハンカチがあったと判明し、そういえば……とやっと記憶が繋がった。
ちなみにそれは魔力で作った即席のハンカチなのだが、消える事なく現在まで存在しているのは
リカルドは占いの館の垂れ幕などの備品を魔力で作っているため、基本的に作ったものは『解く』と意識しなければそのまま維持出来るよう固定しているのだ。作り直すのが面倒で。
結界の類もそれと同じ感覚でやったりするので、
「わかりました。返しに来られたら、そのままお渡ししておきます」
それがお守りになるとは思わなかったが、クシュナさん的には形見になるかもしれないと思ったのだろうと考え、時を戻して了解を返すリカルド。
「ありがとうございます」
「いえ、迷惑を掛けているのでそのぐらいは全然」
迷惑という言葉では生ぬるい事をしてしまったリカルドである。役に立つならどうぞいくらでも持っていてくださいの気持ちで言って、そうだと思い出した。
「バルバラさん。クシュナさんに言おうと思っていたんですが、ラドバウトの件ありがとうございます」
クシュナ達と普通に話し込んで話題に出すタイミングを逃してしまっていた
「ラドバウトさん、ですか?」
「私が巻き込んでしまったせいで、色々なとこからちょっかいをかけられて困っていたと思うんですけど……匿ってもらって助かりました」
シラを切るバルバラに、隠す必要はないとわかるように言うと、バルバラは少し間を置いてから確認するように聞き返した。
「……ちょっかい。というと、状況を把握されているのですか?」
「えぇまぁ。相手は女性ですし、いくら諜報を生業にしている者といっても、強引に跳ね除けるのはラドバウトも難しかったと思うので……そちらの護衛にしてもらえて本当に助かったと思います」
「…………リカルド殿、少々お待ちいただけますか」
バルバラは何かを考えるように視線を落としたかと思うと、やおら顔を上げて強い眼差しをリカルドに向けた。
その眼差しに、え、なに?また俺何かやらかしてるの?と、不安になるリカルド。
だがバルバラが急いだ様子で出ていって、すぐに戻ってきたと思ったらラドバウトを連れてきていて、え?となった。
ラドバウトの方も、伏せておいて欲しいと頼んだのに何で
そんな男二人が戸惑う中、バルバラは真剣な様子で語り始めた。
「ラドバウトさん、リカルド殿は既に全てをご存知です。隠されるよりもきちんと話された方が誤解されずに済みますし、結果的に心配を掛けずに済むと思います。
リカルド殿、ラドバウトさんは確かにいろいろな方に声を掛けられていましたが、不義理を働いてはおられませんでした。それは確かだと思いますので、何か不安な事があればここできちんと話し合われた方がよいと思います。時間が開けば開くほど誤解を招く元となりますから」
そう励ますように言ってそのまま部屋の外に出ていったバルバラなのだが、取り残された方は『は?』だった。
リカルドは意味がわからなくて反射的に時を止め、調べて噴いた。
(ちょっ、バルバラさん?! 俺とラドが恋仲ってあなたも誤解してたんですか!?)
バルバラは、ラドバウトがハニートラップを仕掛けられている事を恋人のリカルドには知られたくない、心配をかけたくないと思っていると考えており、そしてリカルドについてもラドバウトの事を信じつつも何かあったのではないかと不安に思っている、という状況だと勘違いしていた。
(いやでも、ラクサさんからちゃんと事情聞いたんですよね?!)
地理的距離があり詳細な情報が回らなかったグリンモア組のダグラスと神官長はともかく(?)、現地にいたバルバラさんが何でだと急ぎ確認すれば、確かにバルバラは事情を聞いていたのだが、あの作り話の設定(リカルドとラドバウトが恋仲であるという事)が実はそのまま真実である可能性もあるのでは——いや、考えてみればクシュナ様程綺麗な娘を前に、一つもそういう気配がないというのは……つまり?と考えていた。
(なんでだよ!!)
心の底からツッコミを入れるリカルド。
変な事はするなと脅しておきながら、そういう目で見なかったらそっち方面にシフトするとかどうなってんだあんたは!と思うリカルド。
大体何で神官長とかダグラスさんとかジョルジュさんとか、この誤解を訂正してくれてないの?!と見ると、『
(ぬああ!)
配慮はありがたいけど、ありがたいけど……!みたいな気持ちになるリカルド。
本日はシルキーにドキドキするところから始まり、教会に来て元気そうなクシュナに和んでナクルとも楽しくおしゃべりして癒されたら、バルバラにとんでもない事実を教えられて己の所業にメルトダウンしかけ、直後に弱った精神を誤解で殴打されるという、実にアップダウンの激しい一日である。
お陰でリカルドの情緒はおかしくなりそうだった。
(とりあえず訂正だ)
感情の持って行きどころが迷子になりつつも、やらねばならぬ事を見定めたリカルド。
ラドのためにも訂正しなければと時を戻し、すぐさまドアを開けてバルバラに声を掛けようとして、
「バルバラ殿、お二人はそういう関係ではないですよ。神官長が同じ誤解をされた時に、リカルド殿は本気で勘弁してほしいと言われていましたから」
なんとも言えない顔でジョルジュが先に訂正してくれていた。
ドアを開け放ったまま、ジョルジュさんまだそこにいてくれてたんだ。と思うリカルド。
「なんだ? どういう事だ?」
状況がわからないラドバウトがリカルドの後ろから覗き、そこでバルバラはジョルジュの言葉を理解したのか表情を変えないまま顔を真っ赤に染め、そして反転するように青褪めさせた。
ただ平穏にちょっと楽しく暮らしたい死霊魔導士の日常と非日常 うまうま @uma23
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