はじめましての距離~学者峯岸浩太郎の憂鬱~

達見ゆう

憧れの君への距離

 僕は机の前で悩んでいた。相変わらず仕事は忙しい。本来の仕事であるウイルスの研究は少し行き詰まっているし、明日も早くからオンラインによるとはいえ、メディア出演に会議、上司への報告書も山積みだ。さっき未提出の仕事を数えて見たら四十にも増えていた。早く手を付けないとならない。


 そして、新型ウイルスに関する情報をSNSで発信し始めた影響で急速にフォロワーが増え、リプライすることも増えたから更に忙しくなった。SNSなんて後回しにしてもいいが、一般の人にも正しい知識を共有してもらいたいからなるべくリプライには答えている。

 さらに先日、新型ウイルスに関する本を出版したことにより日本のメディアへの出演も増えた。とにかく激務だ。


 そう、僕は今回のウイルスについての本を出した。親兄弟、友人、恩師、お世話になった人には一通り献本した。皆、喜んでくれた。


 ただ、一人だけ未だに献本できない人がいる。

 僕が憧れる今をときめく女優、板垣希良さんだ。「ガッキー」の愛称で親しまれている国民的女優でもあり、アメリカ在住の僕は彼女の出る番組が観られない時は日本の家族に録画して送って貰うくらい大好きだ。


 ファンレターと本を同時に出したい。そして彼女にも新型ウイルスの正しい知識を身につけてもらいたいし、あわよくば日本のメディアにも出るようになったから対談なんてのもできるかもしれない。そんな妄想が進むのとは裏腹に手紙はちっとも進まない。

 僕の机の上にはパソコンではなく紙の便箋、ガラスペンとインクといったアナログなものが置いてある。やはりファンレターには手書きだろうと張り切って買ったものだ。

 便箋には『初めまして』以外の言葉は書いていない。僕はペンをインクに付けてはひたすらコーヒーを飲んではお代わりをすることを繰り返していた。時間は午後七時。夕飯はデリバリーで時短にするとしても、そろそろ他の仕事もせねばならない。夕飯までのちょっとした隙間時間に書くつもりだったが、いたずらにコーヒーばかり飲んで三時間は経過していた。


 とにかく、「はじめましての距離」が掴めない。仕事なら名乗って「よろしくお願いします」と握手すればいいだけ(余談だがウイルスの影響で米政府は握手は控えて拳や肘のタッチを推奨している)だし、友人から誰かを紹介されたら「やあ、初めまして」と握手する。日本でも握手からお辞儀に変わるだけだ。


 しかし、だがしかし。憧れの君にはなんて書いていいのかわからない。


 あちらは今をときめく女優、若くて美しい(いや、歳をとっても美しいのは確信している)名前の通りキラキラした人で尊い。尊すぎて溶けそうだ。


『初めまして。僕は峯岸浩太郎といいます。本を出しました。読んでください』


 ……ダメだ。短すぎるし、なんの本だかこの文面では意味不明すぎる。


『初めまして。僕はあなたのファンです。プレゼントとして本を贈ります。是非とも読んでください』


 ……これもダメだ。これでは怪しい商材を送り付ける人とたいして変わらない。


『ハーイ! アイム コータローミネギシ。イッツ・ア・ブックス、プレゼント』


 ……考えすぎて壊れてきたかもしれない。頭の中の英語が文法以前にアルファベットで綴れなくなってきた。時計を見るといつの間にか二十三時。デリバリーの麻婆豆腐は受け取っていたが、後にしようと置きっぱなしでとうに冷えきっていた。食べようにも日本のメディア出演が確か日本時間十四時だ。こんなことをしている場合ではない。食べるのは後回しにして少し仮眠して、オンライン出演用に着替える服も用意して……いや、その前にちょっと文書が閃いたぞ。


『はじめまして! 僕はあなたが好きです! これ、読んでください』


 くわーっっっ! どストレート過ぎる! こんな中学生みたいなラブレターのようで恥ずかし過ぎて書けない!


 何故だ、何故なんだ。ウイルスの論文ならスラスラと書けるのに。細胞にも気安く話しかけながら弄るのに(ラボの皆の目はやや冷ややかだが)。憧れの君になるとどうして何も書けなくなるのだ。


 ああ、ここが日本の和室ならそのままくずおれて畳の上でじたばたするのに。アメリカの床では普通に近所迷惑だ。だから椅子の上で仰け反って一人マトリックスに留めておいた。って、マトリックスというのも古いな、オッサンの悲しい性だ。


「うっせぇな、コータロー。何時だと思ってんだ」


「あ、悪い。起こしてしまったかボブ」


 ボブはルームシェアしているルームメイトだ。


「なんだよ、まだラブレター書けないのかよ」


「ら、ラブレターなんて! そんな大それた物では」


 狼狽えながら答えるが、この躊躇う気持ち、どうでもいい人にはラフにできるのにあの人には何も書けない気持ち。

 ……これは恋? い、いや、恋ではなく推しだ、これは推しへの感情だ。頭を抱えてまた一人でじたばた悶えているとボブがまたツッコミを入れてきた。


「とにかく椅子をガタガタするのは止めろ。何だったら俺が代筆してやるから! 後で日本語に訳せばいいだろ」


「だ、ダメだ! ちゃんと僕の言葉で書きたい!」


「あー、焦れってぇ。日本人は控えめというがコータローのは重症だな」


「ボブ、寝るんじゃなかったのか?」


「ああ、寝るよ。お前もとりあえず仮眠しとけ。仕事もあるが深夜のテンションでラブレターなんて書くもんじゃねえ」


「だ、だからラブレターじゃないって!」


 ラブレターではないが、ボブの言う事はもっともだ。さっきの候補達は深夜のテンション以前の出来だ。僕は今夜も書けないまま寝ることにした。憧れの人へのはじめましての距離って誰か教えて欲しい。

 早くしないと本の情報が古くなるのはわかっている。新型ウイルスのワクチンは既に出来上がって米国内でもどんどん接種が始まっている。日本のワクチン接種が一般人に行き渡るまでには献本せねば。


 って、こないだはワクチンが承認されるまではと先延ばしにして、この前は日本で承認されるまではと先延ばしにした。

 このレターセット類を買ったのも本を出してから三ヶ月経過した頃だ。ネットショップのモニター越しにどの便箋なら印象に残せるのか、おじさんが使ってドン引きされないかずっと悩んでいたせいだ。

 早くしないといけないのはわかっている。でも、どうやってあの人に目に止まるような文を書いて本を贈ればいいのだ。


『はじめましての距離、はじめましての距離……』


「コータロー、まだ寝てないのか? いや、寝言か。ったく、日本人は生真面目すぎるぜ」


 既に夜は白み始めていた。


 この後、浩太郎は寝坊してしまい、オンライン出演の際に髪の毛を整え忘れ、某マヨネーズメーカーのキャラクターそっくりの頭のまま出演してしまった話はまたの機会に。


(注・この物語はフィクションですが、一部を除いて実在の人物をモデルにしています。

 憧れの方に本をいつまでも献本しないので、日本時間の期限までに献本しないとこの話を公開しますよ、と匿名質問箱「マシュマロ」に投稿しました。つまり、これが公開されているということはまだ献本がされていないということです。マシュマロ民の皆様はここを探せたでしょうか?)

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