第10話

 二次会のスナックは学年会のメンバーで借り切った形になった。やがて柳生がいないことが出席者に判明した。

「松島先生、ギュウちゃん、どうしたん」

 坂口が章夫に尋ねた。

「さぁ、どうしたのか。いませんね」

 章夫はとぼけた。

「あの野郎、消えやがったな。とんでもない奴だな」

 憤慨の口調だが、坂口の顔は笑っており、怒りの気配はない。

「皆さん。柳生先生は消えました。とんでもないですね。人には〈すぐ消えっしまう〉とか言いながら、自分が消えっしまってます」

 坂口が大きな声で出席者に報告した。何人かがそのおどけた口調に笑った。坂口は、おい、おい、と周囲の四、五人に声をかけ、「明日奴が来たら、皆で周りを取り囲んで、〈すーぐ消えっしゃう〉と声を揃えて言ってやろうや」と呼びかけた。二、三人がそれに、「許せんね」とか「それは面白い」とか応じた。章夫は案の定の事態になるのを見ながら、それが分かっていて荒木のもとへ消えた柳生の心中を改めて思った。

 二次会が終り、皆が席を立って動き始めた時、章夫は松村の側に近づいて柳生の言葉を伝えた。

「エムにいるって。そんなら途中から消えようか」

 松村は微笑しながら答えた。

 二次会が終ると女性達を含めて四、五人が帰った。残った六、七人が三次会の場所に向って動き始めた。坂口の先導だった。章夫と松村は一行が公園の側を通った時、公衆便所に行く恰好をして列から離れた。便器の前に並んで立った二人は顔を見合わせて笑った。いたずらをした少年のような、くすぐったい愉快さがあった。

 松村は柳生が指示したエムには行こうとしなかった。彼はルガノに行こうと言う。ルガノからエムに電話を入れればいいと言う。ルガノも柳生が紹介したスナックだった。章夫は松村がルガノのサチという女の子に関心があることを柳生から聞いて知っていた。柳生と一緒でなくていいかなと一瞬思ったが、松村に従った。

 ルガノの扉の前に来ると、ママが客を見送りに外に出ていた。ほろ酔い加減の初老の紳士との賑やかなやり取りがあって、「どうもありがとうございました!」とママは頭を下げて客を送り出した。

「空いてますか」

 章夫が微笑を浮かべながら声をかけると、

「今、ちょっと一杯ですが」

 とママは二人の男を少し怪訝な表情で眺めながら言った。二人は柳生に連れられて三回ほどこの店に来ていたが、ママは咄嗟には思い出さないようだった。

「あの、柳生先生と何回かここに来たんだけど」

 松村がそう言うと、ママは二人の顔を確かめるように見て、

「ああ、松島先生」

 と章夫に微笑んだ。そして、

「今日、柳生先生は」

 と尋ねた。

「彼も後から来ますよ」

 章夫がそう答えると、

「どうぞ。ちょっと混んでますけど」

 と、扉を開けた。松村には悪かったが、章夫はママが自分の顔を覚えていたことで満更でもない気分だった。

 中はカウンター席が少し空いているだけで、フロアの席は二箇所とも六、七人のグループで満席だった。二人はカウンターの端に腰を下ろした。

「いらっしゃい」

 カウンターの中にいるサチが微笑んで声を掛けてきた。この地区に隣接する海峡の町の港祭りでミスに選ばれたことのある娘だった。

 章夫はサチの作ってくれた水割りを一口舐めると、席を立ってエムに電話を入れた。柳生は、「なん、ルガノにおるん。ハハ、松村さん、気に入っとるけね。じゃあ、そっちへ行こう」と言った。

 柳生達はそれから十分ほどして現れた。先ず柳生が入ってきて、「おう」と章夫達に片手を上げ、その後ろから荒木が俯き加減にせかせかした足取りで入ってきた。荒木の顔は酒が入るといつもそうだが赤くなっていた。

「荒木さんがおるやん」

 松村が意外そうな声を出した。

「えっ、先生聞いてなかったの」

 章夫は驚いて訊き返した。

「俺、彼嫌いなんよ」

 松村はポツリと言った。柳生は松村から席を一つ空けて腰を下ろし、松村の隣に荒木が座った。松村は苦い顔をしてグラスを一口舐めた。荒木がいることを松村は知らなかったのか、と章夫は思い、これは悪いことをした、と思った。しかし彼は柳生の指示に従ったまでだった。責められるべきは柳生だった。どちらにしても、松村が不快な思いをしているのは確かだった。こんなことならここへ来るんじゃなかったと後悔しているのではないか、と章夫は松村の心の裡を推量した。これで今夜はいよいよ楽しめなくなったなと章夫は苦く思った。

 章夫の隣で松村は黙したままであり、荒木も松村に話しかけることはなかった。章夫も松村の心中を忖度すると、気軽に彼に話し掛けにくくなっていた。柳生だけがぺらぺらと喋っていた。しかしそれは話題があちこちに飛び、いかにも湿りがちな場を取繕っている感じがした。章夫は荒木に対して、もう少し気を遣ったらどうなのだという苛立たしい思いを抱いていた。自分が原因でこうして三人の男が集まってきているんだ、少しは気の利いた話でもして座を盛り上げたらどうなんだと思うのだった。だが荒木はいつものように,話しかける柳生にボソボソと応じ、また柳生にだけ言葉をかけるのだった。章夫はこの時、松村と荒木が体現している交友関係の亀裂に落込んで身動きが取れなくなっている自分を意識した。それは強烈な心理的圧迫感を伴う意識だった。なんとかしてこの窮地から自分を救い出さなければならないと彼は思った。章夫は松村と席を変わることを思いついた。ここは声を掛けた自分が責めを負って荒木の隣に座ってやろうと思ったのだ。そうすれば松村も少しは元気になるかも知れないし、松村が元気になれば章夫も彼と気軽く話ができるのだった。しかしそんな気遣いが仇になった経験も章夫は何回かしていた。席を変わることは松村と荒木との関係の不良を際立たせるだけに終る可能性もあった。下手に動かない方がいいとも彼は思った。しかし隣で不興気な顔付きをしている松村を見ると、章夫は思いつきを実行するように急かされた。酔いが回り始めていた頭は抑制が効かなかった。

「松村先生、ちょっと席を変りましょう」

 章夫は松村に声を掛けた。

「えっ、どうしたの」

 松村は戸惑った様子を見せた。

「いや、いいからちょっと変ってください」

 章夫は椅子からもう腰を上げていた。ここは松村に是非ともそうしてもらわなければならないという気持になっていた。それはなにより自分を窮地から救い出すために必要なことだった。

「そう」

 松村は仕方なさそうに腰を上げた。章夫は意図が実現してほっとしたが、気持が和んだのはその時だけだった。章夫の期待に反して松村は元気にならず、むしろ章夫の気遣いに悪く反応して、少し落着きを失った様子が見えた。自分の白けた態度を章夫が責めたと感じとったようだった。

「荒木先生、幸せやね。柳生先生と松島先生がこうして快気祝いをしてくれるんやから。感謝しないといけませんよ」 松村は何か言わなければいけないという感じでそう言った。章夫は松村に反って気を遣わせる結果になったことを後悔した。やはり動かない方がよかったのだ、席を変ったことはこの場にあるぎこちなさを顕在化させる結果にしかならなかったと思った。酔っている時の頭の働き方はどこかおかしなものだ。章夫は荒木のことはあまり考えなかった。ただ松村に意図に反して不快な思いをさせたことが法外に激しく彼の心を責めていた。その失地は早急に回復されなければならなかった。章夫の理性は、おかしい、こっけいだとそれに抵抗したが抑えられなかった。彼は口を開いた。

「松村先生、すいません、もう一度変ってください」

「え」

 松村は充血した眼を向けた。そして、

「もういいよ」

 と手を振って吐き出すように言った。章夫はそうはいかないと反射的に椅子から立ち上がったが、動かない松村にへなへなと腰を下ろした。また馬鹿なことをしてしまったという悔いが章夫の胸を噛んだ。松村との間にこれで溝が一つできたかなという苦い思いが彼の心を締めつけた。

 荒木がトイレに立った。章夫はすぐに荒木の席に移り、柳生に身を寄せて、

「松村さんに荒木さんがいること言ってなかったんですか。松村さん、荒木さん嫌いなんだって言ってましたよ」

 と言った。自然と柳生を責める口調になっていた。

「そうかね」

 と言って柳生は苦笑した。そして松村を指さした。章夫が眼をやると、松村は居眠りを始めていた。酒場での居眠りは彼の得意芸だった。〈すぐ寝っしまう〉と柳生は松村をからかっていた。なるほど、と章夫は思った。しかし章夫がこの店で居眠りをする松村を見るのは初めてだった。これまではカラオケも次々と歌い、サチとダンスを踊ったりして眠ることはなかった。やはり今夜は面白くないんだなと章夫は思った。今夜の飲み会は失敗だったが、こんなことで折角親しくなり始めた松村との関係が疎遠になるのは嫌だなと彼は思った。

 荒木が戻ってきた。章夫はなにか荒木に言ってやりたい気持ちだった。

「しかし、柳生先生、明日学校へ行く時はヘルメットでも被って行った方がいいですよ」

 章夫は先ず柳生に向って言った。

「どうして」

「坂口先生が皆で取り囲んで袋叩きにしようかと言ってましたよ」

「ほんと」

 柳生はニヤニヤしながら言った。

「ええ。とんでもない奴だって言ってましたよ」

「そうね、そら大変だな」

 柳生はむしろ愉快そうだった。章夫はここで矛先を荒木に向けた。

「荒木先生、柳生先生はいい先輩ですよ。そういう状況になるのが判っていながら、あなたの為に抜けてきたんだから」 あなたの為にそれだけ迷惑しているのだという気持ちを底に含んだ言葉だった。荒木は微笑しただけで何も言わなかった。荒木にしてみれば、快気祝いをしてくれるというので、学年会という飲みごとがある日についでにやってくれればいいと考えたのかも知れなかった。また、声をかけたのは柳生だけであって、章夫や松村の参加は荒木の関知しない事だとも言えた。

 眠っていた松村がふと顔を上げた。

「先生、もう寝とるやないですか」

 章夫がそう言うと、「ああ」と松村は眼をしばたたいた

「すぐ寝っしまう」

 柳生が松村を指差して言った。松村はそれに微笑で応えて、ウーと唸りながら伸びをした。そして、

「ちょっと踊ろうか」

 と、カウンターの中のサチに声を掛けた。カラオケにはテンポのゆっくりしたムード曲が入ろうとしていた。松村はそれに気づいて顔をあげたようだった。彼はサチと踊るという今夜の目的だけは果しておこうとしているのだった。

 夜が更けていった。


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