第9話
三月に入り、学年の解散を間近に控えて打ち上げの学年会が持たれた。最後ということで余った積立金を全て注ぎ込み、焼肉に刺身を加えた料理で飲み放題食べ放題という趣向だった。宴会は盛り上がり、章夫はいい気分で酔っていた。あれから二、三回、柳生を介して坂口や彼のグループのメンバーと飲んできており、今や自分は一人ではないという気持が章夫にはあった。特に坂口と親しくなれたことが章夫の心に大きな安心感をもたらしていた。こうした飲み会などの場合、仕切り役は坂口だった。彼は幹事の相談役として会の趣向を決める中心になったし、宴会が始まると軽快なジョークをとばして座の雰囲気を盛り立てた。二次会の設定についても坂口の意向が大きく影響するようだった。一次会の後は、章夫はこれまで通り柳生の行動に従うつもりだった。柳生が坂口達と二次会に行くのは確実であり、坂口や彼のグループと親しければ章夫も抵抗なく二次会、三次会と流れて行けるはずだった。坂口のグループ、「コスモス」のメンバーは皆章夫には好ましい人達だった。そしてその四人は偶然か意図したものか章夫の学年に所属していた。章夫は後に続く二次会、三次会も大いに楽しもうと胸を膨らませていた。
章夫はトイレに立った。トイレに入ると柳生が用を足していた。
「やぁ、先生、飲んでますか」
章夫は声を掛けながら横に並んだ。
「ああ、松島ちゃんか。楽しんどる?」
「ええ。先生のお陰で」
「何言うとんね。皆松島ちゃんのお陰よ」
そう言って、少し肩を上下に揺すると、柳生は便器から離れた。
章夫が手洗場に入ると、そこにまだ柳生がいて、
「荒木君から電話があってね」
と言った。一瞬、不吉な予感が章夫の胸を走った。
「飲みに行こうち言うんよ」
「はぁ。今日ですか」
「うん。まぁ、快気祝いになるかな」
「今日は、しかし」
章夫は言葉が続かなかった。彼の計画が思わぬもののために崩れようとしていた。柳生がもし荒木と飲むつもりなら自分はどうしようかと彼は思った。今日は荒木とは飲みたくなかった。せっかく親しくなった坂口やそのグループの人達と楽しく過ごしたかった。今の雰囲気から言って楽しく過ごせることに間違いはなかった。
「どうする」
柳生は訊いてきた。
「先生はどうするんです」
章夫は訊き返した。
「僕はいいよって返事したんよ」
「へーえ。この会が終わってから?」
「うん」
「どうしようかな。今日は学年会でしょ。他の日にすればいいのにね。荒木さん、今日学年会ってこと知ってるんですか」
「知ってるよ。だから電話してきたんよ」
「へーえ。困ったな。どうしようかな」
章夫は荒木の勝手の良さに腹を立てていた。人の都合は考えないのかと思うのだった。荒木の飲む相手は恐らく柳生しかいないだろう。だから柳生は荒木にとって大切な人のはずだ。その柳生が今日は学年会なのだ。柳生には学年でのつき合いもあるだろうと考えて遠慮するのが本当ではないのかと思うのだった。
「うん、ほんならまた後で」
迷っている章夫に柳生はそう言ってトイレから出て行った。
宴会場に戻った章夫はさっきまでの楽しい気分がすっかり殺がれてしまっていた。彼は迷っていた。柳生との関係を考えれば彼と行動を共にすべきなのかも知れなかった。章夫にとって柳生は職場における社交の窓口を開いてくれた一種の恩人だった。しかし、柳生に従って荒木と三人で飲んだとしてもどんな楽しみがあるだろうか。既に経験のある章夫にはその展開が予想されるのだった。かと行って、柳生と離れて二次会、三次会に行っても心落着かない気がした。恩ある人に背いていいのかという意識が自分を苦しめそうな気がした。せっかく宴会を楽しんでいたのにこんな思いに自分を陥れた者が荒木であることを思うと、章夫の荒木に対する嫌悪と腹立ちが募った。
宴会は万歳三唱で終った。出席者の殆どが二次会に向うようだった。人々は料理屋の玄関を出た所で一旦屯し、やがて三三五五歩き始めた。章夫は柳生と肩を並べた。彼は妥協策を思いついていた。
「皆二次会に行くようですね」
章夫が言った。
「そうやね」
「先生も一緒に行ったらどうですか。やっぱりここで抜けるのはまずいんじゃないですか。二次会まで皆と一緒に飲んで、それから荒木さんの所に行けばいい」
それが章夫の妥協策だった。
「うん。しかしそうもいかんよ。荒木君はもう飲みよるからね」
柳生はそう答えた。章夫は柳生がここまで荒木に気を使うのはなぜだろうと思った。
「先生は荒木さんと何か特別な関係があるんですか」
章夫が訊くと、
「別に何もないよ」
柳生は苦笑を浮かべて答えた。
「同じ高校を出た先輩・後輩という関係だけ」
「うん」
「そうですか」
章夫は柳生が荒木との信義のようなものを守ろうとしていることを感じた。それは非難すべきことではないに違いなかった。
「じゃ、あんた二次会に出ればいい。あんたは出んといけんやろ。それが終ったら来りゃいい」
「はぁ。じゃ、そうします」
章夫はほっとした思いだった。これで何とか二つの思いを両立させることができたようだった。
「二次会はティファニーに行くとか言いよったね。そこを出たらどこへ行く?」
「さぁ」
章夫にはこれという店が思い浮かばなかった。この半年足らずの間に柳生が案内した店は五、六軒あった。そのどれに行こうかと章夫は迷った。
「じゃあね、僕らはエムにいるから、二次会が終ったらそっと抜けてくればいい」
エムは柳生が案内した店の中の一軒だった。
「エムですね」
そう言って章夫は頷いた。
「ああ、松村さんにも声かけてね」
松村は「コスモス」の一員だった。
「松村さんも来るんですか」
章夫は声を弾ませた。
「うん。あの人も誘ってくれと言いよったから」
松村は章夫と同年輩の数学科の教員で、章夫が今夜、二次会、三次会を一緒に飲みたいと思っていたメンバーの一人だった。松村には荒木に対する拒否反応はないんだな、と章夫は彼を少し見直すように思った。松村が加われば少し面白くなると章夫は淡い期待を持った。
「しかし、二次会に先生が来ていないことが判ったら皆文句を言うでしょうね」
章夫がそう言うと柳生はクスッと笑うようにして、
「そうかね」
と言った。
「そらそうですよ。坂口先生なんかボロクソに言うと思いますよ」
「そうやろか」
柳生は顔をニヤニヤさせた。
「それこそ、〈すぐ消えっしまう〉を地で行くんだから」
章夫がそう言うと柳生はハハ、と鼻から息が抜けるような声を出して笑った。〈すぐ消えっしまう〉は柳生の口癖だが、人を責める言葉だ。この言葉を柳生と坂口はお互いに投げ合っていた。発端は二人が一緒に飲みに行って(もちろん二人だけではないが)、途中で坂口が姿を消したことにあるようだが、発端は既にどうでもよく、近頃では柳生より坂口の方が、攻撃は最大の防御というわけか、この言葉を先手を取って柳生に頻繁に浴びせるようになっていた。それはもちろん口論ではなく、一種のじゃれ合いであり、コミュニケーションの一部になっているのだったが。
「しかし言うわけにもいかんやろうからね」
柳生が苦笑しながら言った。
「相手が荒木さんではですね」
章夫は荒木への鬱憤をこめてそう言った。荒木と飲むと言えば、何でわざわざこの学年会の折に、と顰蹙を買いそうな雰囲気は確かにあるのだった。それを思うと、それを押して荒木と飲もうとしている柳生に章夫は改めて注目させられた。それは相手が周囲からどのように見られている人間であろうと、一対一の友誼は大事にしようとする態度であり、柳生の人間的な美質を示しているように思われた。そう思うと、荒木には反発を覚えながらも、章夫は柳生の人柄に引かれるものを感じるのだった。
二人の前後には二次会場のスナックに向う学年会の人々が二人、三人と肩を並べて歩いていた。既に道はネオン街の路地に入っていた。
「ギュウさん」
後ろから柳生を呼ぶ坂口の声がした。柳生は後ろに退がって行った。冗談を言い合う二人の賑やかな声が後ろから聞こえてきた。二、三分して柳生は再び章夫と肩を並べたが、
「この次の角で僕は消えるから」
と言ってニヤリとした。角に来ると、すっと章夫の側から離れ、交叉した路地の闇の中に姿を消した。
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