第8話
十二月に入って期末考査があり、その最終日の放課後、校外補導に出ていた荒木の車が四トントラックに追突され、彼が入院するという事件が起きた。荒木は事故当日は自宅に帰ったが、翌日は頭が重く、病院に行くと血圧も高くなっていて、そのまま入院したのだ。学校には五十日間の入院加療が必要という届けが出された。荒木の所属する二年の教師達の間では、そんなに長期の入院が必要なのかという声が聞かれた。荒木が事故当日は自宅に帰ったことが、受けた傷は軽いものという印象を与えていた。これを口実に当分休むつもりではないかと彼等は苦笑いをしながら語り合った。仕事をしない、仕事ができないというのが荒木の不評の核心をなしていた。同情の声は二年の学年外からもほとんど聞かれなかった。
年が明け、荒木が入院して一カ月が過ぎた。章夫はまだ荒木の見舞いに行ってないことが気になっていた。一度は見舞いに行かなければならない関係だと彼は思っていた。章夫は柳生に尋ねてみた。すると柳生はもう何度も見舞いに行ったと答えた。家にも時々荒木から電話がかかってくると言う。荒木は淋しそうで、学校の様子を知りたがるらしかった。荒木は独身で老いた両親と一緒に暮らしていた。そんな境遇では入院でもすると確かに孤独になるだろうと章夫は思った。また荒木には柳生の他には連絡を取り合う同僚もいないはずだった。それにしても柳生がもう何度も見舞いに行ったというのは章夫には驚きだった。柳生の優しさが思われたが、同時にそれほどの深いつながりが二人の間にはあるのだろうかという思いも章夫の胸に浮かんだ。荒木は個人病院に入院していた。章夫がその場所を柳生に訊くと、JRや私鉄で行けば降りてからが複雑な経路になるようだった。それで章夫は柳生が次に見舞いに行く時一緒に連れて行ってくれるように頼んだ。柳生は「この前行ってから一週間くらいになるから、また近いうちに行こう。荒木君も喜ぶよ」と言って、章夫の申し出を快く受け入れた。
それから二、三日後の土曜日、二人は荒木のいる病院に向った。章夫は柳生の車に乗り込むと、四カ月ほど前の土曜日、荒木ともう一人の教員を加えた四人で、やはり入院中の教員を見舞った時のことを思い出した。その時は、章夫と柳生はもう一人の教員の車に乗り、荒木は自分の車で出発したのだった。途中、荒木の家に寄り、荒木は車を月一万円というシャッター付きの賃貸ガレージに入れ、その後は四人が一台の車に同乗して病院に向った。その時章夫は荒木から自分の住んでいる家を「あれ」と示されたのだが、それは両親が住んでいる母屋から数メートル離れた別棟だった。親の圏内からまだ抜け出していない荒木を章夫はその時感じた。あの不意の飲み会があったのはその帰りのことだった。 途中、スーパーマーケットに寄って、章夫はフルーツその他の見舞いの品を買った。柳生はタコ焼きを買った。
病院は郊外の田圃の広がる地帯にあり、車で来るより他にない場所だった。
「こんにちは、どうしよる」
柳生は気軽い調子で声を掛けながら荒木の病室に入っていった。その部屋は六畳ほどの広さの個室だった。荒木はパジャマ姿でベッドに横になっていたが、「お」と言って起き上がった。
「松島先生も来たよ」
柳生は続けてそう言った。
「こんにちは。どうですか」
と章夫は荒木に声を掛けた。
「ああ」
と荒木は軽く頭を下げた。
「これ、おみやげ」
柳生はタコ焼きの包みを差し出した。それで章夫も持ってきた見舞いの品を、「これ、つまらないものですが」と前に出した。
「ああ、どうも」
荒木は会釈を返した。柳生は壁際に置かれた丸椅子に腰を下ろした。章夫は入口側の壁の隅に椅子が一つあるのを見つけ、それを柳生の横に置いて座った。荒木はベッドから降りて、冷蔵庫のドアを開け、缶入りの清涼飲料水やお茶を三個ほど取り出し、「どれがいい」と訊いた。冷蔵庫の中には缶ジュースの類がたくさん入っていた。
「ここは水がまずくてね」
と荒木はたくさんの缶に訝しそうな目を向けた章夫に言った。
「それ開けて」
と柳生は荒木に渡したタコ焼きの包みを指差した。三人はタコ焼きを食べながら話し始めた。
章夫は荒木の病状について尋ねた。安静にしているのに血圧が下がらず、急に一八〇ぐらいまで上がる時があり、今でも時々頭がボーとするという。脈搏も常時八〇ぐらいあって下がらないらしい。事故のショックから体はまだ解放されず興奮状態が続いているようだった。元々血圧は高い方だがもちろんこんな状態ではなく、この状態で職場に復帰するといつ倒れるか判らない不安があると荒木は語った。章夫は荒木の病状に対する認識が少し訂正されるのを感じた。彼も周囲の話に影響されて、ズル休みの要素があると思っていたのだ。しかし本人と向き合って話を聞くと、彼が感じている不安が実感的に伝わってきた。
「入試業務はせんからね」
病状の話が一段落すると荒木は柳生に宣言するように言った。二月の始めに入学試験がある。その監督から始まり、合格発表まで、採点、点検、マークシート記入などの業務が一週間ほど続く。学校の年間行事の中で重大なものだ。それを荒木はしないというのだ。
「校長にそう言ったよ」
荒木は柳生に向って言う。荒木が入院してから、彼が属している学年では誰かが彼の抜けた分を補っているはずだった。その負担を思うと、一日でも早く復帰しなければと思うのが人情なんだがと章夫は思った。入試業務をしないということは、今後なお一カ月ぐらいは入院を続けるということであり、荒木にはそんな気遣いはないように思われた。二年の学年主任が荒木を見舞って、「荒木先生が羨ましいよ」と職員室で冗談を言っていたことが章夫の頭に浮かんだ。「入院費は加害者が払うし、保険から金は出るし、仕事はせんでいいし、俺も誰か追突してくれんかな」と彼は笑いを浮かべながら言った。病状から言えばそれだけの入院が必要なのかも知れないが、周囲への配慮の無さが荒木を孤立させているのだと章夫は思った。
「校長、来たん?」
柳生が訊いた。
「うん。来て、何と言ったと思う?」
荒木は柳生に問い返して、
「中等部に行ってくれってさ」
と自ら答えた。
「中等部に?」
「冗談じゃないよ。どうして中等部に行かないけんの。断ったよ」
「見舞いに来てそんなこと言うとはねえ」
柳生は荒木の憤懣に同調を示した。
「見舞いやないよ。いつまで入院するつもりか確かめに来たんよ」
荒木は吐き捨てるように言った。
「そうやね」
柳生は頷いた。
「ゆっくり療養してくれと言うのならわかるけどですね」
章夫も二人の話に調子を合わせて言った。公立高校を定年退職した後赴任してきた現校長は、管理主義が背広を着ているような人物で、章夫もいい感情は抱いていなかった。
荒木が中等部に移るという話は章夫には初耳だった。学校は中高一貫教育を標榜していたが、中等部と高校は場所が離れており、職員室も別だった。二年の学年主任が、「荒木先生いつまでも病院にいると、帰った時には席がなかったということになるかも知れんよ。いっそなら戻ってこんでもいいけどね。」と、これも冗談めかして言っていたことを章夫は思い出した。あの時学年主任はこのことを既に知っていたのかも知れないと彼は思った。
荒木が退院したら快気祝いをしようという話をして二人は帰ることになった。しかし、荒木は入院中に柳生と既に二度ほど飲みに出ていた。荒木から柳生に誘いの電話があり、病院の近くの焼き鳥屋に行ったのだ。柳生は内密の話としてそのことを章夫に話していた。帰ろうとする二人に、荒木は二リットルほど入るポリエチレンの容器を出して、水を汲んでくれと頼んだ。病院から少し離れた所に餅屋の支店があり、そこで天然水を無料で汲ませてくれるという。それは餅屋の本店近くの水源から湧出する水で、餅屋はその水を商品の製造に使っているのだが、宣伝と客寄せを兼ねてそれを水源から各支店に運び、無料で給水しているようだ。柳生と章夫は気軽く応じたが、車に乗ってその店に行き、水を容器に入れて、再び病室まで運ぶのは一仕事だった。
「中等部に行くって話、知ってました?」
帰りの車の中で章夫は柳生に訊いた。
「うん、耳にはしていたけどね」
ハンドルを握っている柳生は前を向いたまま答えた。自分にはない情報網を持っているんだなと章夫は思った。
「荒木さん断るんですかね」
「そりゃ出来んよ、人事権は校長がもっているんだから」
「そうでしょうね。…しかし、荒木さんにはその方がいいかも知れませんね。」
章夫がそう言うと、
「そうよ。僕もそう思うよ」
と柳生は応じた。柳生も荒木が生徒指導面で困難を抱えていることを知っているんだと章夫は思った。中学生の方がまだ言う事を聞かせ易いだろうと思うのだった。
「入試業務はやらないって言ってましたね」
章夫は話題を変えた。
「そうだね」
「羨ましいな。何もせんでよくて」
章夫は批判がましく聞こえないよう冗談めかして明るく言った。荒木と格別に親しそうな柳生への気遣いだった。
「本人はそれなりに大変みたいやけどね」
柳生は彼らしく柔らかく応じた。
「それはそうですけどね」
章夫はもちろん、というように頷いて言った。それは彼も荒木を実際に見て感じたことだった。章夫は柳生と荒木はどの程度のつきあいなのだろうかと思った。柳生は荒木が職場で孤立した存在であることを知っているのだろうかと思った。それで呟くように、
「荒木さんは人気がないからな」
と言ってみた。
「そうらしいね」
柳生は苦笑いしながら応じた。やはり柳生も知っているのだ。
「荒木さんについてはいい話聞きませんからね、誰からも大体」
章夫は今度は荒木の不評をはっきりと口にした。
「うん。ありゃ、なぜかね」
柳生が訊き返してきた。
「さぁ。やっぱり社交性がちょっと足りないんじゃないですか」
「そうね。あんまり話す人もいないね」
「ちょっと社会的に未発達というか。彼の家庭的環境も影響しているかも知れないけど」
年下の者が偉そうに言うと聞こえるかなと思いながら章夫はそう言った。
「坂口さんから、あんた、荒木さんとつき合っとったら損するよ、と言われたからね。何か、ものすご嫌われちょるちゃ、荒木君は」
柳生はそう言っておかしそうに笑った。さすが人間関係に敏い坂口だなと章夫は思った。坂口の言葉は章夫の懸念をズバリと表したものだった。 章夫は助手席で揺られながら、荒木が嫌われるのは社交性の欠如ということもあるが、より大きな原因は周囲の教員のプライドにあるのではないかと、自分の心も覗き込みながら思った。仕事ができないというのは職場では半人前ということだった。それは周囲に負担をかける、いわば社会的に自立できていない人間を意味した。職業人のプライドは仕事の能力に基礎づけられている。だからそのプライドを保とうとすれば、自分の仕事ぶりについてとやかく言われないようにしなければならない。荒木のように仕事ができないという評判が立った人間は、その意味では職業人としてのプライドの根底を失った人間なのだ。プライドを保とうとする者は、それは職場の殆どの者がそうなのだが、そんな人間と自分が同じ部類とは思いたくないし、思われたくもない。そのためには荒木を非難することが必要になる。そうすることで自分と彼とを峻別するのだ。集団の一部でその反応が始まると急速に伝播していくだろうと章夫は思った。
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