第7話
ある日のことだった。授業中だったが、職員室に生徒が来て、「○○先生いますか」と言う。○○先生は職員室に姿が見えない。
「○○先生はいない。どうしたんか」
と二年の学年主任が生徒に尋ねた。
「荒木先生が○○先生を呼んでこいと言ってます」
「○○先生は今授業中だ。何かあったんか」
「荒木先生が生徒と言い合いになって、担任を呼んでこいと言ってるんで」
「ちぇっ」と学年主任は舌打ちした。その場にいた二、三人の二年の教師から「またや」という声が聞こえ、笑い声が漏れた。「自分で処理せいや。何で担任を呼ぶんか」と学年主任は呟いた。それを聞いた生徒の顔にも笑いが浮かんだ。
「○○先生は今授業中でおりませんと言うてこい」
と学年主任は生徒に言った。生徒は教室に戻った。
「授業は自分の責任できちんとやらにゃ。給料もらっとるんやから」
学年主任は吐き捨てるように言った。
「そうですよね」
と、二年の教員の一人が応じた。
「何でも担任の責任にされたらたまりませんよ。生徒指導は全ての教員が責任を負ってるんだから」
「特に授業中は担当教師の責任でしょう」
別の教師がつけ加えた。
「生徒指導ができんのなら、その分給料返さな。皆同じに給料もらってるんだから。荒木さんが担任に生徒指導料出すというのなら話はわかるけど」
学年主任がそう言うと、また二、三人の教師の笑い声が上がった。
さっきの生徒が戻ってきた。
「担任がいないのなら学年主任を呼んでくるように言われました」
「え、何考えとるんか、あいつは」
学年主任がそう言うと、また失笑が起きた。
「何で俺が行かんといけんのか」
学年主任は怒りを含んだ声でそう呟いて、
「学年主任は今手が離せない用事があるから行けない。先生、自分で解決してください、と言うとったと伝えてこい」 と生徒に行った。生徒は戻って行った。
「何でわしが行かないけんか。私は行きませんよ。生徒に恨まれたくないもん」
学年主任は最後の言葉尻を上げたおどけた言い方をし、椅子に腰を下ろした。また笑い声が起きた。
章夫はその時職員室にいて、これらのやりとりのすべてを聞いていた。教師達の笑い声が聞こえ、それが荒木のことだとわかると、章夫の気持ちは強張った。章夫にとって荒木は高校の先輩であり、二人は何度か一緒に酒を飲みに行った間柄であることを、今話している二年の学年主任や教師達は知っているはずだった。そういう関係にある自分がこういう場合どう対応すればよいのか、章夫は当惑するのだった。荒木の側に立って、弁護すべきなのかも知れないが、聞いていても荒木の肩を持つ点が見出だせないのだ。逆に章夫も彼等と一緒になって荒木を責めたくなるのだった。なぜ担任を呼んでこいとか学年主任を呼んでこいとか言うのか。自分の生徒に対する無力を暴露しているようなものではないか、と章夫は思った。クラス担任にとって受持ちクラスの生徒の不行跡を他の教師からあれこれ言われるのは嫌なことだ。そうした他の教師の嫌がる、また自分の教師としての評価を落とすことにしかならない行為をなぜするのか、もう五十も近い荒木になぜそれくらいの分別がないのかと章夫は思うのだった。ただでさえ生徒指導の力がなくてクラス担任を外されていると囁かれている荒木だった。その荒木が担任を呼び付けるという感覚が章夫には分からなかった。恥の上塗りではないかと思われるのだった。言う事をきかない生徒を押さえるために口走った言葉だろうとは推測されても。しかし一方で、荒木は年の若い教師には結構文句を言うという話も章夫は耳にしていた。若いクラス担任は荒木からクラスの生徒についてよく苦情を言われるらしかった。職員室には年長者に対して敬語を使う風があった。特に若い教師は、それがどんな教師であれ、年長者であれば敬語を遣って話した。それは美風だったが、それだけに年長の教師は自らを戒める必要があった。それ相応のものもないのに威張れば、若い教師の反発や軽侮を招くだけだった。実際、荒木に対する悪感情は若い教員の間に強いようだった。
章夫は自分の反応を二年の教師達が窺っている気がしたが、沈黙するしかなかった。はやくこの話題が過ぎ去ることを願いながら。
終りのチャイムが鳴ると、荒木が興奮した面持ちで職員室に帰ってきた。章夫はそれとなく荒木の動きを注視した。荒木は自席に教科書類を置くと、学年主任の側に行った。何を言うかと章夫が耳を傾けていると、「どうもすいません」が荒木の第一声だった。
「どうしたんね」
学年主任は苦い顔をして訊いた。
「いや、居眠りをして、何回注意をしても態度を改めんので、廊下に出ろと言ったら、出る必要はないと言い返してきたので」
学年主任はフン、と鼻で笑ったようだった。この学年主任と荒木の仲はよくなかった。いつか、帰宅する章夫を荒木が車でJRの駅まで送った時、彼が同乗していたもう一人の教師にこの学年主任に対する怒りをぶちまけるのを章夫は聞いたことがあった。
「まぁ先生ね、担任を呼べとか何とか言う前に、先生自身が生徒に言うことをきかせるようにならんとね」
学年主任は苦虫を噛み潰したような顔でいった。荒木は沈黙した。あぁ、格好の悪いことだと章夫は思った。これで荒木はますます馬鹿にされるだろうと思って章夫は溜息をついた。
十一月の末に学校全体の忘年会があった。宴会が終り、料理屋の送りのバスに一同が乗り込んで帰路についた、その車中でのことだった。宇月という三十前の教師が荒木を話題にして、周囲の、これも若い教師達と声高に話し始めた。話は宴会での荒木の言動についてらしく、それを面白おかしく、多分に荒木へのからかいをこめて話しているのだった。また荒木が馬鹿にされているなと章夫は思った。するとすぐに彼は自分が挑発されてでもいるような不快感と緊張を覚えた。宇月が荒木に声をかけ始めた。荒木はバスの前部に座っており、宇月は真ん中より少し後ろ寄り、章夫は宇月と同じ横列に通路を挟んで座っていた。章夫から宇月の姿は横に見えた。
「ヘイ、ミスターアラキ、ハウオールダーユー!」
宇月が叫んだ。そして、
「荒木先生、若いんやろう。まだ青春時代なんやろう」
と言った。章夫にはどういう脈絡で発せられている言葉なのかは分からなかったが、酔った宇月が荒木をからかおうとしていることは明らかだった。荒木の禿げ上がって、残っている髪も大部分が白くなっている頭が反転して、
「アイアム、エイティーンイヤーズオールド!」
と叫び返した。荒木の酒で赤くなった顔は笑っていた。それを聞くと、宇月とその周囲がどっと笑った。それは明らかに軽侮の笑いであり、「自分で認めよら」という囁きも聞こえた。
「ヘイ、ミスターアラキ、ハウオールダーユー!」
調子に乗った宇月が再び前方に向かって叫んだ。
「アイアム、エイティーンイヤーズオールド!」
荒木はさっきと同じように、彼にしては精一杯と思われるがなり声で応じた。その顔はやはり笑っていた。馬鹿にされているのが分からないのか、と章夫は思った。「アイアム、シックスティイヤーズオールド。もうじいさんだ」とでも答えればいいのにと彼は思った。
「ヘイ、ミスターアラキ、ハウオールダーユー!」
宇月は三度叫んだ。
「アイアム、エイティーンイヤーズオールド!」
荒木も同じように三度叫び返した。荒木には他に応じようがないんだなと章夫は思った。反撃に出ると却ってやられると思っているのかも知れなかった。
「ヘイ、ミスターアラキ、ハウオールダーユー!」
宇月が四度目を叫んだ時、
「くどい!」
と章夫は思わず宇月に言っていた。章夫が酔っていなければこれは起きなかったことだろう。章夫のヒロイズムがまた動いたのである。いじめられる弱者を救ってやろうというヒロイズムが。それともう一つ、自分に対する挑発を受けて立とうという気持も動いていた。荒木と自分とが高校の先輩後輩関係にあり、柳生を介してではあるが交際があることを知っているはずの彼等が、自分のいる所で荒木をからかうのは自分への挑発だと章夫は意識していた。この二つの気持は、章夫が素面の時であれば、自分には関係ないことだという判断によって捨てられていたはずのものだった。
「くどいですか」
意外な方向からパンチをくらったように鼻白んだ顔で宇月が言った。
「くどい!」
と章夫は繰り返した。ここは突っ張らなければならないという意識が章夫の表情を固くしていた。それに気押されたのか、この職場に入って二年目の宇月は不満そうな表情を見せながらも沈黙した。その様子を見て、
「俺の先輩なんだよ」
と章夫は言葉を添えた。その声は小さかったので聞こえなかったのかも知れないが、宇月の不満そうな表情は変わらなかった。やがて彼は章夫に矛先を転じていろいろな質問を発し始めた。敬語を遣ってはいたが、その底には酔興の腰を折られた反感がありありと感じられた。章夫はあくまで強気に、そして宇月よりも年長で職場歴も長い先輩だという構えを崩さないように対応した。周囲の教員達は二人のやりとりに聞き耳を立てていた。それは荒木がからかわれるよりも面白い出来事のようだった。章夫の強い態度が効を奏したのか、酒癖が悪いという噂のある宇月だったが、それ以上のことは起こらず、彼を含めた若い教師達は二次会に行くためにバスを降りていった。
章夫は既に後悔していた。言わずもがなのことだったと思った。宇月は荒木から日頃文句を言われる不満をあんな形で出していたのかも知れなかった。いずれにしても荒木と宇月との間の問題であり、章夫が口を出す必要はなかったのだ。宇月は章夫がどちらかと言えば好意を持っていた若手の教師だった。その宇月との間に不必要な摩擦を生んだことが強く悔やまれた。そんな章夫に印象深かったことはバスを降りた後の荒木の行動だった。彼はスタスタとは歩き出さず、降りた場所でバスが動き出すのを待ち、手を振って見送ったのだ。それは日頃の彼からすれば相当の気配りと言えた。車内から荒木に応える者はなかったが、章夫はそんな荒木の「社交」を見ていると、彼のために不必要な喧嘩をした自分がいかにも馬鹿らしく思われた。いい迷惑だと思った。やはりこの人とは一線を画しておかなければならないという思いを章夫は強めるのだった。
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