第6話
柳生は章夫や坂口と同じ学年の所属で、机も二人と同じ列にあった。章夫と柳生が親しくなり、席を行き来して話をするようになると、章夫の隣席の坂口と柳生との間にも接触が生まれた。柳生には、〈すぐ消えっしまう〉、〈全然遊んでくれん〉という二つの言葉を脈絡もなく使う癖があった。前者は一緒に飲みに出た人が途中から帰ったり、他の場所に行ったりして、姿を消すことを責める言葉であり、後者は文字通りの意味なのだが、これを柳生は挨拶がわりのように言うのだ。例えば、彼は席に座っている章夫の背後を通りながら、この二つの言葉のどちらかを囁く。章夫が驚いて振り返ると、ニヤリと笑う。それは柳生なりのコミュニケーションの方法なのだが、それが言葉遊びの好きな坂口の関心を引いたようだった。やがて二人は冗談を言ったり、からかい合ったりし始めた。そしてこの柳生と坂口との繋がりが章夫と坂口を酒場で結びつけることになった。
荒木を交えて三人で飲んだ日から一月ほど経った頃、柳生から章夫に飲み会の声がかかった。章夫がそのスナックに行ってみると、カウンターに坂口が座っていた。坂口は伊達者らしく、ブルージーンズに紺のポロシャツという出で立ちをしており、それが痩身によく似合っていた。坂口から酒場での話はよく聞かされていたが、彼と実際に飲むのは初めての章夫は、とうとう酒場で一緒になれたという喜びと緊張を覚えた。坂口も誘わず、章夫も誘ってくれとは言わず、意地を張り合っているような形の二人だったが、柳生という仲介者の出現によって同じ酒場のカウンターに並ぶことができたのだった。
章夫の隣に座っていた坂口は、自分が酒場に通うようになったいきさつを話し始めた。若い頃は職場の先輩に連れられて酒場に来ても、無口で、居るか居ないのかわからないような存在だったという。煙草も吸わなかったが、先輩から吸えと言われて吸い始めたらしい。しばらく酒場から遠ざかっていたが、四十代に入って、職場の同僚で誘う人があって、その頃から酒場の楽しみを覚えて通うようになった。カラオケが流行りだした頃で、坂口も歌を歌い始めた。歌っている間は話をしなくてすむというのがその動機だったらしい。それほど無口で話が苦手だったのが、いつのまにか口も歌も上手になっていった。今ではスナックのママに「俺は無口だから」と言うと、「誰が」と訊き返され、「ムクチはムクチでも口が六つある六口でしょう」と言い返されると坂口は笑った。
その夜、章夫は坂口の歌を初めて聴いたが、なるほど、うまいものだと思った。どちらかと言えば高い声で、旋律をよく促え、めりはりの効いた情感のこもる歌いぶりだった。坂口は章夫に「これから飲み会をする時は先生に真っ先に声をかけるから」と言った。それは章夫が聞きたいと思っていた言葉だった。お陰で自分も坂口の交際圏に入れたと、章夫は柳生に感謝すると同時に満足な思いだった。
坂口は実際その後、章夫を飲み会に誘った。ワープロで打った案内状が手渡された。地図まで描き込まれてあった。行ってみると二十人ばかりの宴会だった。学年に属する教員の八割方が来ていたし、学年外からも数少ない女教師が二人招かれていた。いつの間にこれだけの人間に連絡をつけたのか、と章夫は舌を巻く思いだった。柳生ももちろん来ていたが、彼が章夫に話すところでは、体育大会があった日の夜にもこの規模の宴会が坂口の音頭取りであったらしい。その時章夫がいないのを柳生は訝しく思ったという。章夫は一月ほど前の体育大会の日を思い返した。片付けの始まったグランドを動く学年の教師達の間に、そういえばそんな気配があったような気がした。その時は章夫は圏外におかれていたのだ。坂口は章夫に三十人の人間を集めたことがあると語ったことがあったが、それは嘘ではあるまいと章夫は思った。そんなところに単なる洒落の好きな面白い人物にとどまらない坂口の凄さがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます