第5話

       


 年度が変わり、退職や新規採用などの職員の異動を受けて、例年のように歓送迎会が開かれた。宴会が終って、会場の出口辺りには、二次会に向う人々の集りがそこここにできていた。その間を一人無言のまま通り抜けて行くのは、己の人間関係の貧しさを暴露しているようで、淋しいというより恥ずかしく、気が引ける感じがするものだ。そんないつもの肩身のせまい思いに抗するように、章夫は努めて昂然と顔を上げ、未練気なく足早に会場を立ち去ろうとしていた。門を出ると、脇に四、五人のグループが集っていた。章夫がその傍らを抜けて二、三歩行った時、そのグループの中の一人が、背後から、

「松島先生、えらいスタスタ帰りよるね」

と声をかけた。

「え」

 章夫は驚いて振り返った。声をかけてきてのは柳生哲彦だった。柳生は章夫にとって親しい存在ではなかった。前年度、章夫が受持っているクラスの社会科を彼が担当しており、その関係で二、三度話を交わした程度の間柄だった。彼は章夫より二年遅れて、やはり他の私立高校から移ってきた教師だった。

「二次会に行かん? そんなにさっさと帰らんで。松島先生は真面目やからね。まぁ、たまにはちょっと道草してもいいやない」

 柳生は冗談を言うような軽い口調で誘った。章夫は嬉しかった。彼は顔を綻ばして言った。

「いいですね。ありがとうございます。行きましょう」

 柳生は章夫も加わった六人のメンバーを自分の行きつけのスナックに案内した。章夫はその夜、職場を変って初めて二次会に誘われたのだった。六人という多人数でスナックに入るのも前の職場以来のことだった。六人の中には坂口達のグループの一員である岡部もいた。スナックのカウンターで、岡部は章夫の隣に座った。二人の話は弾んだ。章夫はカウンターに同僚と並んで座って水割りを飲んでいる自分の今を、二度とない貴重な体験をしているように感覚する瞬間が何度かあり、蘇生感のようなものを味わっていた。今までの閉塞状況からの脱出口が開けたような感じがした。それは章夫にとってまさに記念すべき夜だった。

 その夜以来、章夫は柳生と親しくなった。話をしてみると、柳生は章夫と同じ高校を卒業した先輩だった。それで彼は章夫に声をかけたのだった。柳生の物腰は柔らかく、先輩風を吹かすこともなかった。その柔軟さが章夫を引き付けた。のままの自分で付き合っていけそうに思われたのだ。

 歓送迎会から一月ほどたった頃、

「そろそろまた憂さ晴らしをせんといけんね」

 と、柳生が章夫に言った。飲み会の誘いだった。章夫には望むところだった。

「いつでもいいですよ」

 章夫は弾む気持で答えた。

「荒木君もムズムズしよるよ」

 と柳生は言った。えっと章夫は思った。弾む心に水をかけられたように感じた。荒木も誘うつもりなのかと思うと、気持が急に凋んでいった。

「荒木君と一度飲んだんだろ」

 と、章夫の反応を訝しむように柳生は言った。

「ええ」

 章夫は仕方なく答えた。荒木とはあの時以来飲みに行くことはなかったし、そんな話を口にすることさえなかった。二人は互いにその話題は避けていた。

「近いうちに計画しようや」

 柳生はそう言ってニヤリと笑った。柳生が荒木と繋がってくるのは荒木も高校の同窓生である以上当然だったが、それを思慮に入れてなかった章夫には不意打ちとなった。

 柳生が設定した日は章夫の都合が悪く、延期になった。章夫の用事は必ずしもその日にしなければならないというものではなかったが、それをキャンセルしてまで行くほどの魅力が飲み会には既になくなっていた。再設定された日は、今度は荒木が当日になってだめだと言って流れた。章夫はそれを自分へのお返しのように感じるとともに、当日になって延期しようと言い出したことに不快を覚えた。彼は荒木に構わず、柳生と二人で行けばいいという気持を抱いていたが、それをちょっと口にすると、柳生は、「二人じゃどうもね」と軽く否定した。

 三人の飲み会は突然始まった。少なくとも章夫にとっては。転んだ拍子に膝の皿を割って入院した教員を三人で見舞いに行った帰りの電車の中で、

「今から飲みに行くよ」

 と不意に柳生が章夫に告げた。

「えっ」

 何も聞かされていなかった章夫は驚き、戸惑って、言葉が続かなかった。

「荒木君が飲みに行こうっち言いよるんよ」

 柳生が言葉を添えた。

「突然ですね」

 章夫がそう応じると、         

「まぁ、こういう時はこうなるもんよ」

 と柳生は言ってニヤリとした。なるほど翌日は日曜日だった。それならそうとなぜ前もって言わないんだ、と章夫は思った。家に帰ってゆっくりしたいという思いが彼にはあった。荒木の突然の発意なのかも知れないが、こういうところに他人から嫌われる彼の自己中心性がある、と章夫は内心で荒木を断罪した。自分中心で周囲の人間への配慮がないというのは職場で囁かれている荒木批判の一項目だった。章夫は迷った。断るべきだろう、と思った。突然、今から行こうと言われて、はいそれでは、というのでは軽すぎるとも思った。しかし断りにくかった。章夫は柳生に気兼ねしていた。柳生はこれから飲みに行くのは決まったことのように楽しそうに話している。章夫が断ればこの飲み会は流れてしまうかも知れない。と言って、それなら行こうという気にも彼はなれなかった。降りなければならない駅が近づいてきた。章夫は意を決して、

「ちょっと今日はやっぱり行けそうもないですよ」

 と柳生に言った。

「どうしたの」

 柳生は何を言い出すんだという表情で章夫の顔を覗きこんだ。

「いや、用事もあるし」

 章夫の言葉の歯切れは悪かった。彼は嘘はつきたくなかった。用事は確かにあった。だがそれはその日に限らず、いつもあるという種類の用事だった。それを見て取った柳生は、

「まぁいいじゃない、たまには。先生が帰ったらどうにもならんわ」

 と言い、「奥さんが気になるの」と訊いて、「行った店から電話いれたらいい。柳生という悪友が帰してくれんと」と笑いを浮かべて言った。

「金もないし」

 章夫が苦笑しながら言うと,

[金は後でいいから」

 と柳生は頷いてみせた。そして、

「先生、酒が入ったら、もうそんなこと言わなくなるよ」

 と言ってニヤリとした。側にいた荒木はこのやり取りの間何も言わなかった。

 その夜三人は三つのスナックをはしごした。参加を渋った章夫も、柳生の言葉通り、そんなことは忘れたかのように飲みかつ歌った。荒木はあまりしゃべらなかった。話題は殆ど柳生と章夫が提供した。荒木は大半の時間、カラオケのマイクを握っていた。そして歌詞が英語の歌ばかり歌った。英語の教員であることにこだわってのことかも知れなかった。歌い方もいかにも英語の教員臭のする発音にこだわる歌い方だった。一語一語の発音は不必要なくらいに明確だが、声に抑揚がなく一本調子で、リズムやメロディーを外すことが多かった。それでも荒木は歌い続けた。荒木の歌が終ると二人は拍手をし、柳生は、「荒木君はすごいね」と賞賛の言葉を連発した。荒木はそれに対して応えるところがなかった。冗談を言うとか、相手を褒め返すとか、新しい話題をだすとか、そんな対応がなく、一言、二言自分の感想を呟くと、カラオケのメニューブックを取って次の歌を探した。面白くない人だ、と章夫は荒木のことを思った。酒の場でも他人からの気遣いを受けるばかりの負んぶに抱っこだな、と感じた。自分中心で他者への配慮がないという荒木への非難を章夫は確認する思いだった。


      

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る