第4話


 当分は友人を作るまいと思い、実際、同僚の誰とも積極的につき合おうとしなかった章夫だが、三年目に入ると物寂しさを感じるようになった。それは種々の宴会の後に特に強まる感情だった。まだ飲み足りない、もっと楽しみたいと思うのに、二次会に誘おうと思う人も、誘ってくれる人もいないのだ。初めの二年間は、金もかからず健康にもよく、飲み過ぎてトラブルを起こすこともないと自分を納得させて、一次会が終るとさっさと帰っていた章夫だが、三年目に入ると物足りなさを覚えるようになってきた。金を稼ぐだけでなく、仕事が終った後は一緒に酒を飲む同僚がいてこそサラリーマン生活として完成しているという考えが章夫の頭に浮かぶようになった。自分にもそんな楽しみがあってもいいし、あって当然だ、などという思いが脳裏に明滅するようになったのだ。

 章夫の隣では相変わらず坂口と小杉の「掛合い漫才」が毎日行われていた。二人はお互いのコーヒーを淹れ合う。自分のコーヒーを淹れる時、相手のカップも持っていき、一緒に淹れてやるのだ。淹れてもらった方は、「またチバが当たることをして」と他方に言う。バチを反対に言うのだ。それが「漫才」の一つの口火となる。「チバが当たる」はコーヒーを淹れる度に繰り返される言葉だから、少なくともその回数だけ「漫才」も行われることになる。その「漫才」のなかに章夫も口を挟むようになっていた。

「太鼓の皮ですね」

 坂口が小杉に「またチバが当たることをして」と言った時、すかさず章夫はそう言った。            

「何ですか、それ」

 坂口が尋ねた。

「バチが当たるでしょう」

 章夫が答えると、坂口は一瞬黙り、ウーンと後ろに反る仕草をして、

「参ったなぁ」

 と言った。

「松島先生もすごいですね」

 と小杉がボソリと言う。

「先生もだんだん毒されてきましたねぇ」

 その坂口の言葉に、

「いや、毒されてきたんじゃなくて、洗練されてきたんですよ。お陰で」

 と章夫は応じた。

「そういう言い方が、先生、毒されてきた証拠ですよ」

 坂口は笑いながら言った。

 坂口達の会話の中に次第に加わるようになっていた章夫だが、彼等は章夫の秘かな期待に反して、彼を飲み会に誘ったり、宴会の後、二次会に誘ったりすることはなかった。これには章夫の側にも原因があった。坂口との話のなかで、章夫は彼がよく酒場に行くこと、そしてそこではなかなかの役者であることを知っていた。実際そういう話は三年目も隣席になった二人の間で何度も繰り返されていたのだ。章夫は坂口の話を、ほう、ほう、と感心したり、興味深そうには聞いたが、それでは次の機会には自分も連れていってくれ、とは言わなかった。何度か口に出かかったのは確かだが、例の、自分から進んでは交友関係を作るまいという抑制が働いたのだ。そこには又、一つの出来上がっている交友圏に望まれもしないのに入ろうとして、迷惑がられることを恐れる気持もあった。しかし、坂口にすれば、これだけ酒場の話をしているのに、連れて行ってくれとか、自分も加わりたいなどのことを言わないのは関心がないからだと判断してしまうのも仕方のないことだった。むしろ坂口としては、自分の大切な楽しみの話をたっぷり聞かせてやっているのに、聞き流されているようで、自尊心を傷つけられているのかも知れなかった。また章夫の態度には、坂口と小杉の交友を冷ややかに観察しているところがあった。これも自分から進んでは交友関係を作るまいという気持と関係しているのだが、章夫は坂口と小杉との関係に交友関係の煩わしさをも見ていたのだ。頻繁に話しかけてくる坂口に応じなけれならない年下の小杉の煩わしさ。コーヒーを淹れ合ったり、一緒に煙草を吸いに行ったり、坂口の仕事を小杉がしてやったり、そのお返しを坂口がしたり、等々。二人の間には交友関係がある故の様々な気遣いの応酬があった。帰る時も二人は一緒に帰った。小杉が坂口を車で送るのだった。そういう二人を眺めながら、章夫は交友関係を持たないことの気楽さを自分に対して言い聞かせていたのだ。ともすれば彼等二人の固い繋がりを羨み、友がいないことを淋しく感じる自分に対して。そんな章夫の冷めた眼差しを彼等が感じとって、章夫との間に一線を引く気になっているということも十分に考えられることだった。

 ある時、坂口との話がまた酒場のことになった。カラオケの話だった。小杉もその話に加わってきて、坂口がとても歌がうまいと言った。「プロも裸足ですよ」という小杉の言葉に、「そんなことはないですよ」と謙遜する坂口だが、満更でもないという表情だった。

「レパートリーはどのくらいあるんですか」

 章夫が訊くと、

「そうですね、六百くらいかな」

 と坂口は答えた。

「え、六百」

 章夫は絶句した。六十の間違いではないかと思い、確認の意味をこめて、

「六百とはすごいなぁ」

 と言ってみたが、坂口はその数を訂正しなかった。坂口との交友に対して自分の積極性が足りないことを意識していた章夫は、

「それは是非とも聞かせてもらいたいものですね」

と言った。それが彼の精一杯だった。「是非今度は連れて行って聞かせて下さい」とはやはり言えなかった。そこには遠慮というより、むしろ誘わない相手に対してこちらから連れて行ってくれとは言わないぞという意地のような気持が働いていた。章夫にしてみれば、酒場の話をこれだけ関心をもって聞いてきた自分をまだ誘わないのは、誘わない方に罪があると思われるのだった。坂口に引かれる気持が逆に章夫にこだわりを抱かせていると言えた。

 坂口達のグループが飲み会を計画していることが、彼等が交わす会話から章夫にも分かる時があった。ああ、何日に行くんだな、と思うと、自分に声が掛からない淋しさを感じると同時に、ふん、関係ないや、という反発の苦い気持が起きた。ある土曜日、その日は夜に坂口達の飲み会があることが分かっていたのだが、章夫は学校の帰りにふらりと喫茶店に入った。一週間が終り、明日は休みという解放感は確かにあったが、だからこそと言うべきか、こんな時に一緒に遊べる同僚がいないという孤独感が彼の心を締めつけていた。今晩同僚と飲む計画があればどんなに楽しいだろうと章夫は思った。俺は友達を求めているのではない。一緒に酒が飲める同僚がいればそれでいいんだと彼は思った。店の中には彼の他に客がおらず、カウンターの中にいる店員から見つめられているようで、章夫は落着かない気分だった。そんな気分を追い払うように、彼はぐるりとゆっくり首を回した。そしてコーヒーカップを取り、自分にできる気晴らしは喫茶店に入ることぐらいか、といううらぶれた気分でコーヒーを啜った。

 それは忘年会の折のことだった。章夫の斜め前に偶然荒木が座った。章夫は荒木とありきたりな会話を交わした。荒木は他に話す人もなく黙々と飲んでいた。席を立って他の所に酒を注ぎに行くとか話をしに行くとかいうことはなかったし、彼に話しかけてくる者もいなかった。それは章夫も大して変りはなかった。違っていたのは章夫の場合、隣に座った事務のおばさんがいくらか話し相手になっていたということぐらいだった。章夫はふと、この後荒木と飲みに行こうかと思った。孤独な者同士が手を結べば孤独はなくなるのだった。それは極めて合理的な解決と思われた。といっても、人間として引かれる所も、気心の合うところもない荒木と飲みに行くのは心理的に不自然で抵抗があった。しかしその時の章夫には義侠心のようなものが動いていた。職場の大多数の者から疎んじられている荒木と一緒に飲みに行くことは、不当な迫害を受けている罪のない弱者に救いの手を差し延べることのような気持がしていた。それに荒木を二次会に誘うことは、彼から受けてきた好意への返礼となり、何の報いもしていないという負い目を払拭する機会になるようにも思われた。誘えば荒木は必ず応じてくるという確信が章夫にはあった。果して言ってみると、初めは意外そうな表情を見せた荒木だったが、やがて嬉しそうに頷いた。

 荒木と行ったスナックで章夫は一人で酔ってしまった。何を話したか殆ど思い出せず、最後は全く記憶にないような飲み方をしてしまった。もっと飲みたいという単なる欲望を、相手を救うとか、好意に報いるとかの大義名分で飾った結果がそこに出ていた。章夫は酔いが醒めた時、荒木を傷つけたことを感じていた。自分の酔態を見て、荒木はなぜ自分が誘われたかを覚っただろうと思われた。しかし、学校で会った荒木は楽しかったと章夫に言い、また飲もうと言った。感じたはずの不快感については、ああいうピッチの早い飲み方はやめた方がいいとたしなめただけだった。自責の思いに駆られる章夫には、相手に金を出させなかったことだけがせめてもの気休めとなった。


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