第3話
新しい職場に移ってきた章夫に、坂口や小杉とは別の面から接触の生じた人物がいた。彼ー荒木誠は章夫と同じ高校の出身で、三年先輩だった。
出勤の折、JRの駅前に降り立った章夫を荒木は何度か車で拾ってくれた。帰りもタイミングが合えば、歩く章夫の後ろから警笛を鳴らして車を近づけてきた。学校の中で話を交わすことはあまりない荒木だが、自分に好意を抱いてくれていることは章夫に十分伝わってきた。その好意が何に由来するのかと考えると、高校の同窓ということ以外、章夫に思い浮かぶものはなかった。それはくすぐったいような思いを章夫に抱かせた。
二人がたまに話を交わすのはワープロ室の中だった。ワープロを打っている章夫に煙草を吸いに入ってきた荒木が話しかけてくるという形が多かった。ワープロ室というのは職員室の端に三つ並んだ応接室の一つで、二辺の壁に接して並べられた机の上に、三、四のメーカーのワープロが八台ほど置かれていた。部屋の中央には応接セットがあって、そこが応接室であることを示していた。応接室は使われていない時は職員の喫煙室、休憩室ともなっていた。「問題作っとるの」とか何とか、荒木は背を向けてワープロを打っている章夫に話しかけてくる。章夫はワープロを打つのを止めて、荒木の方に向き直る時もあるし、ワープロを打ちながら相手をする時もある。それはその時々の章夫の心理的状況によった。しかし二人の会話は長くは続かなかった。荒木がそんなに長くは居ないからだ。会話に沈黙が訪れ、それが二、三度重なると彼は腰を上げた。章夫の仕事の邪魔をしては悪いという配慮は勿論あったろうが、それよりも、沈黙が何度も訪れるような会話それ自体を厭うような風が荒木にはあった。それは彼の自尊心を傷つけるようだった。それでも荒木は、次の機会にはまた章夫に話しかけてくるのだった。そこには彼なりに章夫とのコミュニケーションを取ろうと努めている姿が表れていた。
そんな荒木の好意に対して、章夫は感謝の気持と同時に戸惑いをも感じていた。それは一つには前に述べたように、章夫には当分友人を作る気がないからだった。相手の好意に応えて、積極的に付き合おうという心理状態に彼はなかった。もう一つの理由は、荒木は章夫にとって好ましいタイプ、親しみを感じさせるタイプではなかったということだ。章夫から見る荒木はいつもセカセカしていた。いつも何かに追われているように落着きがなかった。自分の抱えている問題で手一杯で、他人のことにかかずらう暇はないという感じだった。踵を上げ、爪先立って歩く独特の姿にも、いかにも余裕がないという雰囲気が漂っていた。章夫がはじめて荒木と話を交した時、荒木は章夫がどんなコネでこの学校に入ったのかと訊いてきた。さらにここでもらう給与は前の学校とくらべてどうかと尋ねた。どちらも大抵の人間が関心を持つ事で、率直な質問と言えたが、知り合ったばかりの人間に発する問いではなかった。章夫は鼻白む思いをしながら、給与については「あまり変りませんよ」と答えた。確かに前の学校より給与は良くなっていたが、素直にそう答える気がしなかった。荒木は期待外れのような顔をした。給与については荒木はその後の会話でもよく口にした。そして確かめるように再び前の学校との比較を尋ねてきた。章夫が今度は素直にここの方がいいと答えると、そのはずだというように満足気に頷いた。荒木が給与にこだわるのは、それが彼がこの学校を辞めない理由だからだった。給与が他の学校に比べていいから勤めているので、悪ければこんな所には居ない、とうのが荒木がよく口にする言葉だった。給与がいいから職場に居るということは、逆に言えばこの職場に何の面白みも感じていないということだった。荒木との会話のそんな内容も、章夫の彼に対する人間的興味を失わせる作用をした。
章夫に荒木に対して距離をとるようにさせたもう一つの理由があった。それは次第に判ってきたことだが、荒木が職場で不人気だということだった。職員室で四、五人の教師が話をしていて、「あれが四十年以上生きてきた人の常識かと思うよ」といかにも軽蔑したような調子の声が聞こえたので、章夫が耳を傾けていると、荒木のことだった。それを皮切りに章夫は荒木の悪評をしばしば耳にするようになった。三、四人の教員が時折笑い声をまじえながら、あきれたような口振りで人の噂話をしている時、話題の主はたいてい荒木だった。荒木への同僚の批判は、仕事ができない、人のことを考えない、生徒の指導ができない、などの点にあるようだった。章夫自身も出勤の折、JRを降りた駅で時々一緒になる定年に近い教員から、荒木が授業のやり方や生徒指導について何度も校長に呼ばれて注意をうけており、そのためクラス担任から外されていることなどを聞かされていた。そうした周囲の評価を頭に入れて、改めて職員室での荒木の様子を眺めると、確かに席に近い一、二の教員を除いて、他には話を交わす人もいない様で、一人黙然と椅子に座っていることが多いのだった。周囲から疎まれている人物と親しくなることは、自らも周囲からそう遇されることにつながる恐れがある。章夫は荒木との接触をためらわざるを得なかった。かわいそうだな、という気持も起きたが、荒木自身に章夫が魅力を感じない以上、リスクを犯してまで接近することもなかった。荒木にしても同情から付き合ってもらいたくはないはずだった。
というわけで、自分に好意を持ってくれている荒木に対して章夫ができる事は、擦れ違う時に声を掛けたり、食堂で隣合わせに座った時などに話を交わすことぐらいだった。荒木の方も章夫に話しかけてくるのはそのような折か、ワープロ室の中だけで、それ以外の時に自分から章夫の所に話をしに来るようなことはなかった。
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