第2話
章夫にとって幸運だったことは、転校してきて以来、隣席の教師がずっと気安い人物だったことである。
隣席の教師ー先ず小杉精一は章夫と同年輩の教師で、太って腹が出ており、ゆったりとした動作、低く太い声、緩やかな物言いなどで鈍牛をイメージさせる男だった。小杉には言葉遣いに奇妙な癖があった。彼独特の感覚で言葉を濁らすのだ。例えば数字の八を彼は「バチ」と言った。谷口という生徒の名前は「ダニグチ」と発音された。どの言葉に濁点がつくのかは決っていない。小杉はその時々の気分で言葉を濁らすのだ。その他にも彼は特有の語彙を持っていた。何か困った状態に陥った時は、「ワイタコイタ」と呟いた。驚いた気持の表現としては、「エツ」と言った。「エッ」と言うのが普通だが、小杉は「エツ」と「ツ」をはっきり発音するのだ。すると本当は驚いていないのに、表面だけ驚いた風を装っているという皮肉なニュアンスが出てきた。こうした風変わりな物言いが意識してと言うより自然に出てくるところに小杉のユニークさやおかしみが醸し出されていた。
その小杉の席を頻繁に訪れる教師がいた。彼ー坂口富男は小杉より一回り上の年齢で、小杉とは対照的に痩せぎすだった。話し方も、ボソボソと呟く感じの小杉に対して、坂口の声は高く、はきはきしていて、その言動は何かにつけて派手だった。対照的な二人だったが、共通点は駄洒落や語呂合せなど言葉遊びが好きなことだった。
坂口は時間を持て余しているような様子で、殆ど休み時間毎に小杉の席にやって来た。
「どこに行っとったんですか」
と坂口が授業から帰ってきたことが明らかな小杉に訊く。小杉がいない間、坂口は苛立たしげに小杉の席の後ろを行ったり来たりしていたのだ。
「授業に行っとったんですよ」
と小杉が、何を言ってるんですか、という口調で答える。
「その前の休み時間も居らんやったやないですか」
と坂口の追及は緩まない。
「ああ、ワープロ打っとったんですよ」
小杉は律義に答える。小杉の不在を詰る口調の坂口だが、別に用事があるわけではない。ただ小杉を相手に馬鹿話で時間をつぶしたいだけなのだ。
「先生は最近とりつく島がないからな」
と坂口は皮肉を言う。
「そんなことはないですよ」
と小杉が否定する。
「いやいや。内心うるさい奴だと思っているでしょう。休み時間のたびに来やがって、て」
「ジョークソノキンタマですよ」
と、小杉が素早く応じる。「ジョークソノキンタマ」というのは「とんでもない」という意味の小杉語だ。
「先生、ちょっと行こうか」
と坂口が煙草を吸う手付きをする。喫煙室で一服しようというのだ。これを彼等は「モクして語る」と称していた。
「ちょっと待って下さい。これだけ片付けたら行きますから。先生、先に行っといていいですよ」
と小杉が机の上の書類を指して言う。
「何ですか」
坂口が覗き込む。
「先生、もう出したんでしょう」
小杉が皮肉な調子で訊く。
「とんでもない。まだ調べてもいませんよ」
坂口は禿げた頭を振って否定する。生徒の進路志望を調査、集計して進路部に提出することになっていた。
「先生、仕事が早いですね。さすが能力のある人は違うなあ」
今度は坂口が皮肉の応酬をする。
「ジョークソノキンタマ。先生の足元にもおよびませんよ」
と小杉も負けていない。小杉は調査用紙を捲りながら、
「勉強はせんくせに志望だけは高い」
と呟く。すると、すかさず坂口が、
「先生、生徒に童謡歌ってやったらいいですよ」
「うん、何で」
小杉が尋ねると、坂口は歌い出す。
「トォーランゾ、トォーランゾ」
隣で二人の会話を聞いていた章夫も、ここで笑ってしまう。二人の会話はいつもこんな調子だった。ユニークな人達だと章夫は思った。前の学校にはこんなタイプの教師はいなかった。
小杉が章夫の隣だった翌年には坂口が隣席に来た。受持クラスの番号順に席が並んでいるのだが、坂口の隣には、偶然か意図したものか、小杉が座った。それで章夫は前年に続いて二人のやりとりを横から見聞きすることになった。
ある時、坂口が一心に書き物をしているので章夫が覗いてみると、紙面には妙な漢字が並んでいる。
「先生、何をしているんですか」
章夫が好奇心に駆られて尋ねると、
「え。いや、小杉先生に読ませようと思いましてね」
と、坂口は笑いながら答えた。やがてチャイムが鳴って小杉が授業から戻ってきた。坂口はなおも書き続けていた。小杉はその様子を見て、
「また何かタクラマカンしてますね」
と言った。また何か企んでいるなということだ。
「先生、これ読める」
坂口は書き上げた紙を小杉に渡した。小杉はウーンと唸りながらも、これは何、これは何と読んでいった。
「ずごいなぁー。さすが先生だ」
坂口は「すごい」を小杉に倣って濁らせた「ずごい」を連発して感嘆する。その賑やかさに章夫も紙を覗き込む。紙にはおかしな漢字が三十ほど並んでいた。
「これはロクデナシでしょ」
小杉が指差す字は「六」の上部に読点を一つ添えた字。「虫」の最後の一画を省いた字は点取り虫。「田」は「力のない男」と読むらしい。章夫は五十を過ぎて頭の禿げた坂口と、四十を過ぎた小杉がこんな遊びに興じているのを愉快に思ったが、同時に少し異様なものを感じたのも事実だった。
とにかく彼等二人が真面目に話すのを聞くことはまれだった。真面目な調子で始まった会話も、二、三度やりとりがあると、たちまち冗談や軽口に流れていった。こんな彼等のくだけた雰囲気が、周囲の人間に自分から進んで接触しようとはしていなかった章夫を、その中に引き込む作用をしたのは確かだった。
小杉は坂口と話すほかは、どちらかと言えば寡黙であり、自己を語ることはあまりなかったが、坂口はもっと開放的だった。何かの折にふと話しかければ、坂口は自分から次々と話題を展開した。飼っている愛犬の話、趣味の競馬の話、そして酒場の話。特に酒場の話は熱がこもっていて、坂口という男をよく伝えた。進路部長をしていた坂口は、やめて三年になる現在も予備校や企業のその当時の担当者との付き合いが続いているという。企業の忘年会や新年会に招待されることもあるという。坂口が加わると座が明るくなるというわけだ。そういう場合、坂口はさすがに一次会は遠慮して二次会から参加するらしい。新入社員の歓迎宴会に招かれた折に、帰りが遅くなった新入りの女子社員を自宅に泊めたこともあるという。進路部長時代は飲み事も多かったわけだが、相手が飲み代を持つ形の場合も決してタダ酒は飲まなかったという。自分の飲み代はきちんと取ってもらったし、それができない時はポケットマネーで相手を招待してお返しをしたらしい。そんな話を坂口は彼特有の歯切れのよい口調で話すのである。そうした経験の全くない章夫はただ感心しながら聞くほかはなかった。行きつけのスナックが二軒あり、そこのママからは誕生日やバレンタインデーにはプレゼントが届くらしかった。しんみりとした雰囲気のなかに坂口が入っていくと、彼を中心に話が盛上がり、賑やかになるので、店としても彼は大歓迎の客のようだ。気難しいそうな客も、坂口がうまく相手をして輪のなかに引入れていくので、下手な女の子を雇うよりママは重宝しているという。「気難しい人は自尊心が強いんですよ。そんな人とうまく接するコツは、その人の話をじっくり聞いて感心してやることですよ」と坂口が何でもないことのように言った言葉が、章夫には深く人間心理を洞察した言葉のように思われ、大したものだと内心で坂口を評価するのだった。「僕が一番長く馴染んだ店は別にあったんですけどね。去年閉店してしまったんですよ」と坂口は次の話題に移っていく。その店のママは嫌な客は追い出してしまうような激しいところのある女性だったが、坂口を気に入って、彼がカウンターの中に入ってバーテンのようなことをするのを許していた。「そんなことができたのは常連客の中でも僕だけですよ」と坂口は口調を強めた。休みの日でも坂口達が申し込むと、店を貸切りで開けてくれたと言う。一人いくらと決めて、十人以上集めればそうしても決して店の損にはならない。「もともと休みで売上げゼロの日なんだから。それに休日と知っているから他の客も来ないしね」と、坂口は店には迷惑な話ではないことを強調するのだった。飲みに出た時にはその店が最後に寄る店と決めていたらしい。そのママは年を取って仕事がきつくなり、店を閉めたという。閉店の際は得意客を集めて派手な打上げをしたらしい。
坂口はこういう話を空き時間の一時限ほぼ全部を使って章夫に聞かせることもあった。章夫は坂口の話を聞きながら、気さくで言葉遊びに興じる剽軽な面がある一方で、人間関係や人間観察に鋭いセンスを持っている坂口の人柄に引かれていった。
章夫にはこうして小杉と坂口という話を交わす同僚ができた。小杉と坂口には他に岡部と松村という仲のよい教員がいて、四人のイニシアルを取って、「コスモス」という会を作っていることも章夫は知った。「コスモス」は勉強会であるらしいが、飲む会でもあるようだった。岡部も松村も章夫には親しみやすいタイプの教員だった。
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