交友関係
坂本梧朗
第1話
松島章夫は三十代の終りになって現在の職場に変ってきた。その年齢になると新しい友人はできにくいものだが、章夫はその上新しい職場での交友関係を自分から進んでは作ろうとしなかった。それは交友関係というものに彼が興味を失っていたからだ。もっと正確に言えば、他人との間に交友関係を保つ能力、或いは交友関係を結ぶ資格が自分には欠けているのではないかという思いがあったからだ。うまくいきそうもない事、結果として苦汁を嘗める羽目になりそうな事に対して、人は興味を失うものだ。
章夫がそんな心境になったのにはもちろん理由がある。彼が職場を変る際、親しかった二人の同僚を裏切る形になったことだ。もっとも、その当時の章夫には裏切っているという意識は少しもなかった。だから友人から「裏切り」という言葉を聞いた時、彼はショックを受け、強い反発を覚えた。彼がその言葉の意味を受容し始めるのにはしばらくの時が必要だった。
章夫が現在の学校に変ったのは妻方の親戚のコネによるものだった。妻に促されて、章夫が軽い気持で会ったその親戚の会社社長は、学園の理事長とごく親しい間柄で、会ったその日に、社長から理事長への電話一本で、章夫の就職はほぼ内定したのだった。学校から正式の内定通知が届くまでこの件は秘密にしておくように社長から指示されたが、親しい同僚の二人には前もって知らせるのが友情だろうと考えた章夫は、正式の通知がくるかなり前に彼等に打ち明けた。章夫の話に彼等は衝撃を受けたようだった。なぜ相談してくれなかったのだと一人は言った。相談するも何もあっという間に決ったんだと章夫は弁解した。しかし、たとえ時間的に余裕があったとしても、章夫には相談する気はなかった。彼はこういう問題は他人に相談すべきものではないと思っていたからだ。まぁ、よかったじゃないか、と彼等はやがてそれぞれに言った。「よかった」というのは変っていく先が今勤めている学校よりはるかに進学成績のいい学校だったからだ。しかしその言葉には既に自分達と章夫との間に一線を引いた響きがあった。
年度末に三人だけの送別会をした時、「松島は裏切ってサッサと辞めてしまうし」という言葉が彼等から出た。それは章夫には心外な言葉だった。一緒に辞める約束などした覚えはないぞと彼は内心で反発した。その折、学校は変っても付き合いは続けようと確認し合ったのだが、その後二年ほどで章夫と彼等の交際は途絶えてしまった。
「裏切り」という言葉に反発を覚えた章夫だったが、時が経つにつれて彼等の気持も分かってきた。ほぼ同期に就職し、年齢も近接していた三人は、まだ若かったこともあり、すぐに意気投合した。一緒に酒を飲み、職場や人生について語り合った。休日にはスポーツをしたり、家族ぐるみで旅行もした。学習会を行って学校改革について話し合ったりもした。そんな付き合いだったのに、何の相談もなく、一人だけ条件のいい学校に移って行ったのだ。彼等にしてみれば裏切られた思いがしたことだろう、と章夫にも考えられるようになった。さらにそれと並行して、章夫の心の中でしだいに大きくなっていった思いがあった。それは彼が学校を変るに際して、彼等友人のことを余りに僅かにしか考慮しなかったことだった。彼等との関係に絡ませて自分の進退を考えるということが章夫には殆どなかった。彼等との関係がこれからどうなるかということが、幾分でもゆっくりと彼の思慮に上るようになったのは正式の内定通知が届いてからだった。それまでは無事に学校を変れることが、彼の第一の関心事であり、願いだった。なるほど彼は自分一身の進退については他人に相談すべき事柄ではなく、当然自分で決めるものと考えてきた。しかし、新しい職場に入って、周囲の人々が事を決めるに際して親しい人とよく相談をし、その関係を損なうことがないように配慮している様子を見聞きすると、必ずしも自分の考えが正しいとも思えなくなった。やはり自分は冷たい人間なのかもしれないと章夫は思った。友達づきあいというものに対する自分の資質に彼は疑いを抱いた。俺は友人を作る資格がない人間なのではないかという思いが彼の頭を過るようになった。そして、友人を作っても、どうせ「裏切り」に帰結するようなことになるのなら、いっそ友人は作らない方がよいという考えに彼は傾いていった。
新しい職場には前の職場とは違う幾つかの面があった。先ず中高一貫の男子校だから当然の事だが、生徒は男子しかいない。前の学校は男女共学で、クラスの三分の一ほどが女子だった。女子がいると雰囲気は確かにソフトになる。もちろんツッパリの男子生徒も多かったが、どこかにソフトな、つまりちょっとした表情やしぐさで意思が通じるところがあった。男子ばかりの集団というのは繊細な感性など不用としてしまうようで、すべては明確な言葉と態度で表さなければならなかった。叱るときは厳しい表情を作り、声を大きくして少し荒げないと、彼等は自分が叱られているのだとは自覚しない。冗談や皮肉にまぶして注意してもキャッチできる、むしろその方が効果がある女子生徒とは違っているのだ。そういうソフトな叱り方は多くの場合逆効果で、教師をなめさせるか、あるいは反発を抱かせるのが落ちだった。確かに前の学校より偏差値の高い生徒が来ているので、授業中の態度は全般的に良く、手を焼かせる生徒も少なかったが、クラスに一、二名真正面から反抗してくる者もいて、章夫は戸惑い、何度か苦い思いを味わされた。自分の言行のちょっとしたミスを突いて抗弁してくる生徒を見ていると、頭がいいということは意地が悪いということでもあるという思いを章夫は抱いた。その点では前の学校の生徒の方が素直で善良だったと思い返されもするのだった。
職員室の様子も当然ながら違っていた。教師の数が多い。これは生徒数が多いから当り前だが、前の学校と比べて講師の割合が低く、専任教諭が多い。これは教育条件としてはより恵まれていることを示していた。男女比では男が圧倒的に多い。女教師は三人しかいなかった。一人は養護教諭、一人は常勤講師、残りの一人が専任教諭だった。章夫が前に勤めていた学校は前身が女子高校だったため、女教師が過半数を占めていた。男性教師が多いためか、職員室の雰囲気は明るく快活だった。話し声や笑い声が職員室内によく響いた。誰が誰とどこで何を話しているかが明瞭だった。そしてその声の組合わせは様々に変った。つまり職員同士がよく交流していた。前の学校はそうではなかった。職員室は概して静かであり、ある人が話をする相手やグループは固定していた。
職員室にはいろいろな業者が出入りした。休みが近づくと旅行会社が数社、種々の旅行プランを載せたパンフレットやチラシを配った。保険の外交員もよく顔を出した。デパートや専門店の催し物の案内なども時折机の上に置かれていた。市内の大手デパートと学園は特約関係を結んでいて、職員がそのクレジット制度に加入すると、七パーセント引きの値段で、しかも金利なしの月賦払いで買物をすることができた。ネクタイ業者も二カ月に一度くらい来て、職員室の一隅にネクタイを並べ、二、三割引きの値段、給料日払いで販売した。メガネ屋も時折顔を出し、サービスでレンズを拭いてくれたり、フレームの調整をしてくれた。これらの事も前の学校にはなかったことで、章夫に社会的地位の上昇を感じさせて、その虚栄心をくすぐった。
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