第十七話 渇望

 その夜――


 響子の夢に、泥に濡れた日本人形が現れた。


 目は赤く、口から黒い毛髪が溢れていた。


「ワタシの……カラダ……もどして……」


 そして夢の中で、響子は見た。


 あの日本人形を抱いた妙子が、ゆっくりと首を傾けながら、何かを呟いている姿を。


「この子が、私の本当の子だったら……よかったのにね……」




 響子は飛び起き、すぐに妙子の家へ向かった。


 だが、妙子の姿はなかった。


 台所には、一通の手紙と、床の上に無造作に置かれた“日本人形”。


 手紙にはこう書かれていた。


「私はこの子と一緒に行きます。きっと、あの子はもう一人じゃないから。あの家に、帰ります。」


 日本人形の両目には涙のように濡れた血が滲んでいた。




 響子は恐怖と焦燥を胸に、再び“あの家”へと車を走らせる。


 家族を次々と引き込む悪魔の器たち。


 そして“日本人形”が示す、新たな供物の名。


 その名は「母」。


 マセシエルは今、母なる存在をも壊そうとしている。




 響子があの家に到着したのは、夜の十一時を回った頃だった。


 空には月がなく、まるでこの家の上空だけ、黒い布を被せられたように闇が深かった。


 妙子の車は玄関前に停められていた。エンジンは冷えている。


 響子は、嫌な予感を覚えながら玄関に手をかけた。


 ――ギイ……


 開いた玄関の奥から、赤子の泣き声が微かに聞こえた。


 その音は確かに人の子のように感じたが、不自然に湿り気を含んでおり、言いようのない不気味さがあった。


「妙子さん……?」


 返事はない。




 玄関から一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 この家に充満しているのは、ただの悪意ではない。


 産まれることなくして死んだ魂の呪念。


 まるで胎内に棲みついた死霊が、外に出ようともがいているような圧力だ。


「やっぱり……“母”を器にしようとしてる……」


 そう、マセシエル――あの悪魔の狙いは、次の“完全なる依代”として、


 母・妙子の心と体を呑み込むことだった。




 リビングに入ると、そこには妙子が座っていた。


 畳に正座し、胸元には、あの日本人形を優しく抱いていた。


「……この子、ねえ……とっても、あったかいのよ」


 妙子の声はうわ言のようで、虚ろな瞳は焦点を失っていた。


「妙子さん! その人形は離して!」


 響子が声を張り上げたその時、妙子の目がこちらを見た。


 だが、それは妙子の目ではなかった。


 瞳孔は異常に拡張し、両目はガラス玉のように赤く染まっていた。


「響子さん……あの家、ね……私たち、まだ住んでるのよ……あの子たちも、みんな……待ってるの……」


 妙子の声が震えだし、抱いていた人形が、勝手に手足を動かし始めた。


 ガクガクと、関節の噛み合わない動きで、指が妙子の首に絡みついていく。


「やめなさいッ!!」


 響子は持参した浄化の鏡を人形に向けた。


 すると――鏡面に、無数の赤ん坊の顔が浮かび上がった。


 産声をあげることなく死んだ魂たち。


 それは、過去に“器にされかけて壊れた母親たち”の呪詛だった。




 突如、部屋の天井が轟音と共に裂けた。


 そこから降りてきたのは、漆黒の血で濡れた女の形をした悪魔だった。


 髪は足元まで垂れ下がり、目は血の涙を流していた。


 腹部は膨らんでおり、まるで妊娠しているかのようだった。


「この器こそが相応しい……こいつは家を離れなかった……壊れかけの母性……憎悪と後悔で満ちた体……これほど都合のいい“母胎”は他にない……」


 それは“母を器とする悪魔”――グラヴィアスだった。



「妙子さん! あなたの中にある“母の愛”が、本物なら、こんな存在に負けないはずよ!」


 響子は祈るように叫んだ。


 その言葉に、一瞬だけ妙子の瞳が揺れた。


「……私は……母親……なのよね……?」


「そうよ。あの子たちを守りたかったはず。今も、守れる!」


 その瞬間、妙子の胸元に抱かれた日本人形が、バキバキと音を立てて砕けはじめた。


「何をする……!? 器が……!」


 悪魔の咆哮とともに、家全体が大きく揺れた。


 畳の隙間からは黒い手が這い出し、天井からは赤い涙が降り注ぐ。


 響子は浄化の札を空中に放ち、ラテン語の祈祷を唱え始めた。


「Exorcizamus te, omnis spiritus immunde…!」


 札が一斉に炎を上げ、悪魔の体を縛り上げる。


「名を告げよ! お前の本当の名を!」


 悪魔は悲鳴を上げながら叫んだ。


「我が名は……グラヴィアス・マセシエル……! 母なる胎に巣食う影……!」


 祈祷の力で悪魔は再び結界に封じられ、妙子の腕の中で日本人形は完全に砕け散った。


 家の空気が、初めて静寂を取り戻す。


 妙子は、膝をつき、声を上げて泣いた。


「わたし……あの子たちを……守れていたのかしら……?」


 響子は静かに肩に手を置いた。


「まだ間に合います。芳生さんも……博行さんも……あなたの想いは、届いています」



 そして……


 破壊された日本人形の砕けた破片の中で、


 一つだけ、ひときわ濁った黒い瞳が未だに動いているように見えた。


 それは、次の器を、静かに探しているようだった。


 ――(完)――



#ホラー小説

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霊能力者 間宮響子-悪魔の棲む家- 江渡由太郎 @hiroy

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