エピローグ
身の回りの品を背嚢に詰め終えると、ミナは窓に目を遣った。空は雲一つない快晴で、夏色に変わりつつある陽射しはサウスウェルズを思い起こさせた。
上級審問はすでに済んでいる。それは拍子抜けするほどあっさりしたもので、贖宥石や落火については一切触れられず、形式的に事件の経緯を訊ねられただけで終わった。結局、事件はマズローの暴走という形で処理されたらしい。
終審してすぐ、ハルは自身の教区へと帰って行った。二言三言の軽口とちょっとした遣り取り――別れのあいさつは上級審問に似て簡単なものだったが、二人にはそれで十分だった。
ベッドに目を落とす。ぼろぼろに擦り切れた二通の封書が重ね置かれている。もう何度見返したか分からないそれを、ミナは丁寧な手つきで取り上げた。
一通は、ローザからの手紙だ。退院間際に届いたそれは、彼女の安否に気を揉んでいたミナに安堵の息をつかせた。
綴られていたのは、ローザとロンゾ、そしてサウスウェルズのその後だった。
サウスウェルズは新たな司教を迎え、まるで暴動などなかったかのように落ち着きを取り戻しているという。当初はマズローの死に動揺していた住民たちだったが、彼が事件の犯人だったと説明されるや、掌を返したように蔑みの声を上げたらしい。
――ノラさんもウェルさんも、です。司教のことは許せませんが、何というか、とても複雑な気分です。
ローザがそうこぼすのも無理ないことだろう。
そんな住民たちとは対照的に、ロンゾはまだ事実と向き合えずにいるらしい。そして、自分なりにマズローを擁護しているという。
彼の説はこうだ。
第一の事件の夜に司教が聖堂へ行ったのは、おかしくなったエリスの回復を願い、
――例えそうだったとしても、司教が三人を殺した事実は変わりません。
死んだエリスに責任を被せるなと、ローザは彼に会うたび食って掛かり、いつも口論になっているという。
――でも、最後は悲しそうな顔で「すまない」とか言うから、それ以上は何も言えなくなってしまいます。ずるいですよね。
当のローザ自身は、使徒になるため勉強を始めたという。自分の罪、そして三人への贖いとして、彼女たちと共に過ごした町――サウスウェルズのために働くと決めたということだ。
――本当は自分の罪を告白して、刑に服するつもりでした。
だが、彼女は思いとどまった。
隣町に避難する直前、ハルから事件についての一切を黙秘するよう頼まれたからだ。ミナの置かれた特殊な立場を説明され、彼女は二つ返事で応えた。
――身勝手な私のお願いを、ミナさんは何も言わずに聞いてくれました。今度は私が返す番だと思ったんです。
最後は感謝の言葉とともに、いつかサウスウェルズに遊びに来てください、と締めくくられていた。
もう一通の差出人はスロース。ミナのいる専用病室の窓に、見たこともない真っ赤な小鳥が運んで来たのだ。おそらく、何らかの加護が働いているのだろう。首に結わえられた手紙を受け取ると、小鳥はさっさと飛び去っていった。
そこには、食事の誘いが短くしたためられていた。だが、それが表向きの用件に過ぎないことは次の一文がはっきりと示していた。
――もし忙しくて来られないようなら、お友だちを寄越してくれてもいいわ。ご新規のお客様はいつでも大歓迎だから。
これからも罪人を逃がすつもりがあるのなら、この場所に送ってきなさい――彼はそう言っているのだ。
末尾にはラテナ近郊の地図が描かれており、一点に✕印が記されていた。
もちろん如才ないスロースのことだ、単純に善意からの提案ではないだろう。勢力拡大のためにミナはちょうどいい
しばらく手紙を見つめていたミナは、やがて小さな炎球を作り出すと、端に火を点けた。
細い煙が上がり、ちりちりと崩れていく。あっという間に黒い燃えかすとなったそれを、彼女はそっと窓から撒いた。
残しておいてローザたちに迷惑がかかると困る。すでに内容は暗記しているし、地図もそらで描けるので支障はない。
風に散る手紙の残滓をぼんやり眺める彼女の脳裏に、ハルの言葉がよぎる。
――これからどうすればいいのかなんて、決まり切ってるんじゃないのか?
上級審問を終えてから、彼女は自分のやるべきことを問い続けてきた。そして、一つの答えを出した。
――罪人の事情を聞き、逃がす。
文字面だけ見ると、これまでやってきたことと変わりはない。ただ一つ違うのは、その行為に付いて回る不条理な面について、彼女自身が意識的になっているということだ。
自分には罪人を裁く権利などないし、よしんばあったとしても公正な判断など無理だろう。
だけど、それでも。
事情も聞かずに火刑にするのは、納得できない。
教皇に刑罰制度の見直しを約束させはしたが、今はまだ炎に焼かれる罪人たちがいる。それを見過ごすことなんてできない。
そう、これは納得の問題だ。自分勝手な、ごく個人的な思い。けれどそれに蓋をして、目を逸らすわけにはいかない。身勝手だろうと不条理だろうと、それらすべてを呑み込んで一歩を踏み出す。
それが、彼女が自分で考え、自分で導き出した結論だった
もちろん課題は山積みだ。逃がす逃がさないの線引きは? 重犯罪者の処遇はどうする? 再犯を防止するには? 逃がすだけではなく、罪と向き合ってもらうにはどうすればいい? ――考えるよりも途方に暮れる時間の方が圧倒的に多かった。
不安も当然あった。結局は以前やっていたことの繰り返しになるだけではないか、と。
そんな彼女の背中を、二通の手紙はやさしく押してくれた。
スロースから差し伸べられた提案。それは逃がした罪人たちが過酷な環境に屈して罪を重ねてしまうことに対する、大きな抑止力になってくれるはずだ。
そして、ローザの決意。親友を三人も立て続けに失った彼女は、ミナなど及びもつかないほどの深い傷を抱えているはずだ。けれど彼女はそこで立ち止まらず、前へ進もうとしている。その姿は、ミナの心を強く鼓舞してくれた。
――あの夜に決心したはずでしょ。
どれだけ間違えようが、受け止めながら前に進むしかない。
「よし」
小さく息をついた。準備はすべて整った。
荷物を担いで部屋を出ると、リズが待っていた。彼女は素早く背嚢をひったくると、ミナを上から下まで眺め回して言った。
「もう、ばっちりだね」
「髪以外はね」
布が巻きつけられた頭をさする。紅髪は伸びたとはいえ、まだ薄っすらと地肌を隠せる程度しかない。当分はこの格好で過ごす日が続くだろう。
「身体もまだちょっと動かしづらいし」
「もともとまともに動かせてないんだから大丈夫」
「いや、そんな太鼓判いらないから」
「じゃ、行こうか」
どちらともなく二人は歩き出した。すれ違った何人かが、笑顔であいさつをしてくる。入院中に顔なじみになった面々だ。ミナも笑顔で返した。
治療を求める人でごった返すエントランスを抜け、建物裏手にある退院者専用の裏口へ向かう。
「さて、と」
迷いを断ち切るように、ミナは扉を勢いよく開けた。陽光が洪水のように流れ込んでくる。
眩しいばかりの光を背に、一人の少女がぽつんと立っていた。
まだ幼い。おそらく五、六歳だろう。ぷっくりとしたりんごの頬に、くせのついた紅髪。くりくりとした瞳が愛らしい。小さな身体に纏うのはだぶだぶの修道衣で、着ているというよりは
ミナと目が合うと、少女はたどたどしい足取りで近づいて来た。どうやら彼女を待っていたらしい。だが、その顔にはまるで見覚えがない。
「えっと、ミナお姉ちゃん?」
「そうだけど……」
少女は精いっぱい身体を丸めてお辞儀した。
「ありがとうございました」
面食らうミナに、後ろからリズがそっと耳打ちした。
「その子はマリアちゃん。この前逃がした薬泥棒の娘さんだよ」
弾かれたように振り返る。リズは何も言わず、ただ頷いただけだった。
「あのね、リズお姉ちゃんがこっそり教えてくれたの」
顔を上げ、少女がひそひそ声で言った。
「パパ、あたしのために泥棒をしちゃったんだよね? でも、お姉ちゃんが助けてくれたんでしょ?」
途端、ミナの胸に暗い陰がよぎる。
目の前の少女は何も知らないのだ。逃亡した罪人の行き着く先を。生と死が隣り合わせの世界で、土にまみれて生きる落火の姿を。
今ならスロースの計らいで、罪人を街道商会へとまっすぐに送ることができる。だが、少女の父はその恩恵に浴していない。もし運悪く商会に出会えずにいるとしたら、過酷な世界を一人で彷徨う羽目に陥っているはずだ。いや、もしかするともうこの世にいないかもしれない。
「あのねマリアちゃん、あなたのパパは……」
「パパに何かあったの?」
不穏なものを感じ取ったのだろう、少女が泣きそうな顔になった。言葉が見つからずミナが狼狽えていると、
「大丈夫だよ」
後ろからリズが答えた。再度振り返ったミナに軽く片目をつむると、彼女は少女へ優しく語り掛けた。
「パパからの手紙、赤い小鳥さんが届けてくれたんでしょ? だから、大丈夫」
少女の顔がぱっと輝く。
「うん!」
うれしそうに返事をすると、今度はその口を尖らせる。
「でもパパ泣き虫だから、きっと今ごろ寂しくて泣いてるよ。それにご飯も自分で作れないし、お片付けもお洗濯も下手っぴだから困ってるよね。だからあたし、早く大きくなってパパのところに行ってあげるんだ」
彼女はもう一度、今度はさらに深くお辞儀をした。
「パパを助けてくれて、ありがとうございました」
ミナは立ち尽くした。
ハルに約束させられて、あの手紙に背中も押してもらって、もう割り切ったものだと思っていた。前に進むしかないと。
だが、違った。自分の決断は本当に正しいのか、心の中に不安はわだかまったままだった。なにせ、これまで間違いばかり仕出かしてきたのだから。
けれど。
それもまた、つまらない自分の思い込みだったらしい。
目の前の少女にとって、父が生きているというのは希望だ。かつてのミナにはなかった、何物にも代えがたい希望。それを、彼女は繋ぐことができたのだ。
自分の行為が、誰かの救いになっていた。
その事実は、夏風のようにミナの心を吹き抜けていった。ぐちゃぐちゃになって、歪に絡まり合っていた思いがほどけて溶ける。
救うことができたのはほんの一人、目の前の少女だけかもしれない。けれど、彼女にとってはそれで十分だった。
おそらく、自分はこれからも間違いを繰り返していく。だがその一方で、誰かの救いになることもあるはずだ。これまでがそうだったのだから、きっとこれからも――
「お姉ちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
マリアが心配そうに顔を曇らせる。崩れるように膝をつくと、ミナは少女を抱き締めた。
― 了 ―
神罰とレトリック 君野 新汰 @tabanga
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