15章 その3 終焉へ至る道③
「え?」
間の抜けた声が上がった。
「どういうこと?」
戸惑うミナに、ハルが厳しい顔で答えた。
「今回の事件でミナは結果的に落火を町に引き入れた上、偽証というミト教最大の禁忌まで犯してるんだ。この国がそれを許すと思うか?」
ミナの目が大きく見開かれる。自分が薄氷の上に立っていることにようやく気付いたのだ。いや、罪人を逃がしてきた彼女はこれまでも同じ状況に置かれていた。今回はとうとう薄氷に亀裂が入った、と言うべきか。
「じゃあ、あの伝言は……」
「余計なことを口走らないようにさ。偽証や落火のことをこぼそうものなら一巻の終わりだしな。ロンゾたちにもあの地方官殿にも、あの晩に口止めしておいた」
加えて、上級審問対策も兼ねていたという。
ミナの身体に刻まれた常軌を逸した火傷痕、そして一日半という短期間で首都に戻って来た事実。事件に関して、彼女の周囲には不自然な点があまりに多い。審問でそれらすべてを言い繕うのは不可能だろう。ならば、最初から黙秘を貫くほかない。
「結局、審問前にこういうことになったわけだけど」
ハルは肩をすくめた。
「こんな頭のおかしいやつと取引するのは癪だけど、他に方法がないしな」
その言葉に、ミナの中でいくつもの感情が複雑に交差する。
自分のためにハルがそこまで考えてくれたのは、素直にうれしかった。一方で、彼の好意を頑なに拒絶する部分もまた彼女の中にあった。
助かるために罪を隠蔽することへの、抑えきれない嫌悪がある。それでは保身のために嘘と罪を重ねたマズローと同じではないか。
あるいは、目の前の少年――教皇の行状を見逃すことへの抵抗がある。
『贖宥』に関しては問わないこととすると、なるほど教皇としての彼は優秀なのだろう。癒護院を設置したのは彼であるし、数々の改革を断行してきた実績もある。国の将来のため周辺国と手を結ぼうと考えているというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
けれど、それは一面に過ぎない。
人を道具と見做し、自分の楽しみのために利用する――それが彼の本性だ。
ほんのわずかな時間話をしただけだし、しかも相手は建前として否定している。だが、ミナは確信を持ってそう断言できる。実際に相手を目の前にして、皮膚感覚のレベルでそれが分かる。
なぜそんな感性が根付いたのかは分からない。『贖宥』という加護を手にしてしまったせいか、教皇という絶対的な地位に就いたためか。あるいはその両方か。いずれにしろ、それはもはや彼の中でごく当たり前のこと――深く根付いた常識になってしまっている。この短い間に何度も見せた、一点の曇りもない笑顔がその証拠だ。
ならば。この先も彼の毒牙によって人生を破滅させられる者が出てきてもおかしくはない。あの四人の司教たちと同じように。そんな危険な人物を国の頂点に居座らせておいていいのか――
「ミナ」
気が付くと、ハルがじっと彼女を見つめていた。
「マズローみたいなことをするのは嫌だとか、自分の命よりもこいつの悪徳を知らしめる方が大切だとか、そんなくだらないこと言うなよ」
どこまでも図星を指され、ミナは口ごもった。
「でも」
「さっき誓ったばっかりだろ? みんなに借りを返すまで死なないって。また約束を破るつもりか?」
一瞬きょとんとした後、少女は叫んでいた。
「まさかさっきのって、このための!?」
「すぐ暴走して死に急ぐ――短い付き合いだけど、ミナの性格はいやってほど叩き込まれてる。そりゃあ、交渉の席で何が起きてもいいように準備ぐらいしておくさ」
少女をしっかりと見つめ、ハルは言った。
「もう一度、念押ししておくぞ。約束はちゃんと守れよ?」
ミナは頭を抱えた。気持ちの整理がまるで追いつかない。けれどここまでお膳立てされて、どうして突っ撥ねることができるだろう?
ユーリが愉快そうに笑い声を上げた。
「何だか知らないけど、仲睦まじいようでうれしいよ」
「じゃあ、この美しい友情に免じて取引を受けてほしいな」
「残念だけど、応じる必要はまったくないんだよね」
さして残念そうな顔も見せず、教皇は言った。
「僕がどうやってここに来たと思う? 上級審問から解放されて以降、君にはずっと尾行がついている。そこから連絡をもらったのさ」
腰を上げると、彼は窓の傍に立った。月はいつの間にか雲の陰に姿を消し、広がる闇夜に点々と街の明かりが散っている。
「今、この建物は監視されているんだよ。証言するための口が明日まで開いていると思うかい? そんな空想物語を信じるほどハルは楽天主義じゃないだろ?」
背中越しに発せられたのは明らかな脅し文句だったが、そこに切迫した色合いはない。彼は相変わらず遊んでいるのだ。――さて、この状況をどう切り抜ける? と。
「なるほどね」
動じた様子も見せず、ハルが言い返した。
「まあ、そう来るかもとは予想してたさ。だから、こっちも予防線を張らせてもらった」
「へえ?」
「俺とミナの動向は今、ある人物の加護によって見守られている。で、そいつにはこう言ってある。俺たちに何かあったら、真実を公表するようにってな」
ミナは思わず窓へ目を遣った。――スロースさんだ!
「……ある人物って?」
「それを言ったら切り札にならないだろ?」
事件を説明する際、彼はいくつかの箇所をぼかしている。スロースに関する部分もその中に含まれていたことを、ミナは今さらながら思い出した。
ユーリは振り返った。その口元がわずかに緩んでいる。愉しんでいるのだ。
「国民が、君たちの言い分を信じると?」
「そいつが持っている贖宥石の実物を見れば、いやでも信じるだろうな」
「異端に堕ちた君たちがそれを創り上げた――そう僕が言ったとしたら? 国民はどっちを信じるだろうね」
「贖宥石の存在を公にするほど、あんたは馬鹿じゃないだろ?」
「だから、それは大した問題じゃないんだよ。僕が一言、異端の者の仕業だと言えば済む話なんだから。元々、今回の事件で贖宥石の存在が表沙汰になったらそう発表するつもりだったんだ」
窓枠にもたれ、教皇がにっこりと微笑む。
「君たちは僕を信じてくれなかったけれど、この国の民は信じてくれる。そう、君たちは僕を相手にしているんじゃない、この国を相手にしているんだよ。もとからこれは対等な交渉じゃないのさ」
ぎり、とハルが歯噛みした。余裕の声が追い打ちをかける。
「もしかして、交渉材料はもう尽きた? こっちはまだまだいくらでもあるんだけどね。例えばそう、マズロー司教の動機について問い質してみるのはどうかな? それともミナの優秀な教育係がどこまで事情を知っているのか、の方がいいかな?」
「それは!」
ミナは思わず叫んでいた。リズのことまで露見している――それは今夜受けた衝撃の中で間違いなく最大のものだった。この先の自分の運命などどうでもよくなるほどの。
身体が反応する。肉体の記憶が呼び覚まされた時のように。と同時に高まった恐怖はけれど、聞き慣れた声によってその勢いを弱めた。
冷静な、いつもの声。
「猊下こそ、それで終わりですか?」
声と同じく、ハルの表情に動揺はなかった。
「じゃあ俺からも最後の手札です。さっき、あなたは言いましたよね。自分はあくまで国を思い、そして国民の成長を願っている。そのための行動は惜しまない、と。それを信じると宣言します」
ユーリが怪訝に眉を寄せる。
「まあ、事実だから信じてもらえるのはうれしいけど……それのどこが手札? 忠誠を誓いますから助けてくださいってこと?」
「いいえ」首が振られる。「ちゃんと国を、国民を守ってくださいってことです」
「国民であるミナを守れってこと? でも偽証をした人間を許すわけにはいかないかなあ」
自分のことを棚に上げる勝手な論理に、ハルは再び首を振った。
「いいですか。俺たちを監視してくれているある人物というのは、街道商会の幹部なんです。初めて会った時、彼はこう言っていました。世の中を変えるにはシステムをしたり顔で作っている連中を叩きのめすしかない、と」
パンケーキを例に挙げ、ミナに話してくれた内容だ。
「では、もしこの取引がご破算になったとしたら、彼はどんな行動を取るでしょう? まずは、約束通り贖宥石の真実を公表してくれるでしょう。ですが、それだけで済むでしょうか? 贖宥石と教皇の醜聞を同時に手中にしているんですよ。彼にとってみれば、これはこの国を変えるまたとない機会なんです。とんでもない行動に出てもおかしくはない」
一瞬、部屋の空気が揺らいだように感じられた。先ほどの衝撃からようやく立ち直りつつあるミナの脳裏に、不穏な単語がいくつも浮かぶ。反乱、内紛、血戦、革命――
「……とんでもない行動って?」
「さあ? 可能性はいくらでも考えられますし、そこはご想像にお任せします。ですが、おそらくこの国や国民は大きく傷つくことになる」
国民がスロースの言葉を信じようと信じまいと、結果は変わらないだろう。いや、むしろ後者の場合こそ多くの血が流れることになるはずだ。
「そして、そんな事態を防ぐことができるのはたった一つ、ミナの命だけです」
結論を下すハルの横で、ミナはスロースの言葉を思い出していた。
――うまくすれば、いろいろ楽しいことを起こせそうだわ。
表面だけ見れば、それはハルの言葉を裏付けているように思われる。けれど、あれほど聡明だったスロースのことだ。何かを画策するにしても、内乱といった乱暴な方法をいきなり選択するなどありえるだろうか。その点がミナにはしっくりこない。そう、ハルの論理には無理があるように彼女には感じられた。
そこで気付いた。スロースの情報を極力伏せたハルの意図。
落火組織の幹部。革命も辞さないと取れる発言。そして、贖宥石の存在と教皇の醜聞を手にしているという、またとない立場――スロースについてユーリに与えられた情報はそれだけだ。たったそれだけの情報を基に、彼は内乱が勃発するか否かを判断しなければならないのだ。
ミナが考えるように、内乱が起こる可能性は低いだろう。それはあくまでハルが勝手に組み立てた推論だ。だが、得られたわずかな――しかも風向きの悪い情報のみから判断を迫られている彼には、その蓋然性を無視することはできないはずだ。
そもそも、その可能性を完全に否定する術をユーリは持ち合わせていない。ハルの言葉が現実になるかどうかは、それこそ神のみぞ知る、なのだから。
「ううん」
ユーリの口から唸り声が漏れた。その表情は先ほどまでと比べ、わずかに精彩を欠いているように見える。
「ちょっと分からないんだけど」それでも反論の足掛かりを探る。「その人物はどうして君たちにそこまでしてくれるんだろうね?」
「それこそ教える必要はありませんね。手札はもう切ったんですから」
「取引に応じたとして、そいつが約束を守る保証はどこにもないよね?」
「そうですね」ハルの顔に意地の悪い笑いが浮かぶ。「でも大切なのは相手を信じて受け入れること。ですよね?」
ユーリは天を仰ぐと、大きく息を吐いた。次いでその口から出てきたのは、興奮を隠そうともしない弾んだ声だった。
「おもしろい! うん、実におもしろい!」
その目に浮かぶのは無邪気な喜悦。ミナの胸を不吉な予感がよぎる。
この少年なら――そう、人を遊びの道具としか考えていないこの男なら、内乱すらも楽しんでしまうのではないか――
けれど。
「よし」その手がぽんと打たれる。「ここは取引に応じよう」
「……本当ですね?」
疑わし気な眼差しに、ユーリは頭を掻いた。
「はは、やっぱり信じてもらえないか。これがこの加護最大の弱点だね。心配しなくても、この国の長としてちゃんと約束は守るよ。優秀な人材を失うのは大きな損失だし、成長した君たちのこれからも見てみたい。なにより――とってもおもしろかったからね」
けれど、ハルは硬い表情を崩さない。教皇が「ああ」と声を上げる。
「そっかそっか。分かった、おまけのおまけであの子たち(リズとローザのことだろう)も見逃してあげよう」
一瞬の空白の後、ハルがどっと椅子に身を沈めた。目的は果たされたのだ。極限まで圧縮された部屋の空気が弛緩していく。
ミナとハル、二人の目が合った。少年の顔に、くたびれた微笑みが浮かぶ。笑い返そうとしたミナだったが、顔が引きつってうまく笑顔を作れなかった。
緊張からではない。胸の中に急速に膨れ上がった感情が、彼女に笑うことを許さなかったのだ。
それは、焦りにも似た怒りだった。
――私ために、ハルはこんなになるまでがんばってくれた。
教皇と取引するための贖宥石に関する推論と検証。ミナの暴走を阻止するための下準備。対等に取引するためのスロースという予防線。さらにはそれが破綻した時のための、内乱勃発という可能性の提示――
どこまでが事前準備でどこからがこの場での即興なのかは分からない。けれど、そこに費やされた思考と労力がどれほど膨大なものであるかは、彼女にも理解できた。
いや、彼だけじゃない。リズもスロースも、サウスウェルズの二人も。さらには、会ったこともない街道商会の人たちまで。こんな自分を助けるために力を尽くしてくれた。それに比べて、自分は何をしているのだろう。状況に流され、右往左往しているだけではないか。
ここまでしてもらっておいて、そんなことは許されない。
正直なところ、気持ちの整理はまだできておらず、頭の中では混沌が渦巻いている。けれど、だからといって傍観しているわけにはいかない。借りを返すための第一歩、まずは自分なりにできること――自分のすべきことをすぐにでも始めなければ。
両手で思い切り頬を叩いく。鋭い音が部屋に響き渡る。
「ユーリ教皇猊下」
相手はぎょっと目を剥いていた。心底ざまあみろと思った。どうやら、好き放題してきた少年に対する怒りも相当に溜まっていたようだ。呼吸を整え、ミナはまっすぐに言い放った。
「一つ、約束してもらえませんか?」
教皇が出て行くと、ミナはぐったりベッドに倒れ込んだ。
「あー、心臓止まるかと思った」
「それはこっちの台詞だ」
呆れたようにハルが言った。
「いきなり頬をばちーんてやったと思ったら、約束しろとか言い出すし。しかも一つと言っといて結局三つも約束させるとか、交渉のために散々下準備してた自分が馬鹿みたいだ」
贖宥石のばら撒きをやめること。
この国の刑罰制度を改革すること。
付帯条件として、改革が達成されるまではミナとリズが何をしようと黙認すること。
次々と突き付けられていく要求に、ユーリは楽しくて仕方がないといった様子で応じていった。ミナが三つ目の要求を口にした時には、手を打ち鳴らして大笑いすらした。こんな理不尽な人間、初めて見たよ――彼の最後の言葉だ。
「あの様子だと、約束守る保証はまったくないぜ」
「そうだね。だから、もし約束を果たす気がないって分かったら、教皇庁に乗り込んで大暴れしてやる」
「……暴走女」
「
二人は笑い合った。
「というかさ」ミナは身体を起こす。「スロースさんに根回ししてたなんて、さすがハル、用意周到。今どこにいるの? 私たちのこと見張ってくれてるんでしょ?」
「え?」
「え?」
ハルがため息をついた。
「やっぱりミナはミナだな」
「……何よ?」
口を尖らせる少女に、彼は噛んで含めるように言った。
「あのさ、ここは首都ラテナのど真ん中なんだぜ? 落火が入り込めるわけないだろ?」
「じゃあ街の外から見張ってるってこと?」
「だから、ここは首都の真ん中なんだって。あいつの加護の範囲は五キロだろ? ここは範囲外だ」
「えっと……?」
ハルは靴を脱いだ。指の先に、見覚えのある質素な台座。
それはマズローが身に着けていた指輪だった。だが、今はその上にあった瑠璃石が消えている。
「あっぶねえ、あやうく五人目になるところだった」
指輪を外すハルの顔に苦笑が浮かぶ。
「スロースに譲ってもらったんだ。説得は骨だったけど、まあいろいろと取引をしてね。で、さっきので使用上限に達したと、そういうわけ」
加護で見守られている云々から内乱の可能性に至るまで、すべてはハルの作り話で、それによって使用回数に達した贖宥石は跡形もなく消滅した――つまりはそういうことなのだろう。
指輪を手の上で転がしながら、ハルが言う。
「これで俺も偽証を犯してしまったわけだ。ミナと同じ大罪人だな。けど、まったく気にならない。だからさ……ミナも気にするな」
しばし呆然と少年を見つめていたミナは、やがて小さく頷いた。
「うん」
「これは貸しかな。俺にもちゃんと返せよ」
「ハル、あい……りがとう」
「どういたしたまして」
少年は窓を開けると、指輪を思いっ切り放り投げた。それは瞬く間に闇夜に消え、事件の終焉を二人に告げた。
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