思い出になれなかったものたち

小里 雪

思い出になれなかったものたち

「つつじ、咲いてきたね。」


「うん。でも、どうしたんだよ急に散歩しようなんて。まあ、おれどうせ暇だからいいんだけどさ。」


「はっはっは、今日は私に言われる前に予防線を張って来たね。連休も暇だったみたいだし、あんた暇じゃない日あるの?」


「失礼だな、連休はちゃんと勉強してたよ。大学の図書館にずっと行ってた。人が少なくて静かだから勉強がはかどったよ。まあ、きみから誘いがあったら出かけてたと思うけどね。」


「いやに正直じゃん、今日は。残念ながら私は両親の気まぐれで、ゴールデンウィークはずっと台湾に旅行に行ってた。初めてだったんだけどさ、台湾、すごくよかったよ。」


「いいなあ。おれ台湾行ったことないよ。行ってみたい場所の一つなんだけどな。」


「よく、台湾は親日って言われるけど、そう単純に捉えちゃいけないってことが分かったよ。なんかさ、いろいろ考えることも多かったんだけど、その話はまた今度。ああ、今日はほんとにいい日だね。帽子かぶってきてよかったよ。ランニングの人たちもみんな半袖だね。へー、港西こうせい高校山岳部だってさ。港西ってこの辺だったんだ。山岳部の人たちもランニングするんだね。」


「そりゃあ究極の持久系運動みたいなもんだからね。港西、たしかこの川沿いに南にずっと行った辺りだったはずだよ。あの背の高い子、めちゃめちゃきれいじゃなかった? いって! 蹴るなって!」


「あんたついこないだ女子高生を記号扱いしたことを反省したばっかじゃん。何見てんの。いや、きれいだったのは認める。私も目を奪われたよ。って振り返ってんじゃねえコラ。」


「いててて、ごめんごめん。」


「私に謝ってどうする。それでさあ、前に言ってた世界五分前仮説。」


「『それで』がどこに掛かるか分からないけど、覚えてるよ。相変わらず唐突だな。」


「あっ、百合の匂いがする。どこで咲いてるんだろう。そう、それと関係するかもしれないんだけど、突然昔のことを思い出すことってあるでしょ。あれ、ほんとに起こったことなのか、いまいち確信が持てないことがある。」


「うん。甘い匂いだね。記憶って現在の脳の状態だから、過去の出来事で本当に作られたのか、何か他の要因でたまたま同じような状態が作られたのか、自分一人じゃ確かめようがないのかもね。ただ、同じ出来事を共有している人がいれば、同じような脳の状態の変化が同時に二人に起こる確率なんて無視できるくらいに小さいから、それはほんとに『あった』ことなんだと思うよ。あそこ、藤の花が咲いてる。きれいだな。」


「そうだね。写真とか、そのときにSNSにアップした文章とかも、『本当にあった』ことの傍証になるね。そういうものが『本当にあった』ということは、私も疑ってないんだ。藤棚もきれいだけど、あんなふうに自然の木に絡まって咲いてる藤もきれいだな。そう、つつじや、百合や、藤とともにあるこの時間のすべてを記録に残すことなんてできなくて、ある日、百合の匂いがした瞬間に、この散歩のことが記憶に蘇るかもしれないし、蘇らないかもしれない。私にもあんたにも蘇らなかったのものは、本当にあったことなのかな。」


「写真や文章があっても、そのときのすべてが記録されるわけじゃないしね。記憶が残ってたってそうだよね。『起こった出来事』の記録や記憶からこぼれ落ちた部分って、どこに行くんだろう。通り過ぎるだけだとしたら悲しすぎるよな。」


「『ランニングしている背の高いきれいな女の子』のおかげで、私よりもあんたの方が今日の記憶がフレッシュだな、絶対。確かさ、物理の法則って今知られている限りでは時間反転に関して完全に対称なんでしょ。」


「うん。微視的な法則についてはそうで、多くの粒子が関係する巨視的な系を統計的に考えるときに時間の非対称性が出てくる。『熱力学第二法則』っていうやつだね。これが時間の矢の正体だって考えている人も多いんじゃないかな。いや、記憶がフレッシュなのは間違いない。」


「小っちゃくてかわいい女の子とか、素直で真面目そうな眼鏡の男の子とか、渋い中年男性……先生かな? とか、全然目に入ってなかったのか。まあいいや。そういう確率とか統計的な振る舞いでしか時間の前後が決められないとしたら、本当は世界にとって時間の前後なんてあんまり大切なことじゃないのかもしれないね。記憶が作られるか作られないかで時間が決まるのかも。もしかしたら、存在はただそこに『ある』だけで、始まりから終わりまですべて決まっているのかも。」


「よくそこまで見てたな。おれ全然気づかなかったよ。って、きみの記憶の方がずっとフレッシュじゃん。始まりから終わりまで全部もう決められているとしても、どうしておれたちの意識は一方向にしか動かないのか、おれたちの記憶は一方向にしか作られないのか、その方向が何で決められているのかは興味があるな。」


「そうだな。方向はあるんだよね。世界も、それに含まれる私たちも、常に崩壊する方向に動いていてて、その中で『今』だけは、混沌の中から整然とした『記憶』が作られている。その記憶も作られた瞬間から崩壊して行く。レコードの溝はすでにそこにあるのかな。私たちが知らないだけで。私たちはその上を動いてるだけなのかな。」


「そう思いたくないよな。逆に言うとさ、そういう溝はなくて、未来も定まっていないとしたら、時間に関する対称性を仮定すれば、過去も不確定なものになっちゃうよな。確定した過去と、確定してない未来の両方を求めるのは、もしかしたらものすごくおこがましいことなのかもしれない。」


「私たちがいろいろなことを忘れてしまったり、『今』の不完全な断面しか残せなかったりするのは、不確定な未来に対する希望を持つためなのかもしれないね。それでも、できる限り覚えていたい瞬間があるのに。」


「走っている背の高い……いたいいたい、冗談だって。」


「思い出よりも、思い出になれなかったものの方が、ずっとたくさんある。さっき踏んだ小石とか。でも、思い出になれなくてもどこかに残っているのかもしれない。思い出になれなかったものたちが、ある瞬間にひょっこり顔を出すこともあるけど、ほとんどは一度も思い出されないままになる。ああ、また百合の匂いがするね。これ、思い出になるのかな。」


「あっ見つけた。あそこに咲いてる。今度はなるかもよ、見つけたから。さっきは匂いだけだったからね。思い出になれなかったものたちは、思い出されることもないから、何もなかったのと同じになっちゃうんだろうか。それはちょっと寂しいよな。」


「どうして怪我したのか覚えてない傷があって、それが傷痕になって残ることもあるよね。私は、思い出になれなかったものも私の体の中に残っていて、『今の私』の原材料になってる気がする。そうだよね。新しいものだったり、複数の感覚で捉えたりしたものは、記憶に残りやすい気がする。さっきの山岳部の子たちはきっと、山で新鮮な経験をたくさんして、たくさんの思い出が残るんだろうな。そのためにああやって走ってトレーニングをしてるんだろうな。」


「そうかもね。覚えてなくても、今のおれを作ってるものってたくさんあるんだろうな。覚えてないから分からないだけで。人はみんな、思い出になれなかったものたちを体の中にいっぱい抱えて生きているのかもしれない。世界は誰かの思い出になれなかったもので埋め尽くされているのかもしれない。」


「あの百合、摘んできて部屋に活けたらきっと、思い出になる。でも、あそこに咲いていて、誰かの思い出になったり、ならなくても誰かの一部になった方がずっといいんだろうな。でも、忘れたくないよ。」


「うん。おれも忘れたくない。」


「どうしたの? 手なんて握ってきて。」


「花を摘む代わりに、こうすれば忘れないかもしれないから。」


「背の高いきれいな女の子を?」


「はっはっは。突拍子なくって、感受性が強くて、世界をしっかり見て、世界を知りたいと願っている女の子を、だよ。」

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