きみはソリスト
つるよしの
教室という舞台にて
「はーい、みなさん、もうすぐ就寝時間ですよ」
面白くもない林間学校もやっと寝る時間だ。
私は、ここぞとばかりに記念の枕投げに勤しむクラスメイト達を、冷ややかな目で見つめながら思った。
だいたい、一泊二日の林間学校だなんて、体の良い泊まりがけの、面倒な山登りでしかないのに、こんな夜分まで体力を使い果たしてどうするというのだ。それも近場も近場、同じ県内の山間部。来年、6年生になったら修学旅行で行く京都なら、まあ、ビッグイベントでテンション上がるのも、分からなくはないけど。しかもこんな山の中のしみっれた薄汚い旅館でのお泊まり。いったい、みんな何が楽しいんだろう。私にはまったく意味がわからない。
今日の山登りの最中も、意味が分からなすぎて、思わず、山道に寝そべっていた大きなミミズを、思いっきり踏み潰してやったくらいだ。それを見て、同じ班の男子も女子も、ぎゃあぎゃあわめき声を上げながら、私から逃げていったっけ。
「だから、梅田と同じ班は嫌だったんだよ~」
「仕方ないじゃない、あの子だけあぶれてて、先生に言われて入れたんだから」
そんな声が逃げていく子達の背中から聞こえた。私は、ああ、そうですよ、と投げやりに思った。全く本当のことだから、凹む気持ちも起きやしない。それに、遠足だなんだの行事のたび作られる班分けで、私が1人残されるのは、もはや、小学校1年生の時からの、いや、幼稚園の時からのコウレイギョウジみたいなものだった。
きっと、中学生になっても、そして高校生になれても、私は取り残されるんだろう。それを両親に言うと「そんなテイカンしないでよ」と母は溜息交じりに私に言ったけど、テイカンってそもそもどういう意味なんだろう。あきらめること? そうだとしたらもう遅い。私は、とっくに取り残されることに慣れきってしまっている。
そんな私の思考を遮ったのは、しぶしぶ枕投げを止めたみんなの前に立ち、声を張り上げる担任の耳障りな言葉だった。
「……というわけで、みなさん、布団は2人で一枚を仲良く分けての使用です。みなさん、2人一組になってください。ほら、近くの人と、早くペアになりなさい」
……聞いてない。
そんなの、「たのしい林間学校のしおり」に何も書いてなかったぞ。布団さえも1人一組用意されてないって、どこまでしみったれた旅館だ。私は唖然とした。そうこうするうちに、周りの友達はキャアキャア騒ぎながらも、どんどんペアになっていく。私は、このクラスの女子の人数を思い出す。23人。二で割りきれないのは、小5の私にだって分かる算数だ。だから、5分後、全くもって想定内の事態が起きた。
気が付けば、私は、ペアになって布団を運びあう女子の中で、ひとり、大広間の真ん中でぼけっと佇んでいた。
「梅田さん、余っちゃったの?」
教師はまたか、といったような顔でそんな私を見て言う。そしてやや、ばつの悪そうな顔でこう私に告げた。
「梅田さんだけは布団を一枚、ひとりで使いなさい」
「えーっ、ずるいずるい!」
「先生、それは、不平等でーす!」
途端に女子達のなかがざわっとする。嘘つけ。ずるい、なんて、不平等、なんて、思ってないくせに。私をからかいたいだけなのに。だけど、それを真に受けたように教師は言う。
「仕方ないでしょう、数の問題なんだから。さあ、もうすぐ9時です。早く寝る準備をしましょう!」
その声にわーっとみんな、持参してきたパジャマをリュックから取り出す。私も、仕方なく、黙々と喋る相手もなく、パジャマに着替える。そして、ひとりで敷いた布団に早々と1人で横たわる。
私は周りの喧噪を遮るように耳を塞ぐと、薄いくたびれた布団に潜り込み、ぐっと目を瞑った。
目が覚めた。
気が付けば周りは部屋は真っ暗で、すーすーと、クラスメイトの寝息が聞こえるのみだ。網戸の嵌まった窓からは、夏の夜風が流れ込んでくる。夏とは言え山の夜だ。冷やっとした感触が布団を通して、半袖のパジャマを着た私の素肌に届く。
ちょっと寒い。リュックから、ジャージの上着を取ろうかと、私はゆっくりと起き上がり、2人一組になって眠るクラスメイトを踏まないように苦労しながら、大広間の隅にある荷物の山まで歩を進めた。
暗がりの中、どうにか自分のリュックを認め、そっと開くと上着を取り出す。私はそれを羽織ると、改めて大広間を見回す。
部屋の隅に、皆の布団から離れた場所にぽつん、とある、空の私の布団がはっきりと白く浮かび上がるのが夜目に映る。そこだけ隔離されたかのように、くっきりと線引きされた空間。それは私の、これまで、そしてこれからの、人生における人間関係を象徴しているようで、急に心がなんともいえない薄ら寒さに覆われるのを感じた。
思いもかけず、私の瞳からつうーっと涙が頬に伝った。なんだか、そうなると、もう、1人の広々とした布団に戻るのが虚しくて、私はそっと、音を立てぬように気を配りながら、大広間を出た。そして素足のまま、ひたひたと冷たい廊下を歩き、ぼんやりとした非常灯の光を頼りに、非常階段の方へ歩んでいった。
……たしか、ここは4階のはず。飛び降りるには十分すぎる高さなんじゃないか。
なんとはなしに、そう思いながら。良い思いつきだと考えながら。
そして私は、非常階段に通じる扉のノブをぐっと回し、外に身を滑り出す。
山影から広がる夜空は、満天の星であった。天の川がくっきりと見える。私は、飛び降りることを暫し忘れて、山ならではの夜空に少しの時間見入った。
「なんだ、梅ちゃんか」
急に声がした。びっくりして、その方向に目をやれば、男の人の黒い影がぼんやりと浮かんでいる。そしてその人の手元には、これまたぼんやりとした、赤いひかり。たばこの火だった。
「……沢田先生」
その影の主が、引率の音楽教師である沢田先生だと分かるまで、少々時間がかかった。同時に、まずい、と思った。こんなところでなにやってる、と怒られる。そう思ったから。ところが、沢田先生は私を怒鳴りつけることもせず、こう言った。
「怒られちゃうな。教員は、旅行中は喫煙禁止なんだよな。でも、どーしても我慢できなくてな」
沢田先生はそう言うと、腰掛けていた階段から立ち上がり、ゆっくりと私の横に立った。そして私の耳元でゆっくりと低い声で語を継ぐ。
「見なかった、ことにしておいてな、梅ちゃん」
「……はい」
私はびっくりしてどきどきする胸を押さえながら、そう言うのが精一杯だった。そんな私に構わず、先生はたばこを煙らせながら、夜空を仰いだ。
「星が綺麗だな。都会じゃ見えない星座が沢山見える。梅ちゃん、良いもの見たな。いまごろ隣で寝こけている友達には内緒の、良い思い出が、できたぞ」
私は正直に答えた。
「私、独り寝なんです。布団、あぶれちゃって」
「独り寝か、難しい言葉知ってるな、梅ちゃん」
先生はそう言って、ははは、と笑った。表情は暗くて良く見えなかったけど、私の答えが、意外で、そしてなかなか愉快だったようだ。私は思わず言った。さっきのどうしようもない虚しい感情が胸に蘇った。
「笑い事じゃないんですっ……!」
沢田先生は、そこでようやく私の頬に涙が伝ってるのに気が付いたようだ。先生はたばこの火を、携帯灰皿の中にもみ消しつつ、私に頭を下げた。
「ごめん、梅ちゃん。そうだよな」
「……っ」
だが、その先生の言葉に揺り動かされたように、私の両眼からは、涙が零れて、零れて、止らなくなった。
先生は頭を掻きながら、そんな私を暫く見やっていたが、やがてぽつりとこう言った。
「君は孤高のソリストだな」
「ソリスト……?」
「音楽で言う、独唱者のことだよ、ま、要するに、ひとりで歌う人のこと」
「……オペラとかでですか」
「お、よく知ってるじゃないか」
「この間、音楽の授業でビデオ見たばかりじゃないですか、カルメン」
「……そうだったっけな」
再び私たちは黙りこくってしまって、非常階段には私のすすり泣きだけが響いていた。だが、そんな私の脳裏にはその授業で見たオペラの光景が蘇ってきて……やがて私はぼそっと呟いた。
「……でも、あれ……格好良かったです、あのひとりで歌ってた女の人、舞台の真ん中で堂々としてて、皆を従えて」
「だろ? でもあの格好良さ故、ソリストってのは孤独なものなんだ。でも、それ故、格好良い。そして誇り高い。あの舞台にいる誰よりも」
そこで先生は言葉を区切ると、ぐっと顔を近づけて、そっと、その手で私の頬の涙を拭った。そして私の瞳を覗き込みながら言った。
「……梅ちゃん、君だってそうだよ」
……先生のたばこ臭い息が、ふわっと私を包んだ。
布団に戻った私はしばらく眠れぬまま、心の中でひとり、非常階段での出来事を反芻していた。私は思い出す。たばこの匂いと共に言われた、あの言葉。
……「君だってそうだよ」。
そうなのだろうか。私は、いつもひとり。教室という舞台で、いつもひとり。そして布団のなかでも今、ひとりぼっち。でも、いつか、こんな私を、あのソリストみたいに、格好良いと思えるときが来るのだろうか。ひとり故の、誇り高さ。それを感じ得るようになるのだろうか。ひとりは格好悪いことではなく、尊いものなのだと。
それを知ったら、私は大人になれるのだろうか。そう、ひとり、満天の星の下、非常階段でたばこを吸っていた、あの沢田先生みたいな大人に。
「……そう、なりたいな」
誰にも聞こえぬよう、私はそっと独りごちる。
夏の夜風に冷えた身体に、布団のぬくもりが心地よかった。
私は、堂々と指先をひとりの布団に、すうっと伸ばす。今の私には、その、広々とした感覚も、先ほどよりかは、心地よかった。
きみはソリスト つるよしの @tsuru_yoshino
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