ひとりの晩酌

風鳥水月

ひとりの晩酌

 商社マンAには週に一度の楽しみがある。晩酌だ。といっても上司の付き合いだの取引先との親睦を深めるだの煩わしいものではない。毎週金曜日、たった一人で路地裏の隠れた名店に赴き、山菜のたくさん入った炊き込みご飯と貝汁をかっこむ。そして最後には濁りの利いた日本酒を喉に通らせる。普段の晩飯より千円増し、格別の贅沢だ。このために週五勤務をやっていると言っても過言ではない。

 日が落ちるのも緩やかになり始めてきた頃の金曜。今日も今日とてAは歩く。微かな光はあえて避け、路地裏の影に溶け込む。Aにはそれが性に合う。幼い頃からそうしてきた。当たり障りなく、平坦で地味な道をひたすら歩いてきた。誰にそうしろと言われたでもない。物心ついた時からそんな風にして、いつの間にか大人になっていた。

 暖簾をめくり、障子を開ける。木の滑る小気味いい音は、繁華街から漏れ聞こえるオリコン一位の流行曲に遮られる。Aは何となしに眉を潜めた。

「らっしゃい」

 いつもなら歯切れ良い老けた男の声が聞こえてくる。だが、この日は違った。甲高く若い女の声。顔を上げる。三つ編みの少女が白い調理服に身を包み、カウンターに立っていた。

「どったの?お客さん。キョトンとしちゃって」

 Aの顔を見て、気さくに話しかけてくる。返事に困る。

「あっ、お祖父は腰痛めちゃっててさ。そんで私が台所立っちゃってるってワケ」

 態度を確認するなり得心し、疑問に難なく答えてしまう。不気味だ。羨ましい。

「ささ、座って座って」

 少女は手招きし、Aを自分の正面側のカウンター席に座らせる。近くに来ると、顔立ちの良さがひしひしと伝わってくる。目を動かす。客は他にいない。視線を元の場所に戻さざるを得なかった。

「何にする?」

 提灯さえ霞みそうなほどの笑顔で少女が尋ねる。元気な声音が店全体をつんざく。Aは俯いて答えた。

「松定食」

 カウンターテーブルにすら吸収されそうなほどの小声。すると、少女は目を丸くして大声をあげた。

「あんたか、お祖父が言ってた『松(まっ)さん』って!」

 そんな珍妙なあだ名を付けられていたとは。Aは首を傾げたくなった。胸に少し温かさを覚える。あだ名なんて初めてだ。

「そのニヤつきっぷり、やっぱりあんたなんだね!」

 顔に手を当てる。頬の緩みが嫌でもわかった。Aは恥ずかしくなった。それなりに歳の離れているであろう娘にからかわれるとは。いささか気分が悪い。Aの鼓動が高鳴る。

「ごめんごめん、このままじゃ話し込んじゃいそうだね。待ってて、いま用意するから!」

 少女はAの顔を見るや否や、そう言って松定食の用意を始めた。見透かされている。心地いい。Aは松定食を口に含む間もずっと噛みしめていた。

「しばらく私がやってるから、いつでもおいでよ」

「いきなり何」

 と言うと、少女は頬杖しつつ悪戯に笑んだ。

「だって、会いたそうにしてたから」

 そんなに顔に出やすいか。大して度の強くない酒を喉に通しながら、Aは面を真っ赤にした。翌日から、Aの晩飯は千円高くなった。


「らっしゃい」

 すっかり聞き慣れた声。甲高い音はまるで鹿威しのように響き渡る。客は相変わらずいない。そういう時間を選んでいる。今日も一人、晩酌を嗜む。

 すると少女が突然話しかけてきた。

「にしても好きだねぇ、あんたも。何でいっつも一人なのさ」

「悪い?」

 眉間に力が入る。心なしか、目線がテーブルに行く。

「いや、悪いってワケじゃないけど。気になるじゃん、毎晩一人で食ってたら」

 あっけらかんとした態度で答える。この人になら話してもいいかな。お猪口を持つ手が緩んだ。それで、理由(わけ)を話した。たくさん話した。とりとめの無い言葉を連ねた。

「つまり他人が怖いんだね、あんた」

 積年の根拠が一言に圧縮された。Aはそんな自分の浅薄さやら、他人の言葉を単純にしてしまう相手の不遜さやら、色んなものに対して唇を噛んだ。

「いいじゃん、優しいね」

 口が離れていた。初めてだ、そんな風に言われたの。

「だってそうでしょ?他人の怖さを知ってるってことは、傷の怖さを知ってるってこと。それを避けたくて一人でいたがる。優しいよ、それ」

 お猪口に涙が注がれる。空だった胸が満たされるのを感じた。店の明るさが身に沁みる。

 いつものように盆が下げられる。盆の上の皿を見て、少女は微笑んだ。

「米粒ひとつ残さないし」

「珍しいことかな」

 当然のことを感慨深く呟く少女に、不思議そうにAは問いかけた。少女は表情を曇らせ頷く。

「私に変わってから『味が落ちた』って言われるようになってさ。ただでさえ少ない客足も減ったし。泣きはしないけど、色々くるよね」

 テーブルに手をつき、反射的にAは立ち上がっていた。椅子の摩擦音が店内を突く。

「僕は好きです。あなたのご飯」

 Aの鼻息が荒くなる。少女は数テンポ遅れて笑い出した。Aが呆然としていると、軽く手を振りながら少女は言った。

「ごめんごめん、そんなマジになってくれてるんだって思って」

 深呼吸を挟み、少女は尋ねた。

「じゃあ、作ろっか?お弁当」

 鳩に豆鉄砲。さざ波が寄るようにして実感が湧く。言っていることの意味を噛み砕けた。Aは必死に首を縦に振った。

「そこまでしなくてもわかるってば」

 少女が吹き出す。

「そんじゃ、毎朝ここに来てね。渡すから」

 腹を抱えて後ろを向く。そして、少女は呟いた。

「ありがと」

 Aは確かに聞いた。暖簾をめくり、店を出る直前、障子の向こうからすすり泣く声が聞こえた。こうして、Aの朝食は無料となった。


 朝の光を浴びながら、店に入って仕込みを行っている少女と話す。弾む会話の終わりに弁当を受け取り、商社へ向かう。新たな習慣となっていた。Aは生き甲斐が増えた気分だった。

 そうして季節がいくつか過ぎた頃、Aは障子の前の張り紙を見て棒立ちになった。『閉店』Aの胸がざわつく。朝日が影を濃くする。

 Aは力いっぱい障子を引いた。けたたましい音が鳴る。しばらく繰り返した後、

「ウチはもうやってないよ!」

 と、甲高く荒々しい声と共に障子が開けられた。少女の目に隈が出来ている。髪も枝毛が目立つ。Aの姿を見て、少女は眉を緩ませ、瞳を潤ませ、Aの胸に顔をうずめて泣き叫んだ。ダメだった。ごめん、一人じゃダメだった。何度もそう叫んだ。

「もう、ご飯、作ってやれない」

 Aは言葉を失った。あんなに眩しかった子が、今じゃこんなに暗い。泣きつく少女の姿。腕におさまるほど小さい。

 照らすことはできない。けれど、影に溶けることならば。Aは夢中で言葉を並べ立てた。

「作れる。作ってほしい。毎日、僕の家で。だって好きだから、あなたのご飯。もう、ひとりで食べられないから」

 少女が腫れぼったい目でAの顔を見つめる。少女は涙をにじませ、必死に首を縦に振った。それから、互いの薬指を絡ませた。こうして、Aの食事は無料になった。


 二人は何度も食卓を囲んだ。時を経て、二人が三人に増えた。二人に戻ってからは時折、五人で囲んだ。その頃には二人とも白髪も増え、夜が短くなった。

 そんな短い夜のある日、床の上で妻が語りかけてきた。

「どうして『いただきます』だと思う?」

 沈黙。束の間、窓辺から明かりが射し込む。

「食べてる時は、誰だって独りじゃない。そんなおまじない」

 吐息。暗闇で妻が微笑む。

「きっと独りじゃなかったよ。あの時から、ずっと」

 Aは頬を緩ませ、涙ぐむ。月が柔らかに二人を包み、寝静まる様子を眺めた。

 朝の光がAの身体を暖める。Aは身体を起こし、冷たくなった妻に布団をかけ直し、食卓に足を運んだ。昨日の残りを茶碗に入れ、棚からお猪口を取り出す。両手を合わせ、呟いた。

「いただきます」

 Aは妻の言葉と共に、茶碗の米を一粒ずつ噛みしめた。一滴、また一滴、酒に涙が混ざる。それを喉に通す。二人の食事は無量だった。

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