スープカフェ ソロデビュー

秋色

スープカフェ ソロデビュー

 夕陽の最後の金色が高層ビル群の間に輝く頃、亜香里はスープカフェ、マルシェに向かった。昨日までとは違い、通勤のためではなく、乗る地下鉄の電車。乗客の顔ぶれも違う。これまでよく目にしてきたビジネススーツの人達もいるにはいるけど、それ以外の小さな子どもを連れた母親や塾へ向かっている幼い感じの中学生もいる。

 いつも仕事帰り、地下鉄の駅に向かう途中、目にしてきた街角のスープカフェの灯り。亜香里は今の仕事を辞めたら、そのガラス張りの店の窓際の通りに向かう席で夕食のひとときを過ごすのが夢だった。疲れてクタクタになった身体を引きずって歩いている時に眼にする、ガラス張りの店は、別世界みたいにキラキラ眩しかった。帰り道を急ぐ仕事帰りの黒い人影の群れと比べ、そちらは楽園だ。


 会社の事業がインテリアと内装関係だったため、研修でアメリカの照明を特集した画集を見て感想を書くという課題があった。デザイナーでもなく事務職なのに原稿用紙一枚を埋めるというのが苦痛で、照明がきらびやか位の事しか書けなかった苦い記憶。でも、その中にあった絵の一枚が、印象的で好きだった。夜の都会のガラス張りの店の中でくつろぐ人達の絵。

 あの輝いている店内でゆったりと時間を過ごす事が出来たら、あの中の人達のように談笑できたなら、と思った。


 ウイルス感染を気にしなくて良かった時代、仕事仲間と食事をする機会がたまにあった。でも周囲と同調する事に疲れ、楽しくはなかった。同じものの見方、同じ不満を持っていないといけない気がして。見たくもないテレビ番組を無理して見ている気がした。それでも亜香里はこれまで一人で夕食に行こうとは思わなかった。それなら一人のアパートの部屋で食べた方が落ち着くから。そのガラス張りの店がある日、開店するまでは。


       ☆☆☆


 やっとその店、マルシェに着いた頃には薄い群青色の空に僅かに星が瞬いていた。メニューからミネストローネのセットを選び、前から座りたかった、通りに面した席の右端へ。コーヒーとデザートのアイスクリームは食事の後にするとしよう。栄養バランスについて書かれた店のメニューを見ながらミネストローネをスプーンですくって一口、一口食べる。やがて近辺の企業の退勤時刻が過ぎ、道にあふれる仕事帰りの人々。一日前には、亜香里もその中に身を置いていた。今はこちら側にいる。時間にも何にも縛られない側に。微かに感じる優越感。

 でも何かが足りない。音……だろうか。店を流れる柔らかい弦楽器のメロディーは耳には入るけど、心にまで届かないような。まるで絵の中の世界に入り込んだような気分。

 そう、もう日中にあのせわしなく鳴る電話に出なくて済んでいる。なのになぜ虚しいんだろう。自分相手に電話が鳴らなくて、自分が世界の外にいるような気分。

 音のない世界で絵の中のカフェに閉じ込められてしまったような息苦しさを感じる。助けてほしいとSOSを出しても誰も気付かないだろう。

 

 その時、後ろから声をかけられた。


「岬さん?」


 それは、三年前、職場の新人研修に参加した時に話をした事のある同じ会社の社員だった。と言ってもそれから一年程して彼は退社したと聞いたけど。


「あれ、今宮さん?」


「うん。向こうから見えて何となくそうかなと思ったんだけど、やっぱりそうだった。この店、たまに来るんだ。あ、ここいい?」


 そう言って今宮尚斗は亜香里の隣の席に座った。


「いつもは反対側の席に座るんだけどね。岬さんにここで会うの初めてだよね」


「うん。私ね、昨日までであの会社、辞めたんだ、色々迷ってたんだけどね。それでここに初めて来たの。いつも食事する時は他の店でも職場の人と一緒だったんだけど、初めて一人で食べに来たんだ」


「へえ。ソロデビューかー。せっかくのソロデビューなのに、孤独を楽しんでる所を邪魔してゴメン」


「いや、いいよ。何か孤独って難しいなって思ってた所なの。ずっと一人暮らしはしてるんだけど、大勢の場所での一人って、そして会社とかに所属してない身での独りぼっちって、やっぱ何かキビシイよね」


「そう。オレは結構、好きだね、一人。あ、でも分かる! 時代と時代の狭間はざまって一人になる時あるよね。学校卒業して、次の学校に入学するまでの春休みとかさ。あれ、妙に寂しいもんな。第一、休みでもないし。どこにも所属してないから、そんな時、事故で死んだら何て紹介されるんだろ、とかさ」


「そうだね、何て紹介されるんだろ」


 亜香里は空になったスープのカップを見つめた。


「やべ。そんなしんみりするなよ。オレなんてさ、仕事辞めた後、一人で台湾から香港を旅行したんだぜー。さすがに一人で中華料理は厳しかったね。でも開き直って楽しんだよ。言葉分からないなりに、コメディ映画見て、地元の客と一緒に大笑いしたりさ。朝のクーロンの海沿いの道を散歩したり、海に向かって『今度の職場では、ぜってー良い仲間に会って活躍出来るようになってやる!』とか宣言したり。あ、そんなに笑うか? でも宣言通りになった」


 亜香里はいつの間にか、笑顔だった。


「宣言通りになったんだ」と亜香里がポツリ。


 尚斗は続けた。

「ああ。それにほら、虫だって自力でまゆ、作るじゃん。人だって生まれ変わる時には一人になるもんなんじゃない? 一時的に」


「生まれ変わる時、か。あ、コーヒーとデザート、持って来ようかな」


 さっきのミネストローネスープの栄養が今、体にみ込んでくるのが分かった。

 亜香里の廻りに音が戻ってきた。街のざわめきが。にぎやか過ぎるくらいに。


(終)

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