誰が英雄を殺したのか

陽澄すずめ

誰が英雄を殺したのか

 テントを出るなり、埃っぽい風が頬を叩き付けるように駆け抜けていく。

 砂塵の幕が引いた向こう側には、相も変わらず茫漠たる景色が拡がっていた。

 昇り始めたばかりの太陽は既に苛烈な光を放ち、果てなく続く不毛の大地を灼かんとしている。『絶望』という名の風景画があるとしたら、きっとこんなだろう。


 俺は仲間のものだったジャケットを羽織り、淡々とテントを畳んだ。 

 荷物と小銃を担ぎ、その場を発つ。食糧はとうに尽きた。水も残りわずかだ。たった一人の行軍は、もう何日目になるだろうか。




 三週間前。

 俺の所属する小隊に与えられた指令は、ある村を制圧することだった。雨が極端に少ないこの国において、川沿いに位置するそこは、軍事拠点とするのにうってつけの立地だったのだ。

 実に簡単な作戦だった。働き手の男たちを軍に取られ、老人と女子供ばかりが残された小さな村は、難なくこちらの手に落ちた。


「爺どもは殺せ。女と子供は捕らえろ」


 そう言った隊長は結局、女たちの手足を砕いてから順に犯して打ち捨て、逃げ惑う子供は射撃の的にした。


「本作戦は、我が国の勝利に大きく貢献することだろう。そうなれば我々は英雄だ」


 貧しい村には酔えるほどの酒もなかったが、隊長のその言葉で俺たちは笑い合った。



 しかし、軍の後続隊を待つうちに異変が起きた。

 小隊内の数人が突然、体調を崩し始めたのだ。異常なほど汗をかき、涎を垂らし、何度も嘔吐した。不衛生な環境や体力の低下とも相まってか、彼らの容態は急激に悪化し、翌日には揃って冷たくなっていた。


「村の備蓄食は臭うからな」


 悪いものを食ったのがいけなかったのだろう。せっかく奪った食糧は捨て、持参したものだけを口にすることが決まった。

 減りつつある保存食は隊長の管理下に置かれたので、俺たち下級兵はこのころからずっと空腹を耐えていた。


 その数日後、別の兵士が死んだ。最初の男たちと同じ死に様だった。

 更に翌日、翌々日と、例の症状を発する者は増えていった。

 誰もこの土地のものを食べてはいない。川から取った水もしっかり煮沸している。原因不明の奇病に、俺たちは慄いた。


 よくよく仲間の死体を調べてみると、いずれも身体のどこかに皮膚の腫れた痕があった。


「毒虫でもいるのかもしれない」


 しかし、それを知っていたであろう村人は、俺たちが残らず殺してしまった。



 待てど暮らせど後続隊は来ない。

 まともに動ける兵士が五人まで減ったところで、隊長が言った。


「補給基地に行ってみよう」


 村から徒歩で十日はかかる距離だ。

 俺たちは荒れた地に細々と生える野草を噛みながら、のろのろ進んでいった。昼は照り付ける陽光が激しく、夜は反対にやたらと冷え込む。

 もはや飢餓は常態となり、疲労も募る一方だ。誰も彼もが無口で、ただ無心に足を動かし続けていた。

 やけに元気なのは、隊長だけだった。


「いいか、我々は英雄なのだ」


 それは希望のようでも、呪いのようでもあった。


 毒虫を警戒して、休憩の間も火を焚くなどしていたが、やはり仲間は一人二人と倒れていく。発症した者は動けないため、荷物や装備を剥いで置き去りにした。そうする他なかった。


 村を出て七日も経たぬうちに、隊は俺と隊長だけになった。


「お前が見張りをしろ」


 隊長の命令は絶対だ。

 俺はろくに休むこともできなくなった。


 ある日の明け方のこと。

 テントのそばで番をしていると、視界の端で動くものがあることに気付いた。

 それは手のひらほどの大きさで、二本のハサミに反り返った尾を持つ、黒褐色の節足生物——サソリだった。

 俺はようやく理解した。仲間たちを殺したのはこいつだったのだ。


 サソリはテントの隙間から中へと入っていった。

 天幕を捲って覗けば、眠りこける隊長にサソリが迫っていた。


 俺の腰にはナイフがあった。

 だが、半ば無意識のうちに構えていたのは、小銃だった。

 

 サソリが隊長に尾を向けたその時、俺は躊躇いなく引鉄を引いた。

 一発の銃声が鼓膜をつんざく。

 銃弾はサソリから逸れ、隊長の頭部を貫いた。


 俺はただ、サソリを仕留めようとしただけだ。

 戦場では時々こういう事故もあるだろう。俺は疲れていたし、腹が減りすぎて判断力も鈍っていた。仕方のないことだ。


 テント内に充満する硝煙と血液の匂い。

 知らず知らず、俺の口元は笑みの形に歪んでいた。



 こうして俺は一人になった。

 隊長はやはり食糧を独り占めしていた。俺は彼のデイパックを背負って、再び歩き始めた。


 神経が変に昂っていた。

 理不尽な抑圧からの解放感もあった。

 これまで数え切れないほど人を殺した。俺の意思ではなかった。命令に従っただけだ。

 けれども隊長のことは、そうではなかった。

 自由だ、と思った。それはあるかなしかの罪悪感や、見知らぬ土地で独りきりという心許なさにもまさっていた。

 軍事拠点とするために、俺たちは敵国の村を制圧蹂躙した。

 生き残ったのは俺だけだ。何が起きたか知る者は、俺の他にはいない。


『我々は英雄だ』


 俺が、俺こそが、英雄かもしれなかった。


 目的の補給基地へは、方角を間違えていたらしく、進路を取り直す必要があった。

 そうするうちに砂漠地帯へ出てしまい、食糧はあっという間に底をついた。


 英雄に課せられた使命はきっと、生きて祖国の土を踏むことだろう。




 たった一人の行軍は続く。時おり吹く暴力的な風の音と、自分の軍靴が砂の大地を擦る音だけが、俺の耳に届く全てだ。

 まともに物を考える余裕もない。ただ生きねばと、そう思うだけで。


 やがて俺の目は、霞む景色の中に建物の影を捉えた。

 足早に近づくと、徐々にその輪郭が明らかになる。この地域特有の黄色い土でできた四角い家。それを端にして、小さな集落になっているらしい。


 俺は初めに見つけた一軒の扉を叩いた。水と食糧を分けてもらえたら、それで良かった。

 しかし顔を覗かせた壮年の男は、俺を見るなり喚き始めた。異国の言葉は分からない。残念だ。

 俺は構えていた小銃を発砲した。男は静かになった。

 続いて出てきたのは、妻と思しき女。もはや意思の疎通を図るのも面倒で、俺はまた引鉄を引いた。


 家の中へと踏み込む。簡素な居室を通り、奥の部屋に進み入ると、一人の若い女がその片隅でうずくまっていた。先ほどの夫婦の娘だろう。

 彼女は怯えた視線を俺に向け、か細い声で何事かを訴えてかけてきた。やはり意味は分からないが、俺に対する拒絶、もしくは懇願の言葉に違いない。

 どうしてか、少し愉快な気分になった。


 俺は女の腕を掴んで引き摺り、そのまま組み敷いた。女が必死に見せる抵抗もまるきり無意味で、俺は更に楽しくなった。

 粗末な衣服を引き千切ると、浅黒い肌が露出する。それは健康的とも魅力的とも言えないものだが、久々に触れる女の肌に違いなかった。


 異常なほどの昂揚感だった。

 

『俺は英雄だ』


 そう言ったのは誰だったか。希望のようでも呪いのようでもあった言葉。

 今は、己を鼓舞するための言葉なのだと理解できる。


 俺が今していること、これまでしてきたことは、当然の権利なのだ。


 俺が果てるころ、女は事切れていた。首を絞めていたので呼吸できなかったのだろう。


 身を起こそうとしたその瞬間、腰の辺りに痛みが走った。何かに刺されたような、激烈な痛みだった。

 途端、背筋を悪寒が駆け上がる。気道が狭まり、息の通りが悪くなる。手足に力が入らず、俺は芋虫さながらに転がった。

 全身が痺れている。疼くような痛みが、傷口から溢れて身体じゅうを這い回る。

 汗がだらだらと流れ始める。酸素を得ようと大きく開けた口からは涎が垂れた。


 霞ゆく視界の中、俺はあるものを見た。

 それは毒針のついた尾を高く掲げた、黒褐色の、



—了—

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