第3話
「このっ……下手くそ!!」
カラオケの薄暗く狭い部屋の中に、怒りに満ちた一人の少女の声が鳴り響く。
その透き通る瞳に、大粒の涙を湛(たた)えて。
それが、僕の歌に直接向けられた、初めての感想だった。
─────。
「悪い! 遅くなっちまった」
約束通り学校の正門前で待っていると、指定した時間ギリギリで遥斗が向かってくるのが見えた。
「三十分も遅れてるよ」
「マジ!? そんなに遅れてた?」
「あ、ごめん。五分の見間違いだった」
「こんにゃろ。焦るじゃねぇか」
息切れしつつも、遥斗は笑いながら僕の腰を軽く小突いてきた。こちらとしては少し多めに待たされたんだから、これぐらいの軽口は許してほしい。
遥斗の額は、髪が汗で張り付いていた。恐らくかなり慌てていたのだろう。
僕は鞄からタオルを取り出し、遥斗に差し出す。
「あぁ……助かる。ってかなんでカラオケ
にタオル持ってきた」
「汗かくかなと思って。多分歌い出すと
止まらないだろうし」
「なるほどな。……じゃあ俺使わないほう
が良かったんじゃね?」
「予備あるから大丈夫だよ」
「流石っす兄貴」
「だから兄貴って呼ぶな」
僕は昔から、変にネガティブ思考を拗(こじ)らせていた。
新しく文具を買えば「すぐに壊れてしまうかもしれない」と封を開けることを躊躇(ためら)い、料理に肉を使う時は「食中毒になるかもしれない」と限界ギリギリまで焼き続ける。大体いつも焦げる。
こういった心配性な所が、曲作りに影響を与えているのかもしれない。
「あ、タオルは洗って返すわ」
「別にいいって。ほらビニール袋あるし」
「さ、流石っすあ──」
「兄貴って言うな」
「まだ言ってねぇじゃん兄貴!」
「……言ってるじゃん」
常々思っているのだが、毎度兄貴兄貴と呼ばれるのも中々疲れるものだ。僕も遥斗のことを何かあだ名で呼んだほうがいいのかもしれない。
僕が兄貴なら、遥斗は子分とかどうだろうか。……完全にチンピラの関係だな。
横目で遥斗を見ると、にやにやとご満悦そうな表情を浮かべていた。楽しそうで何よりだよ全く。
─────。
新しくできたというカラオケ屋には、学校から徒歩十五分程で到着した。これぐらい近くにあるのなら、放課後に一人で歌の練習に来てもいいかもしれない。
カウンターで使用料金を支払い、部屋に向かう。ドリンクは別料金かと思っていたが、どうやら無料らしい。
新装ということもあり、店内はとても綺麗だった。シックな高級感のある雰囲気で、カラオケと言うよりは、小洒落た喫茶店に訪れたような気分になる。
案内された部屋の中は、店内の雰囲気とは異なり、とても質素なものだった。
黒い横長のソファが二つと、部屋の中央に大きめのラウンドテーブルが一つ。部屋の端に観葉植物が置いてあるという至ってシンプルな部屋。
「あ、俺飲み物入れてくる。音村は何か
飲むか?」
「ありがと。じゃあメロンソーダで」
「りょーかい」
荷物は奥に置いててくれと告げると、遥斗は小走りでドリンクバーのほうへと向かっていった。
「……って、重たっ」
受け取った遥斗の荷物の重さに一瞬驚いたが、持てないほどではなかった。自分の荷物と一緒に部屋に持ち運んでからソファに下ろす。
しばらくして、遥斗が飲み物の入ったグラスを両手に持って戻ってきた。しかし、そこには僕が頼んだはずのメロンソーダの姿はなかった。
「わりぃ音村。ここメロンソーダないみた
いだったからオレンジジュースでいいか」
「べ、別にいいけど」
気になって逆に何があったかを聞いてみると、お茶、コーヒー、オレンジジュース、リンゴジュースだけだったらしい。
最近の大人はあのメロンの濃密な甘さとソーダの炭酸による爽快感を同時に味わえるメロンソーダを知らないというのだろうか。
……解せぬ。
「まぁ、そんなこと気にしても仕方ねぇし、とりあえず歌う曲決めようぜ」
「そうだね。どっちが先に歌う?」
「ここは公平に、ジャンケンだな」
そう言うと、遥斗は勢いよく拳を突き出してきた。別に順番はどちらでもよかったのだが、こうされると下手に断れない。
僕も勢いに任せて握り拳を突き出した。
─────。
ジャンケンは僕が負けた。勢いこそよかったが、遥斗の語気の強さに怖気付いて思わずグーを出していた。それを逆手に取られたのか、遥斗が出した手はパーだった。
別に負けても関係ない勝負だったとはいえ、戦略負けしたような気がして、少しだけ悔しい。
その後は、とにかく歌った。
ひと昔にダンスが流行ったドラマのエンディング曲だったり、映画の興行収入が凄いことになっていた有名なアニメの挿入歌だったり。
利用時間は一時間だけのつもりだったが、気づけばあっという間に過ぎてきたので、通りかかった店員に時間の延長をお願いした。
「……ちょっと俺トイレ行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
その後、遥斗が脇腹を抑えながら部屋を出ていった。飲み放題だからといってグラス十杯は飲んでいたので、お腹でも壊したのだろうか。
「……暇だな」
一人で歌っていてもよかったのだが、ソファに腰掛けると、歌い続けた反動で体がずしりと重たくなったので、遥斗が戻ってくるまで休憩することにした。
(遅いな……あいつ)
それから五分程経っても、遥斗は戻ってくる気配がなかった。兄貴を待たせるとはとんだ子分もいたもんだ。
「あ、そうだ」
僕は寄りかかっていたソファから重い腰を上げ、自分の荷物の中から一冊のノートを取り出した。作曲する際に使う、歌詞のアイデアをまとめているものだ。
自分で言うのもなんだが、中身は詩というか、ポエミーな内容のものが多い。勿論、他人に見せることは基本的にない。
(遥斗が戻ってくるまで、次に作る曲の練
習でもしようかな)
ノートを開き、次に作る曲の歌詞を一通り眺めていく。
既に歌詞の殆どは決まっていて、後はイントロや間奏をどうするかを思索中なのだ。
曲のタイトルは────
『アノニマス・エンゲージ』
前半は、大切な愛人を失った悲しさに打ちひしがれる一人の男の悲痛な叫び。
──差し込む夕日に──君の姿を重ねて
──錆びきった空に──小さな種を植える
中盤は愛人が命を賭して産んだ一人の子供の無垢な笑顔に徐々に、荒(すさ)んでいた心が輝きを取り戻していく。
──無邪気な笑顔で寄り添いながら
──溢れる涙を連れ去ってしまう
終盤は愛とは何か、幸せとは何はを問いかける。失った妻の分まで、自分が、そして子供が笑って生きていけるように、今を精一杯生きようと静かに決意する。
──何十年何百年何千年何億兆年だって
──最低で最高で最愛の君のもとへ
今まではどちらかと言うとボカロのハイテンポ曲やポップな曲などをベースに曲を作ってきたけれど、今回はどちらかというとスローロックソングのような曲調を意識している。
今までとは心機一転、ドラマの主題歌のような曲に挑戦してみよう、という試みだ。
マイクを握り、電源を付ける。当然、まだ歌詞だけの状態なのでメロディーはない。
そっと深呼吸して目を閉じる。それから、歌詞の内容にあった情景を、頭の中に思い浮かべる。
掴めそうなほどに目の前にあった幸せ。
唐突に突きつけられた、無慈悲な現実。
自己嫌悪の末に、娘の温かさに気づく。
失いかけた希望を、少しずつ取り戻す。
紡がれる優しさに、主人公は安堵する。
不思議と、メロディーは手に取るように脳裏に流れていった。
中々いいアイデアが思いつかなくて空白になっていた箇所も、まるでそこに元々歌詞が書かれていたかのように自然と口が動いた。
歌い続ける度に、これ以上ないほどに胸が高鳴っていく。感情の波が止め処なく溢れて、僕の心の空白を満たしていく。
それは、今まで部屋のクローゼットの中で歌っていたことが酷くちっぽけに思えてしまうほどだった。
歌は最終局面へと差し掛かる。
娘が陰ながら自分を支えていてくれたのだという事実に気づき、自分の情けなさと、不甲斐なさを嘆く。
そして、これからは娘と二人で、失ってしまった君の分まで生きようと決意する。
──だからこそ伝えたいのは
「このっ……下手くそ!!」
……下手くそ? いや待て待てなんでここで娘に暴言吐くんだよ。曲全体のイメージが崩壊するじゃないか。
僕は静かに嘆息した。どうやら、歌いすぎて頭がおかしくなってしまったらしい。
……やっぱり休憩しよう。
「ちょっと! 無視しないで!」
「あ、遥斗戻ってきてたのか。ごめん。中々戻ってこないからオリジナルの曲歌って……ってあれ?」
遥斗が戻ってきたのかと思い部屋と扉を見ると、そこには見覚えのない少女が立っていた。
その瞳には、大粒の涙が今にも溢れかえってしまいそうなほどに膨らんでいる。
「えっと……その?」
僕は状況が理解出来なかった。
やっと遥斗が戻ってきたと思ったら、そこには僕を下手くそだと罵る少女が居た。
それだけで意味不明なのにさらにその少女は涙目ときた。
よく見るとカウンターの店員さんと同じ服装だったので、この今にも泣きそうな少女は、このカラオケ店で働いているようだ。
背は僕より頭ひとつ分低い。僕と同じ高校生だろうか。
「僕の歌……下手だった?」
何を聞けばいいか分からず、とりあえず最初に思いついたことを質問することにした。
僕が質問すると、少女は涙を袖で拭い、紅色の双眸(そうぼう)で僕を睨みつける。どうやら相当機嫌が悪いらしい。
「えぇ……へ、下手くそよ」
彼女は怒りと呆れが込められた声音でそう言った後、怪訝(けげん)そうにそっぽを向いた。
「まるで味の無いガムを永遠に噛み締めているみたい。いや、違うわね。砂糖菓子に砂糖を入れ忘れた感じかしら」
……どっちも結構な批判だよね。
せめてもう少しオブラートに包んでくれてもいいのではないかと思いながら、僕は頭をかいた。
「……事実を言ったまでなのだけれど」
「……そうですか」
僕としては、少し虫の居所が悪かった。
遥斗や他の友達に言われるのならまだ納得がいくが、求めてもいない感想を、ましてや大層な批判を赤の他人である彼女から告げられたからだ。
「で、でも悪い所ばかりじゃないわよ。あなたの歌い方、曲全体のストーリーが手に取るように聴こえたわ……この感覚は久々よ。でも歌い手がこれじゃあ、せっかくの曲が可哀想で仕方ない」
次々と飛び出る言葉のナイフが、僕の急所を的確に刺して、抉(えぐ)って、貫いていく。
僕は言い返したかったが、彼女の言葉に、反論できるだけの勇気と根拠がなかった。
もし僕がネットを代表するぐらいの歌い手であれば、少しは反論できただろう。でも、悲しいことに現実は、その理想とは真逆だ。
僕は、どこにでもいる、音楽が好きなしがない男子高校生だ。ネットで検索すれば、僕より歌が上手い奴なんてゴロゴロいる。
「ところで、一つ質問いいかしら」
淡々とした口調で、彼女はそう告げる。
さっきまで泣き出しそうだったのが嘘のようだ。
僕はその質問に、無言で頷いた。
「さっき歌っていたのって、あなたが作った曲かしら?」
「……うん。そうだけど」
「その技術は誰かに教わったもの?」
一つって言ったじゃん。まぁいいけど。
「いや、独学だよ。動画とか本とか、そういうのを見て自分なりにやってる」
「本当に?」
「逆にここで嘘ついて何になるの」
「……それもそうね」
彼女は納得したのか、静かに嘆息した後、両手を組み、壁に寄りかかる。
そして、再び鋭い双眸で僕を睨みつけ、扉を開けた。
「……じゃあ、さよなら」
僕が唖然としている状況に満足したのか、彼女は豪快に扉を閉めて部屋を出て行った。
僕は何も考えることが出来ず、しばらく扉を眺めていた。
ただただ、眺めることしか出来なかった。
その後遥斗が戻ってきたが、いつの間にか利用時間ギリギリになっていたようで、慌てて部屋を出る。
遥斗に「もう歌わなくていいのか?」と聞かれたが、そんなことを考えていられるような気分ではなかった。
その後のことは殆ど覚えていない。
ただ胸の中で、黒く溶け落ちた穴が空いたような感覚だけが、僕を満たしていた。
クラムジー・メモリーが響く頃に 室園ともえ @hu_haku
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