アップルパイ



 それから集会に出かけるたび、イツキに話しかけられるようになった。とはいっても、「わたしの場所」であるブランコまでの道のりに彼の木があって、そこを通り過ぎる際、枝の上から「ウミ」と呼ばれるだけだ。呼ばれたら、わたしも「イツキ」と返す。それだけのことである。


 軽い挨拶をしたら、いつものブランコへ向かう。すると大学生くらいのお姉さん――太いばねに巨大なてんとう虫が取り付けられた遊具に座っている――がじっと見つめてくるので、見つめ返す。お姉さんがわたしとイツキの間で視線を一往復させ、にんまりと不気味な笑みを浮かべる。ここまでが毎回の流れである。


 今日はミョールが足元に転がらず、少し涼しいからかツツジの植え込みの脇で他の猫と団子になってくつろいでいるので、ブランコを漕いだ。あまり強く揺すると鎖が軋んでうるさいので、ゆらゆらと、退屈を紛らわす程度にそっと動かす。揺れているものがあると視線が集まるが、すぐに離れてゆく。そんなわたしの視線の先には不安定に明滅する街灯があったが、くたびれたスーツ姿の眼鏡のおじさんがスッと指さすと、青っぽい光が静かに夜の公園を照らすばかりになった。


 おじさんは街灯を点け、てんとう虫のお姉さんはピンと立てた人差し指の先に蛾を集め、近所の高校の制服を来たお姉さんは小石を何十個も崩すことなく積み上げている。魔女達の使う魔法はそれぞれいつも同じで、皆わたしと同じように、一種類の魔法しか使えないようだった。


 ならは、イツキの魔法はどのようなものだろう――そう考え、枝の上を見る。色の薄い茶の瞳と目が合う。いつも目が合うので、彼の魔法は人の視線を察知できるものなのかもしれない。公園で一番高い木の一番太い枝に腰掛けたイツキが、わたしを見て微笑む。口の形だけで「ウミ」と言うので、わたしも口の形だけで「イツキ」と返す。向かいのお姉さんが呻くような変な音を立てて笑う。サラサラの髪をした綺麗な人なのだが、若干気味が悪い。


 と、木の上からイツキがぴょんと飛び降りた。こちらにやってくる。初めに話しかけられた時以来なかったことで、緊張で胸がドキドキ言い始める。


「えっ……なに」

「ウミ」

「イツキ」


 反射的に名を呼び返したわたしに向かって、イツキはいつの間にか手にしていた小さな紙の箱を、少しそっぽを向きながらそっと差し出してきた。


「えっ……なに」


 わたしは目の前の箱を見ながら繰り返した。するとイツキは言った。


「その……開けてみなよ」

「え、うん」


 困惑しながらもわたしは箱を受け取り、そっと折り目を引っ張って開けた。つるつるした白いボール紙を折り畳んで作る、ケーキ屋さんの箱だ。


「アップルパイ?」

「……食べていいよ」

「いいの?」


 折り目を大きく開く。箱が紙の形になる。バターとシナモンと、甘酸っぱい林檎の香りが立ち昇った。青白い街灯の光を浴びて、暖炉の炎に照らされたようにあたたかく、甘そうに光る。


「……ん?」


 そこでわたしは首を傾げた。手のひらでひさしを作って、街灯の明かりを遮る。狐色に焼けたパイ生地の網目の隙間から、てらりと蜜に包まれた林檎が覗いている。あたたかそうに輝いて。


「……それ、俺の魔法。作ったお菓子が、ちょっと光る」

「これ、イツキが作ったの?」


 驚いて見上げる。中身がはみ出すことなく綺麗に切られたアップルパイは、それはそれは美しい、工芸品のような網目模様のパイ生地で飾られていたからだ。


「……父さんにもちょっと手伝ってもらったけど。俺んち、ケーキ屋だから」

「すごいね」


 箱の中には一切れのパイ以外何も入っていなかったので、ピザを食べる時のように手でつまみあげる。冷えたパイ生地は案外しっかりとしていて、崩れることなく持ち上がった。イツキが小さく「あ、フォーク」と呟く。


「ごめん」

「だいじょうぶ」


 歯を立てると、さくっ、と音がした。口の中でパイが崩れ、粉々になって頬の内側に張り付く。それを舐めとるようにしながら、中の林檎を味わう。煮詰められて甘さも酸っぱさも香りも凝縮されたような、濃い果実の味。くたくたになりきっていない、僅かにしゃくしゃくとした食感。後から現れて酸味を和らげる、なめらかなカスタードクリーム。幽かに鼻を抜けるシナモンとバニラの香り。


「おいしい、すごく」

「そっか」

「あと、きれい」

「だろ? アップルパイが一番いい感じに光るんだ。中のフィリングが半透明だからさ、ちょっとガラス細工みたいにキラキラして」

「うん」


 わたしは手にしたパイを少しだけ顔から遠ざけ、パイ生地とパイ生地に挟まれた真ん中の部分、透き通ったフィリングとやらをじっと見つめた。林檎ジャムの瓶を蝋燭の光に透かしたら、こんな色に光るだろうか。甘くてとろっとして、やさしくてあたたかな色。パイ自体は冷たいのに、それを流し込んだ喉の奥は何故かあたたかいような気がしてくる。


「すてきなまほうね」


 そう囁いて見上げると、イツキの顔がかあっと真っ赤になった。「あ、ええと……うん、おぅ」ともごもご言う。魔法の腕を褒められて照れているらしい。


「ウミの魔法も、その……綺麗、だよ」

「でしょう?」


 わたしは得意になって微笑み、もう一口アップルパイを食べた。すごく美味しい。思わず頬が緩んでしまったのを見たイツキが「う、ウミ……か、か」と奇妙な声を上げたので、わたしは慌てて魔女らしい凛とした表情を取り繕った。いけない、今のはわたしらしくなかった。


 わたしはそれから時間をかけて大事にパイをたいらげ、箱を丁寧に組み立て直して、イツキに「ごちそうさまでした」と言った。イツキはどこかぼんやりした顔をしてわたしの顔をじっと見つめ、そして言った。


「あのさ……気に入ったんなら、明日俺んちに遊びにきなよ。アップルパイの残り、まだあるから」

「……いいの?」


 三日月の夜に集まる魔女達は、ただ集まっているだけでなんの交流もしていない。会話をしているのもわたし達だけだ。それは何か、魔女としての取り決めがあるのではないだろうか。わたしはそう考えて周囲をきょろきょろと見渡した。てんとう虫のお姉さんと目が会う。彼女は今までに見たことのない満面の笑みで勢いよく拳を突き出し、ぐっと親指を立てた。行っていいらしい。


「……じゃあ、行く」

「ほんとっ? じゃあ明日、学校終わったら……えと、三時半に、ここで待ち合わせでいいか?」

「わかった」


 頷くと、イツキは「やった!」とぴょんぴょん跳ねるようにして木の上へ戻っていった。お姉さんが腕を組んで深く頷いている。ミョールが足元に戻ってきて、眠たそうな声で「ぬぅん」と鳴いた。






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魔法使いのアップルパイ 綿野 明 @aki_wata

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