蝉時雨降り止まず

つるよしの

それは21回忌の夏

 暑い陽がじりじりと照りつける、真夏の空き地。

 あれから、時すら止ったかように、そこだけぽっかりと空いた都会のなかの、ちいさな空間。

 そこに、百合の花を抱えている中年の痩せこけた男性の影法師が躍る。

 私は、やっぱり来ていた、と思った。

 ここに今年来れば、必ず会えると思っていた人が、そこにいると。

 夏草茂る空き地にて、いま、私はその人と対峙している。


「高橋博さんですよね」

 髙橋さんは、私にそう声をかけられて、どきりと、また、困惑したように瞬きを繰り返したが、ひと時の間をおいて、こくり、と頷いた。

「私の正体をご存知ということは、あの事件の、被害者の方ですか」

 髙橋さんは俯き加減でそう小さな声で言った。

 なので、私も同じように、こくり、と頷いた。そして、静かに自分の名を名乗る。覚えていますか、とは聞かない。覚えてないはずは、ないと確信していたから。

「私、重田瑠奈です」

「あぁ、瑠奈ちゃん……か」

 髙橋さんは一瞬、遠い目になり、それから我に帰ったように私を見つめて呟く。

「大きくなって……」

 どこからか、こんな都会のなかだというのに蝉の声が聞こえる。耳に染みつくその声が、多少うっとおしい。

 私は滲み出る汗をハンカチで拭いながら、蝉時雨に負けぬように、できる限りの大きな声で告げる。

「私、髙橋さんに聞きたかった事があるんです。……分かりますよね。私が何を聞きたいか」



「やぁ、久しぶり、花音ちゃん」

「達也君! 元気だった?」

「知ってる? マサコ先生、昨年亡くなったんだって、乳がんで」

「あーそうなんだ、道理で居ないと」

「そういう智紀君はどうしてるの」

「あー俺は、サラリーマンだよ。転職して今は文具メーカーで働いてる」

「お前、こないだ大学卒業したばかりで、もう転職したのかよー」


 真夏に似つかわしくない黒い服を着て、手にそれぞれ花束を抱えた私たちのお喋りが、ビルの谷間の狭い空き地に木霊する。暫くの間を置いて、最後にやって来た園長先生が、コホン、と、ひとつ咳をしてそれを止める。


「皆さん、お久しぶりです。お元気でしたか」


 年老いた園長先生の講話が始まった。急いで、私たちは口をつぐみその場に並ぶ。

 

「あの日から長い月日が経ちました。ですが、いま、この瞬間も、あの事件の哀しみや悔しさは鮮やかに私の胸に甦ります。みなさんは堂々たる社会人になられましたね。あのとき、5歳で命を絶たれた夏樹くんと清香ちゃんも、あの日さえなければ皆さんと同じように、立派な大人になっていたかと思うと、残念でなりません」


 そう、あれもこんな暑い日だったな、と、ぼんやり思う。そして今よりも蝉時雨が激しかったような気がする。気のせいだけかもしれないが。


「2人を偲んで、こうして続けてきた慰霊の会ですが、20回忌の今年を機にお仕舞いにしようかと思います。私たち、元保育士たち、父兄の方々も歳をとりましたし、担任だった横内昌子先生も、昨年逝去いたしました。あの辛い経験を経て、皆さんが立派に社会に羽ばたいているのを見届けられた、ということで、この会の役目はほぼ終わったのではないかと考えています。もちろん、亡くなった2人の冥福はこれからも変わらず祈り続けていきたいし、皆様にもそうあって欲しいと思っています。また、来年には刑期を終えて、犯人も出所してきます。それも含めて、今日の会を一つの区切りとして、来年からは個々にこの日を思い出すことにしたく存じます」


 そう先生は一気に語を継ぐと、講話を締め括った。そして、私たちはその慰霊の会の最大のハイライトである、最後の献花の時間に移ったのだった。


 それが1年前のことだ。



 そして今日、私は、かつての園庭である空き地に、その人と向かい合っている。

 気が付けば、私は訥々と、積年の想いを高橋さんに語っていた。


「……あの事件のこと、私、実ははっきりと覚えてはいないんです。あなたが私たちの保育園に押し入ったあとの、先生と友だちの悲鳴、泣き声、血の匂い……それは今も脳裏に浮かぶような気もするけど、なんせ私はまだ、あの時は5歳で、どっちかというと、大きくなってから見た事件を報道する新聞やニュースの記憶が、実際の記憶にすり替わっている感じで。……でも、あの事だけは覚えてるんです」


 そこまで語り終えると、私はぐっと顎を持ち上げて、高橋さんの顔を見た。そして問うた。


「私を助けたのは、私が、かつての恋人の娘だったからですか?」


 ……そう、その時の事だけは鮮明に覚えている。

 犯人が、昼寝中の園児たちを次々と出刃包丁で刺して回り、阿鼻叫喚となった私たちチューリップ組の教室の中。犯人は動くこともできず、ただ横たわって震えるのみだった私の小さな体を、おもむろにひょいと持ち上げると廊下に連れ出した。

 私もみんなみたいになるんだ、と思って泣き出す私を、犯人はトイレに連れていった。


 怖かった。覆面から覗く、鋭く光る目が恐ろしかった。


 ……でも、犯人は私を乱暴にトイレの個室に押しこめると、何もせずに去っていったのだった。

 私が次に覚えているのは、トイレで怯えて泣いているところを、駆けつけた警官によって保護されたときのこと。


 そのことを、血相を変えて私を迎えに来た母に言ったら、母は、そのことは、決して、誰にも話しちゃいけないよ、と言った。

 だから、私は保育士さんにもお巡りさんにも、他の誰にも、決して話さずに今日まで来たのだ。

 私は昼寝中にたまたまトイレに行っていて、難を逃れた、運の良い子どもとして、事件直後はセンセーショナルに扱われたものだ。


 だが、それは違うと、私は知っていた。だがしかし、それを母の言いつけ通り、ずっと、ずっと、不思議に思いながらも、隠してきたのだ。

 しかし、そんな母も一昨年亡くなった。

 そして、先日、私は母の遺品の中から、犯人……いや、高橋さんと母が手を繋ぎ微笑みあってる写真を見つけたのだ。



 ……どれだけの刻が経ったか。

 ……じりじりと太陽に灼かれながら、汗を拭いもせず、私の話を、ただ聞いていた高橋さんは、漸く口を開いた。


「……じゃあ、私も誰にも話さなかった話をしましょう……私があなたを助けたのは……いや、ちがう、私はあなたを助けるつもりはなかった。私はそもそも、あなたを殺すために、無差別殺人を装って、あなたの保育園に押し入ったのです。そして、あなたを目的通り、確実に殺すべく、トイレに連れ出した」


 高橋さんの口調は淡々としていて、最初私は何を話されているのか、良く分からなかった。だが、そんな私の心にも、高橋さんの言葉はボディブローのようにゆっくりと効いてくる。心臓の音が高まって、とくん、とくん、と音を響かせた。


「あのとき、私と彼女……あなたのお母さんと私は、共に生きる未来を夢見ていた。とはいえ、不倫の仲です。成就するはずのない恋愛でした。ですが、彼女があの夏の日の、前日、ぽつりと私に漏らしたのです。子どもさえ居なければ、と。……でも、いざとなったら、彼女によく似た瞳の幼子の胸に、刃物を突き刺すことが出来なかった」


 夏の蒸し暑い空気のなか、対峙する私たちに、蝉の合唱が降り注ぐ。


「……あなたを手にかけなかったのは、それだけのことなのです。あれは、不完全な犯罪でした」

 そこまで話すと、高橋さんは、深く私に一礼し、地面に百合の花を置くと、その場を足早に去って行った。一度も振り返ることもせず。


 その後ろ姿を見ながら、私は大きく息を吐いた。今もって、動悸の収まらぬ心臓をなんとか落ち着かせようと試みて。だが、なかなかうまく行かない。


 ……ちょっとした、運命の悪戯。ちょっとした、神様の気まぐれ。

 私が生きているのは、それだけのこと。


 そして、お母さん、いったい、これは、どういうことなの。

 ねぇ、ねぇ。

 ねぇ。


 ……いまや、私には何が何だか、分からない。分からなくなった。


 私の視界に広がる21回忌の夏空は、ポジとネガが反転したみたいな色をしていた。

 そして、いまは耳にやたら虚ろに響く蝉時雨だけが、まだ止まない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝉時雨降り止まず つるよしの @tsuru_yoshino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ