一章 透明と黄金色

第一話 これが僕の日常

 最低な一日の始まりは、痛みから。


 透明なビニール傘が音も立てずに宙を舞う。落下していく傘の後を追うように、地面へ倒れ込む。今度はバシャッ! という派手な水音が上がった。冷たい。運悪く、雨が作った水たまりの中に半身を投じてしまったのだ。


 「だっせぇ。顔から水の中に突っ込んでやんの」


 目に水が入ったせいでぼやけた視界の中、派手な黄色のスニーカーが嘲るようにステップを踏んだ。

 僕を見下ろす四つの人影。誰もが同じ制服姿で、同じ表情をしていた。


 醜く歪んだ、笑い顔。


 「ほんと、真汐ましおって昔からどんくさいよなぁ。運動神経ってやつ、生まれる時に親から引き継ぎ損ねたんじゃねぇの。昔ヒーロー扱いされてた兄貴とは似ても似つかないじゃん」


 訳知りぶって言うのは、最も背が高い少年だ。谷沢やざわ涼介りょうすけ。僕と同じ中学三年生で、仲のいい幼馴染……だったやつ。少し前までは。


 「兄貴と血、つながってないとか」


 「どっちかは母親が別の男との間に作った子、ってやつ?」


 「うわー。その説、妙にしっくりくるわー」


 周りが涼介に便乗し、口々に憶測を述べ始める。もちろん、事実かそうでないかなんて当人たちにとってはどうでもいいことだ。


 一人が持っていた傘を閉じ、未だ冷たい雨水に身体を浸したままの僕に向けてから勢いよく開いた。水滴が飛び散り、こちらに襲いかかってくる。本能が働き、防御をしようと反射的に体が縮こまる。無意識で行ったことなのに、涼介たちは僕が怯えていると思ったらしい。愉快そうな笑い声が上がる。

 何とでも言えばいい、いくらでも笑えばいい。何をどうされても、僕はお前らに屈服なんてしないから。


 身を起こしかけた時、誰かが「そろそろ行かないと遅刻するな」と呟いた。


 「お前は今日、ずる休みすれば。その格好で学校来ても浮きまくるだけだぜ。あ、もう充分浮いてるけど」


 冷ややかな眼差し。幼馴染がこんな表情もするだなんて、ほんの半月前までは思ってもみなかった。


 耳障りな爆笑を雨の街に響かせながら、彼らは去って行った。


 舌打ちがこぼれる。取り残された僕は起き上がり、すっかり湿ってしまった前髪をため息混じりにかき上げた。くせのある黒髪は、水分と湿り気のせいであちこちうねっている。朝、せっかく直した寝ぐせも元通り。耳の近くでピンとはねている。


 傍らに転がっている傘の柄を引っ掴んで頭上に掲げたものの、全身はすでに濡れ鼠の状態だ。差す意味がないと判断して、手早く傘を閉じる。しばらく近くの塀に立てかけておくことにしよう。


 水を含んだ制服が、糊で貼りつけたようにしっかりと肌に密着している。

 不快。頭の中で漢字二文字がチカチカと点滅した。いかがわしいお店が使っているネオンサインみたいだ。


 「あーあ。今日はずいぶんと派手にやられちゃったね」


 びしょ濡れになった顔をハンカチで拭っていたところへ、女から声をかけられた。

 無邪気さの中に、呆れを滲ませたような声音。声の主にはすぐ見当がついたけれど、敢えて無視して顔を拭う作業に専念した。


 気配が近づいてくるのを感じる。それでも顔を上げない。

 もう少し待った方がいい。


 朝のホームルーム開始まで、あと数分。通学路にはまだいくつか生徒の姿がある。すれ違いざまに向けられる憐みの視線に気がつかないふりをしつつも、僕は彼らのが気になって仕方がなかった。


 「怪我、してない? 突き飛ばされて転んだ時、足ひねったり」


 「今は話しかけないで」


 すぐ隣りから気遣いの言葉がかけられる。彼女の優しさはありがたい。でも今は小さな声で早口に対応するしかなかった。なんて素っ気ない態度なのか。通りすがりに僕たちの様子を見かけた人はそう思うかもしれない。


 もっとも、その人に見えたらの話、だけど。


 濡れて破れやすくなった紙にでも触れるつもりで、丁寧にシャツの水気を絞っていたら、やがて周りには誰もいなくなった。聞こえるのは、地面や近くの家の屋根で雨が跳ねる心地いい音ばかり。


 「もう、いいよ」


 短く告げ、顔を上げる。


 「いつも思うけど、の能力ってかなり面倒だよね。あたしらみたいなのが見えて、声も聞こえるなんてさ」


 「そう思うなら、話しかけてこないでよ」


 「とか言いつつ、ちゃんと答えてくれる。そういう優しさも、まっしーがよく面倒ごとに巻き込まれる原因の一つだろうなぁ」


 僕は愛称で呼んでくる馴れ馴れしい女を睨みつけた。


 正確には、と過去形で表すべきかもしれない。たった今、目の前で微笑んでいるこの人は、紛れもなく僕が今過ごしている時間軸より過去を生きていたのだから。


 「幽霊じゃなきゃ、頭なでなでしてあげるんだけどね」


 女の華奢な手が僕の頭を貫通した。いや、すり抜けた。彼女の全身は、実体を持つものに触れた途端、煙のように透けてしまう。


 幽霊、と人々が呼び恐れる存在。それがこの女の正体。


 そして、日常的にその存在を嫌でも認識してしまうのが僕という人間だ。


 僕は心の中で、彼女たちのことを「透明な人たち」と呼んでいる。

 彼らと僕はよく似ている。そこにいるはずなのに気がついてもらえない。やっと目が合い、話ができると期待した矢先、見て見ぬふりをされたり痛い目に遭わされたり……。


 そういう仕打ちを受ける度、負う傷が増えていく。

 生きていても、死んでいても、傷はつく。形のある器の方にではなく、自我の奥深くにある脆くて壊れやすいところに。癒すのは難しくて、時間もかかる。癒えることがないまま存在自体を消してしまう人間や人間はあまりに多い。


 「学校、どうするの? あのいじめっ子たちの言う通り、サボっちゃう?」


 何故か楽し気に笑いながら、彼女は僕の顔を覗き込んできた。茶色いポニーテールが音もなく揺れる。


 長いまつげにぱっちりとした大きな瞳。薄くメイクをしているみたいだけれど、彼女の肌の白さはファンデーションを塗らなくても充分に際立っている。瞳にも唇にもちゃんと潤いがあって、生きている人間のそれと何も変わらない。


 そう、変わらない。つまりは同じ。だから面倒くさいのだ。


 僕には、生者も死者も見えてしまう。時と場所なんて関係なく。それだけでもすでに厄介なのだが、もっと厄介なのは死者の見た目は生者とほとんど同じ場合が多い、ということだ。唯一、異なる点は透けているかどうか。誰か知らない人から接触されそうになった時は、かならずその人の全身を観察する。少しでも背景が透けて見えるようなことがあれば、それは生きている人間ではない。

 ただし、幽霊によって透け具合の違いはある。

 これは個人的な見解だけれど、死んで間もない幽霊の方がより輪郭が濃くはっきりと認識できるようだ。生きている人間とあまりに見た目に大差がなくて、幽霊だと見抜けなかったこともある。


 今、僕の目の前で制服のスカートをひるがえして微笑んでいる彼女も、出会ってからしばらくは生きている人間だと思っていた。


 「……あいつらの言いなりになるみたいで癪だけど、休むしかないかな」


 「そんな格好じゃ、風邪ひいちゃうもんね。その点、幽霊になったら病気も怪我もしないから、そこだけはちょっと利点かな」


 もう死んでるからね、と言いかけてやめておく。紛れもない事実だとしても、わざわざ口に出す必要はない。


「あたしもよく、友達とサボったっけ。あれからもう三年かぁ……」


 懐かしそうな視線が向けられた先には、看板が立っている。


 白地に堅苦しい赤色のフォントで「お願い」と大きく書かれ、次いで事故の大まかな概要と目撃者を募る文面が記されている。事故発生の日付は、三年前の十月。自動車が歩行者をひき逃げしたらしい。

 死亡事故だ。そして被害者は女子高校生。僕は見ていないけど、事故のことはきっとニュースでも取り上げられただろう。


 事故そのものは詳しく知らない。でも、被害者のことなら少しだけ知っている。

明るい性格で、おしゃべり好きらしく、死んでからもよく笑う朗らかな女の子だ。


 こんなにも人間らしい彼女がどうして生きていないのかと、たまに疑問に思う。


 「学校行かないで、何してたの?」


 「街で遊んでたに決まってるじゃん。ゲーセン行ったり、映画観に行ったりさ。あと雑貨屋巡りしたり、メイク道具選んだり。……楽しかったなぁ、あの頃」


 「じゃあ、今は?」


 幽霊が見える。周りの人間が見えない存在が見える。


 僕がそのことを理解した時、真っ先に決めたことがあった。それは「彼らには不必要に近づかず、こちらからは絶対に干渉しない」ということだった。透明な彼らは、自分たちを認識できる生者を見つけると接触を図ってくる。まだ幼かった頃の僕は、話しかけられれば応じ、退屈な時には喜んで遊び相手にしていた。


 彼らの存在に疑念を抱き始めてから、僕は何度も怖い目に遭ったし、痛い目にも遭った。ようやく自分が周りと違うらしいと気がついたのは、小学校に上がってからだ。ついこの間まで一緒に遊んでいた存在を恐れ、避けるようになったのもその頃。


 固く誓いを立てても、何となく話題を振ってしまったのは、最近、生きている人間と話す機会が減っているせいだろう。


 「えー、今? どうかなぁ、ずっと同じ場所に立ちっぱなしだし、つまんないかも。あ、でも真汐くんとこうしておしゃべりしてる時は楽しいよ。目の前で蹴られたり殴られたりされるのを見るのは、心が痛むけどね」


 「それは……、僕にはどうにもできないと思う」


 「そうかな。ねえ、先生や親には話してみた?」


 首を横に振る。話していない。


 話せるわけがない。


 「一回さ、大人に話してみた方がいいんじゃない? そしたら案外、パパッと解決しちゃうかもよ」


 「いじめ問題が簡単に解決できるものだったら、この国の自殺者も減るだろうね」


 塀に立てかけておいた傘を持って、僕は学校があるのと反対の方角へ歩き出した。後ろから「サボり、楽しんでねー」と明るい声が飛んでくる。振り向かなくても、彼女が大きく手を振って見送ってくれている姿が想像できた。


 駅を目指して歩きながら、スマートフォンで学校の職員室へ電話をかけた。タイミングよく担任の先生が出たので、すぐに体調不良で休む旨を伝える。心配そうな声。気遣いの言葉。自分が受け持つクラス内でいじめが起こっていることを、担任の彼は知らない。


 学校の外にいる幽霊でさえ、知ってるのに。おかしな世の中だ。

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