透けてる彼に触れる方法、教えて下さい。

プロローグ


 気がつかない内に、目をつけられていたのだ。


 自分が意識もせず、知らないところで物事が進み変化していることなんか、しょっちゅうだ。たとえば部屋のレイアウトとか、毎朝食べる食パンの銘柄。たとえば親の離婚問題とか、二人が僕と兄の親権をどうするかで争っていることとか。

 あと、恋とか。人間関係。痴情のもつれ。

 後になって理解して、どうにかしようと考えた時には、もう手遅れ。何もかも片がついている。それは大抵、僕が好ましく感じるものとは真逆の結果で。


 彼との出会いも、僕が意識を他に向けている時から始まっていた。


 あれは七月の半ば。夏場は涼しいイメージのある北海道とはいえ、真夏の日中、外はうだるような熱気が立ち込める。暑くて過ごしにくいのは家も同じだった。だから僕は放課後、自分にとって居心地のいい場所を探してまわることにした。ほどよく空調が効いていて、なるべくお金がかからなくて、静かで勉強がしやすい空間。条件を満たす場所は、自ずと搾られる。僕が図書館へ入り浸るようになるまで、そう時間はかからなかった。


 中学校の授業を受け終え、いつもみたいに図書館へ立ち寄って翌日に控えた英語のテスト勉強をしていた。


 教科書にあった設問の答えを考えていた時だ。


 前方に、光を感じた。


 広い館内の中央にある小さな中庭。天からやわらかな日光が降り注ぎ、隅の方に植えられた藤色ふじいろの紫陽花を照らしている。落ち着いた環境で思い返せば、それはとても美しい光景だった。けれど、その時の僕は別のところに注意を向けていたから、花の可憐さや香りに思いを馳せる余裕はなかった。現代の若者っぽく、スマートフォンで写真を撮るなんてこともしなかった。


 中庭と館内。外と内を隔てる透明なガラスの前に、男の人が立っていた。まったく面識のないその人は、まっすぐな眼差しで僕を見つめていた。


 疑問を抱いた直後、ハッと息を吞む。


 ガラスを背にして立つ男の身体は、透明だった。いや、透けていたのだ。


 芝生の深い緑。名前も知らない花々が見せる、色とりどりの輝き。地面を探る小鳥のくちばし。彼の背後に広がっているはずの、本来ならば死角になって僕からは見えないはずの光景が、見える。頭からつま先まで、彼の身体を通して庭の様子が見られる。


 こんなところにもいるのか。せっかく、周りを気にせず過ごせる安全地帯を見つけたと思ったのに。


 思わず凝視したのは、三秒ほど。なるべく、何事もなかった風を装って手元の教科書に視線を戻す。


 わずかだけれど、目が合ってしまった。には、きっと気取られただろう。


 ちょっかいを出されては面倒だ。すぐにここを出た方がいいと直感が告げる。早急な判断を下し被害を受けずに済むこと。厄介な己の体質を受け入れた上で安全に生きていくためには、それが何より大事だ。


 なのにこの時、僕は自分の直感に抗った。光の方へ、再び視線を向けた。


 二度とは見られない光景を、もう一度だけでいいからと求めた。でも、もう一度はやっぱりなかった。男の姿はガラスの前から消えていた。




 安堵と物足りなさを同時に味わったのは、生まれて初めてだったかもしれない。


 僕が欲した「もう一度」は、この出来事を境にして、しつこいくらいにおとずれるようになる。

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