第三話 生と死

 濡れた服を着続けるのに耐えられなくなって、仕方なく幽霊を自宅へ連れて帰ることになってしまった。


 「本当に、上がってもいいのか? 親御さんは?」

 「仕事で留守。だから気にしなくていいよ。どっちみち、母さんにアンタの姿は見えないし」

 「なんだ。それなら安心だな」

 「言っとくけど、少しでもおかしなことをしたらすぐに追い出すから」

 「幽霊に対抗する手段なんて、持ってんのか?」

 「さあ、どうだろうね」


 曖昧にぼかしておいたのは、いざという時――本当にこの幽霊を追い出すことになった時、不利にならないようにするためだ。


 まあ、水戸黄門みたいにお守りを掲げる、というただそれだけの方法なんだけど。


 靴を脱いで廊下を歩くと、床にうっすらと足跡が残った。あとで掃除をして証拠隠滅をしなくてはならない。なんて面倒くさいのか。


 金髪の幽霊は律義にも「んじゃ、邪魔するぜ」と僕へ一言告げてからついてきた。彼はもちろん、土足だ。死者には礼儀作法なんて関係ないけれど、生きていた時と同じように振る舞おうとする幽霊は意外にも多いみたいだ。元々、真面目な性格をしていた人なら死んでからも法と秩序を守ろうとするし、生きてた時から横暴だった人はやっぱり死んでからも好き勝手に振る舞う。


 できればそのどちらにも追いかけまわされたくはないが、とりあえずこの金髪の幽霊はある程度わきまえているらしい。


 「……あんまり、じろじろ見ないで欲しいんだけど」


 脱衣場へ立ち寄り、濡れてしわが寄った制服を脱いでいると、視線を感じた。


 確認するまでもなく、彼へ苦情を言う。すると笑い声が聞こえてきた。


 「男が男の着替えをぼんやり見てちゃ、悪いのか?」

 「法には触れなくても、僕は気分が悪い」

 「思春期の女の子かよ」

 「うるさい」


 ついでにシャワーを浴びるからと告げ、僕は彼を室外へ追い払った。そうするまで、何となく下着は身に着けたままだった。廊下の方から「俺、あんまり気が長くないんだけど」という不満そうな声がする。


 「僕が許可するまで、絶対に入って来ないでよね」


 返事の代わりにため息を聞いた。僕の態度にうんざりして、どこかへ行ってくれたら楽なのに。


 心底、思っているわけじゃない。


 本当は彼の言っていたことが気になる。自分でも不思議なくらいに。


 ――幽霊よりましな生き方してるって、本当に思えてんのか?


 頭からお湯をかぶりながら、先ほど問われたことを思い返す。


 まし、とは言えない。そもそも生者と死者を比べる時点で間違っている。


 いくら現在自分が置かれている立場が苦しくても、僕には未来がある。金髪の幽霊が言う通り、いずれは生きている人間らしい日々を送ることだって可能だ。現にほんの少し前までは平凡な毎日を過ごしていたのだから。


 朝昼晩に食事をして、昼間は学校や会社へ通って、夜は思い思いにくつろいで。


 当たり前の生活だ。そう思えるのは、僕がまだ生きているから。死んだ人間は、その当たり前を失う。生きていた頃のような生活は、二度とできなくなる。たとえ幽霊になってこの世に留まっても、できることはほんの一握り。生者の暮らしぶりを眺めて、羨ましがって、妬んで、最後には虚しさだけが残って。


 なんて、寂しい存在なんだろう。


 「あのさ」


 シャワーを止めて声をかけてみても、何も反応はなかった。静まり返った浴室に、僕の神妙な声が響く。


 「……ごめん、なさい」


 「何が」


 たずねる声。真後ろから聞こえた。


 反射的に体が飛び上がる。手から離れたシャワーヘッドが床に落ちて騒々しい音を立てた。


 振り向いた先に、金色がある。彼は浴槽のふちに腰かけて僕を見上げていた。


 いつの間に。というか、いつからそこにいたんだろう。


 「質問しただけで、そんなに驚かなくても」


 「ふ、ふざけんな! 入って来るなって言っただろ。出てけよ」


 「別に見られてても支障はないだろ? 俺は幽霊なんだから」


 「幽霊だろうが何だろうが、嫌なものは嫌なんだよ!」


 「じゃあ、隣りの脱衣場にいるから、体洗いながら話そうぜ。ただ黙って待ってるのも退屈だし」


 何か言わない内に、彼は壁をすり抜けて浴室から出て行った。


 せっかち、なのだろうか。わざと、なのだろうか。


 多分、後者だ。彼のことを何一つ知らない僕は直感的に思った。


 「で、今のは何に対しての謝罪だ?」


 扉の向こうから、さっそく話しかけられた。容易に答えられるものなのに、口を開こうと決心するまでに数秒かかったのは何故だろう。


 「……さっき、僕がアンタに言ったことに対しての謝罪。ほら、幽霊よりはましとか何とか言っただろ」


 「憐れなのは俺も同じだ、ってやつ?」


 「そう。……ちょっと言い過ぎたと思う。ごめん」


 「気にすんなよ。そんな小さいことで祟ったり呪ったりしないからさ」


 「ほんとかな。アンタの言うことって、なんか胡散臭い」


 「幽霊になると、小さなことはあまり気にならなくなるもんさ。死、っていう大事を経験したせいなのかもな」


 死ぬのは大事。


 確かにそうだ。僕は知っているはずだ。


 記憶という箱のふたが勝手に開き、思い出したくもない光景をまぶたの裏に再現する。


 雪のように白い、人の肌。

 足の力が抜ける感覚。母親の嗚咽。喪服の黒色。


 すべて消し去りたい記憶。でも決して忘れられない記憶。


 どこまで行っても逃れられない、僕のトラウマ。


 「にしても、胡散臭いはひどくないか。半分は見た目で判断してるだろ」


 苦笑交じりの声で我に返る。髪を洗う手がいつの間にか止まっていた。早く上がらないと、何をされるか分かったものではない。まだ信用できる相手だと決まっていないのだから。


 でも、彼の声で現実へ引き戻された時、不覚にも少しだけ安堵してしまった自分がいたのは紛れもない事実で。


 「俺の第一印象よりも気になるのは、本題の方だ。お前にいくつか質問をしたいんだけど、答える気はあるか」


 「まあ……、いいよ」


 「いじめが始まったのは、いつからだ?」


 「半月くらい前。八月の中旬で、夏休み中」


 「原因に心当たりはあるのか?」


 「ある。多分ね」


 「親や教師に相談は?」


 「してない。する気もないよ」


 「理由は?」


 「……」


 「答えたくない、ってことな」


 余計な心配をかけたくない。または、却っていじめがエスカレートしそうだから話したくない。


 そんな言い訳を思いついたのは、僕が口をつぐみ、男が何かを敏感に察知してからだった。幽霊になると勘の鋭さに磨きがかかるのだろうか。


 「今は答えなくてもいいけど、いずれは教えてもらうぜ。問題を解決するためには必要な情報だから」


 「いずれは……って。アンタ、まだ僕につきまとうつもりなの……?」


 「少なくとも、お前の体に青あざができなくなるまではな」


 ああ、それでか。やたらじろじろ見てくると思ったら、彼は僕の体にできた傷やあざを気にしていたようだ。


 ボディーソープがつくと、毎回のようにどこかしらが痛む。


 今日は左脇腹のあたり。昨日の朝、涼介とつるんでいるやつの一人から蹴られてできた擦り傷にしみた。


 この程度の痛みならまだ耐えられる。

 ずっと一緒に過ごしてきて、どんな秘密でも話せる間柄の幼なじみから急にきつくあたられるようになった時に負った心の傷の方が、何倍も深くて痛かった。


 あまりの苦痛に、この世から逃げ出したくなるほど。


 こんな日々が、あとどれだけ続くんだろう。入浴の度に考えては、憂うつになる。永遠に答えの出ない自問自答。


 自分ばかりに問いかけるのも、飽きた。


 「そもそもアンタ、なんで僕につきまとうの? 何か目的があるんでしょ」


 一か月間、金色を目にする度に浮かんだ疑問。僕はやっとぶつけられる機会を得た。


 「頼み事なら、話くらいは聞いてあげてもいいよ。もし本当に僕の問題を解決してくれたら、アンタの未練を晴らす手伝いをしてやってもいいし。内容にもよるけど」


 「未練……?」


 「だって、死んだのにまだこの世界に留まってるってことは、何かやり残したことがあるからでしょ」


 「やり残したこと、か……」


 話し声が止む。僕が体を洗い終えてシャワーを定位置へ戻す瞬間まで、脱衣場は静まり返っていた。


 「よく分からないな」


 「たくさんあり過ぎて分からないってこと?」


 「いや違う。おぼえてないというか、思い出せないというか」


 アクリル板を通して確認できる影。ぼんやりとかすんでいて、霧の中に立っている人物を見つめているような感覚だ。その人の顔はよく見えない。人間なのかそうではないのか、正体さえつかめない。お互いに近づこうとはしないけれど、どこか自分と境遇が似ている相手を警戒しつつも認めている。そんな距離感が僕らの間にはあった。


 いつかは、ぼやけていただけだった輪郭も、消えてなくなる時がくるのだろう。きっと、そう遠くない未来に。


 「こんなこと言っても、お前は信じないだろうな」


 「信じるかどうかは僕が決めることだ」


 「お前さ、可愛くない子供だって大人から言われない?」


 「言われたことは、あったかも」


 「やっぱりな」


 薄く扉を開けてみると、金髪の男が洗濯機の上であぐらをかいて笑っていた。僕以外の、余計なものが見えないはずの人がもし見かけたら、間違いなく唖然とする光景だろう。だけど、僕にとってはため息一つで興味を失うくらい面白みもないものだ。


 睨みつけてやると、彼は意図を汲み取ったらしく「はいはい」などと呟きながら脱衣場を出て行こうとした。いかにも渋々といった態度が、ちょっとムカつく。


 「俺さ、記憶喪失なんだ」


 壁の向こうへ消えていく最中、ほんの一瞬だけ、青い瞳が僕を捉えた。


 視線は僕に問うていた。さあ、俺を信じられるか。それとも、とことん疑うか。そんな具合に。

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