第二話 ストーカー幽霊


 全身水浸しの制服を身に着けて地下鉄に乗るのは、やっぱりまずかったようだ。同じ車両に乗っている客の半数くらいが、数秒おきにこちらへ視線を送ってくる。僕が思い描いているのとは別の意味で、嫌な注目を浴びる羽目になってしまった。


 周囲の反応も気になるが、それ以上に僕の神経をすり減らしているのが、とある男の存在だった。


 今日もいる。


 ちらりと、隣りの車両との連結部分に佇んでいる人影の様子をうかがいため息をつく。席はたくさん空いている。そんな時、生身の人間なら、絶対に身を置かないような場所に突っ立っている男。


 彼も、生者ではないのだ。


 そんなことはとうに知っている。最初から、彼は僕にしか見えていなかった。


 幽霊の男は、若い見た目をしていた。僕よりも年上で、二十代の前半か半ばあたりのようだ。百八十センチくらいの長身で、白いTシャツと黒いレザーの革ジャン、黄土色のズボンを細身にまとっている。切れ長の目。瞳の色は、カラーコンタクトでも入れたまま亡くなったのか、深い青色をしていた。


 そこそこハンサムで、生きていた時は異性から好意的な眼差しをたくさん向けられたに違いないと察する。


 顔立ちよりも目を惹くのが、彼の髪色だ。


 夕日を浴びた稲穂のような金色。こちらも、生きて生活していた当時に染められたままらしい。ただ、僕には微かに透けて見える金髪の方が、光を通してより輝いているように思えた。


 一か月前、図書館で初めて彼を見かけた時、真っ先に目が捉えた色。


 数えきれないほどこの世ならざるものとすれ違ってきたけれど、金髪の幽霊なんてお目にかかったことはなかった。物珍しさから、一度は見て見ぬふりをした存在へ自分から意識を向けてみようという気になった。顔を上げた時には、まさに幽霊らしく姿かたちが消えてなくなっていたわけだが。


 その一瞬の邂逅を境に、度々、何者かの視線と気配を感じるようになった。


 ある日は登校中、駅の改札で。またある日は学校の授業中に。別の日には図書館のエントランスで例の金髪を見かけた。休みの日、ファストフード店で食事をしている時に視線を感じて見てみると、やっぱり同じ人物が店内の隅の席に座ってこちらを眺めていた。気だるそうに頬杖をついている様は、幽霊なのに人間味があった。


 他にも行く先々で金髪青年の幽霊を見かけた。その都度、僕がとれたのは逃げまわるという方法だけだった。


 多い時は毎日、まるでその存在を忘れさせまいとしているみたいにしつこく、彼は現れた。ストーカーのごとくつきまとうくせに、何故かいつも少し遠くからこちらを見つめているだけで、他の幽霊たちみたいに声をかけてきたり驚かしてきたりなど、過度にアピールをしようとはしなかった。


 離れた場所から、ただ見ているだけ。大人しい、と言えば聞こえはいいものの、これまで出会ってきた幽霊たちとは間違いなく異なるタイプで、僕は戸惑いをおぼえた。


 地下鉄を降り、地上に出て家路を歩く。乗客たちの視線からは解放されたものの、背後に気配を感じる。いつもの気配。何か言いたそうだけど何も物語ろうとしない視線も、いつもと同じ。


 用があるなら、黙って見ていないで話しかけたらどうなんだ。


 たとえ相手が生きている人間であったとしても、顔を合わせる度に物言いたげな視線だけ寄越してくるだなんて、気味が悪い。トラブルでも起こして恨まれているのならまだしも、僕は一か月前まで金髪青年とは面識がなかったのだ。


 つまり、ストーキングされる理由が僕には何一つ思い当たらない。


 いや、理由になるとすれば、僕が彼を認識できていること……そのものではないだろうか。


 何にせよ、何処へ行こうとも問答無用でついて来られるのは困る。気になるし、妙にまっすぐな視線で見つめられると落ち着かない。今だって一定の距離は保たれているものの、常に身体は緊張感に支配されていて少しも気が抜けない。このままでは、家に着く前に疲れ果ててしまう。


 「……あの」


 どうにかしたいという気持ちと、理不尽につきまとわれることに対する怒り。両方がぜになって、行動を起こさせる原動力となった。歩いているのが閑静な住宅街で、通行人もいなくて助かった。普段なら充分すぎるくらい周りの目を気にするのに、この時の僕には注意力が欠けていた。一刻も早く緊張から解放されたくて仕方がなかったのだ。


 「ストーカーみたいにつきまとったりして、何がしたいんですか」


 立ち止まって振り返ると、数メートル先にいる金髪の幽霊も動きを止めた。相手は年上らしいから、一応は敬語を用いて話しかけてみる。


 「僕があなたを見ることができるから、つきまとってくるんですよね? 悪いけど、どんな頼みごとをされても僕は引き受ける気はありません」


 幽霊がどうして僕に近づいてくるのか。


 答えは簡単。自分の欲望を満たすためだ。


 構って欲しい。話し相手になって欲しい。成仏させて欲しい。


 透明な彼らにつかまる度、様々な要求をされた。今すぐ死んで仲間になってくれ、または君の体を幽霊である自分によこせ、なんて言ってくる輩もいた。もちろん、どの頼みも願い下げだった。叶えてあげられそうな内容のものもいくつかあったけれど、断った。


 僕は神様じゃない。非力な人間だ。できることの方が圧倒的に少ない。力になれなくて申し訳ない。毎回、そんな文句を伝えてから逃げ出した。


 今まではその方法でなんとか切り抜けられたのだ。


 だから、今回も同じようなことを言って金髪の幽霊に分かってもらおうとした。


 「あなたたちみたいな存在にも色々と願望はあると思います。でも、僕はただの子供です。幽霊が見えてしまうだけで、大した力は持っていないんです。あなたのためにできることは、何もないと」


 「いじめっ子も遅刻を気にするんだな」


 「……は」


 急に話を遮られ、おかしな声が出てしまった。というか、相手が初めて口を利いたから面食らった。


 疑問符が浮かんだのは驚いた後だった。言葉の意味が理解できない。


 「さっきお前をいじめてたやつらのことだ。いや、いつもお前をいじめてるやつら……って言った方が正確か」


 「なっ、なんで。どうしてそのことを」


 まるでその光景を何度も見ているかのような口振り。でも、いじめを受けている最中に彼の姿を見かけたり気配を感じたことは、どういう訳か一度もない。


 それなのに。


 「見てたからに決まってるだろ。お前に気がつかれないように、遠くから。俺、視力だけはいいんだ。もちろん生きてた時からな」


 「遠くからって……」


 何故わざわざ距離を取る必要があるのか。意味不明だ。


 「見物人は、少ない方がいいだろ。ああいうのは他人に目撃されるだけでもメンタルが削られるもんだし。見ているのが生きてるやつにしろ、死んでるやつにしろ。まあ、あの女子高校生は仕方ないよな。あのはあそこから動けないみたいだし」


 「……」


 女子高校生の幽霊、彼女のことまで知っている。


 彼は本当に見ていたのかもしれない。離れた場所から、何食わぬ顔で。


 自分には関係ないと高を括り、笑みさえ浮かべながら。


 高みの見物。クラスメイトの連中と同類だ。


 吐き気がする。


 「考えてみると、地縛霊ってのもなかなかきついよな。自分が息絶えた場所にずっと留まり続けるしかないなんて。その点、俺ら浮遊霊は気ままで」


 「何が言いたいんだよ、アンタ」


 もう敬語なんて使ってやるものか。相手が年上だろうが、敬う気持ちなんて本当はこれっぼっちも持っていないんだから。礼儀正しく接して、丁重に断って、ストーキングをやめてもらうだけ。その目的のために大人ぶり、物分かりがいいように見せかけていただけなのだ。


 が、見せかけだとしても、僕はこの金髪男――こいつに礼儀正しい姿勢を見せてやるのが馬鹿馬鹿しくなった。


 僕を標的としたいじめの見物人となんて、これ以上話していたくもない。


 「憐れに思ってるつもり? 僕と、あの女子高校生の幽霊を。憐れなのはアンタも同じじゃないか。だって死んでるんだから。生きてた時に普通にできてたことが、何もできないんだからさ。まだ生きてる僕の方が、アンタら幽霊よりましじゃないか。無視されても、クラスで浮いていても、本当に誰にも見えなくて誰からも相手にされないよりはましだよ」


 「毎日、死にたいと思いながら生きているのにか?」


 全身が強張って、動けなくなる。


 見抜かれた。生まれ持った平凡な色に二度と戻ることはない、青い瞳に。


 「幽霊よりましな生き方してるって、本当に思えてんのか? 心の底から笑うこともできてないのに」


 「それは……」


 「あの女子高校生の幽霊は、お前と話してる時、いつも笑ってるぜ。そして今のお前は幽霊よりも表情がとぼしくなってる。まるであの娘が生きてて、お前の方が死んでるみたいだ」


 「……」


 返す言葉が、見当たらない。否定する気力も、もうない。


 彼の言う通りだ。


 この世界から消えてしまいたい。何十回、何百回、思っただろう。数えるのが億劫になるくらい繰り返し思い浮かべた言葉だった。自分がいなくなった後の光景を想像し、我に返ってぞっとする。これも何度かやった。


 暗い? しょうがないだろ。誰からも必要とされず疎まれてばかりの僕には、こんなことしか真剣に考えられないんだから。


 「生きた人間に戻してやろうか?」


 「……え?」


 また訳が分からないことを口にした男を見上げる。


 金色が、眩しく思えた。長々と続く梅雨時期に、暗雲の隙間から気まぐれに顔をのぞかせた太陽みたいに。


 「お前が心に抱えてる闇、俺が晴らしてやるよ」


 この時、久し振りに屈託のない笑顔というものを目にした。


 僕が抱えている重荷を、その人は軽そうに、いとも容易く持ち上げて、どこか遠くへ放り投げようとしていた。

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