第四話 What's your name?


 「色気のない部屋だな」


 ぐるりと室内を見まわして一言、彼は感想を述べた。別に案内した訳じゃなく、僕の後を勝手について来ただけだ。


 「中学生男子の部屋に色気なんて求める方が、どうかしてると思うよ」

 「ただの冗談だって」


 金髪の幽霊は、主の許可も得ずに部屋の中を物色し始めた。注意が逸れているこの隙にと、僕は素早くクローゼットから服を取り出す。入浴しているところを幽霊に見られるなんていう失態は、もう二度としたくない。そもそも簡単に予測できたことなのに、気がつかなかった自分が情けない。出会って間もない、しかも見るからに自由奔放そうなこの男幽霊が、僕みたいな子供に従う方がおかしいのだ。


 服を着終え、油断ならない相手の動向を窺う。


 彼は部屋の奥にある二段ベッドの上段を見上げていた。へえ、と何やら興味深そうに呟いている。


 「これがあるってことは、お前には兄弟がいるんだな」


 「……、まあね」


 「いや、と言った方が正しいのか」


 訂正された言葉の前に立ち尽くす。うなずかなくても、この人はもう確信しているに違いない。


 察しが良すぎる。ほんの一瞬、答えるのをためらっただけなのに。


 これが生きている人間と、そうではない者の技量の差、なのか?


 「どうして分かるの。アンタ、生きてた時は探偵でもやってたの?」


 「探偵? 俺が? そんなまさか」


 的を射たつもりが、一笑に付されてしまった。あり得もしない、という言い方が気に食わず僕は眉間にしわを寄せる。


 「じゃあ、何の仕事に就いてたの?」


 「何だと思う? お兄さんからのクイズだ。当ててみろ。」


 「……、ホスト、詐欺師、遊び人……のどれか?」


 「さっき言った通り、俺は記憶喪失だ。だから正解は知らない」


 「きっと結婚詐欺師が正解だと思う。そうでしょ」


 「おい。人の話を聞け」


 クイズを出題してきた時点で、からかわれていることには気づいていた。彼の本職なんてどうでもいいけれど、子供だからと軽く見られるのだけは癪だ。


 「記憶がないっていうけれど、それが嘘じゃないっていう証拠はあるの?」


 この世界では、ことを証明するよりもことを証明する場合の方が圧倒的に難しい。悪魔の証明と呼ばれるものだ。


 もし、この人が本当は記憶喪失になっていなかったとする。自分が生きていた時に経験した出来事をすべておぼえていて、僕には何故か嘘をついている。それなら誘導尋問でもすれば、すぐにボロが出るだろう。だけど彼の言い分が本当だと仮定するなら、事態は一気に面倒くさくなる。どんな質問をしてもおぼえていないことに対しては「分からない」という答えしか返って来ない。それが永遠と続く。


 埒が明かない。少し想像しただけで、頭が痛くなってきそうだ。いっそ騙されているのだと理解した上で接する方が楽だ。


 「というか、どの辺りまで忘れてるの? まさか自分の名前まで思い出せない、なんてことはないよね」


 「えっ」


 ベッドに備え付けられたはしごを上っている途中で、戸惑ったように金色が揺れた。丸くなった青い瞳が、僕を見下ろしている。ラムネに入っているビー玉みたいで、思わず手を伸ばしたくなる。


 この反応は予想していなかった。さっきみたいに、軽く笑い飛ばすだろうと思っていたのに。


 「あー……、うん。そのまさか、だったりして」


 「本当に? 名字も、下の名前も、おぼえてないの?」


 「一文字も、記憶にない」


 何度か、記憶を失くして帰る家が分からなくなってしまった人の情報を募る番組を見たことがある。まれに、彼が訴えるような重い症状を抱えている例もあって、当事者の様子を初めてテレビで見た時は現実でこんなことが起こるなんて、と驚いた。記憶喪失という言葉は知っていたけど、ドラマや小説――言うならばフィクションの世界でしか起こり得ないものだと思っていたから。


 テレビで初めて記憶を失った人間を目の当たりにした当時と、同じくらいの驚きが僕の中に広がっていく。相手が生きていても死んでいても、驚きの度合いに大きな違いはなかった。


 幽霊の言うことを簡単に信用してはいけない。


 痛いくらいに理解している。だけど頭で理解はしていても、男が嘘をついているとも思えなかった。


 ただ単に僕が信じたかっただけかもしれない。しばらく、誰かを疑ってばかりな毎日だったから。


 「そう。じゃあ、アンタをどう呼んだらいいのか分からないね」


 素っ気なく言い放つ。僕はあなたを信じている訳でも、疑ってかかっている訳でもない。それを態度で示したつもりだった。表面上は、彼の話を受け入れて接する。あくまで僕は大人ぶる。


 はしごの上から笑みが向けられた。心底、意外そうで、でもこの状況を楽しんでいる笑み。


 「好きなように呼んでくれて構わないぜ。さっきお前が言った職業の名称で呼ばれるのは、どれもごめんだけど」


 「じゃあ、ポチでいい?」


 「俺を犬みたいにこき使う気かよ……」


 「ただの冗談だよ」


 「……もっと真面目に考えろ」


 彼の調子を真似て言う。僕をからかったお返しだ。多少は相手を動揺させられたのか、ため息とともに発せられた声からは力が抜けていた。してやったり。


 こんな小さなことで優越感を感じる僕は、まだまだ子供ということか。


 自分の年齢を改めて自覚したところで、言われた通り――にするのはやっぱり癪だけど、に本腰を入れることにする。どうやらこの幽霊は、まだしばらく僕のまわりから離れないようだし、何か迷惑をこうむった時に文句を言うためにも名前は必要だ。


 どんなものがいいだろう。


 幼稚園児だった頃、田舎にある祖父の家へ遊びに行った時のことを思い出す。祖父がよその家から引き取ってきた子犬に僕が名前を付けることになったのだ。生まれて間もない生き物の名付け親になる、それは幼い僕にとっては一大イベントだった。みんなから可愛がられるような名前にしなくてはいけない、と子供ながらに責任を感じていたと思う。


 祖父の大きな手に抱えられて眠そうな子犬の顔を覗き込みながら、考えて。


 最終的に、子犬には「ごましお」という名前を付けた。白い毛並みの犬で、鼻の下に黒くて小さな斑点がいくつもある様子が、ごま塩をかけたご飯とよく似ていたからだ。今考えたら安直すぎるけれど、当時の僕は子犬を懸命に観察してその名前にしたんだろう。


 観察。見た目。特徴。


 頭上にいる彼を見上げる。目が合うと、動揺するどころかじっと見つめ返してきた。度胸のある人だ。子供が相手だから、得意になっているだけか。


 「人にはじろじろ見るなって言っといて、自分はお構いなしかよ」


 「うるさい、ちょっと黙ってて」


 上段のベッドに頬杖をついて見下ろしてくる男。気だるそうに細められた青い瞳よりも目を惹くのは、やっぱり。


 金。今の僕とはかけ離れた色。


 なのに何故か、懐かしい色。


 「……コガネ」


 「は?」


 「アンタのこと、今からコガネって呼ぶことにする」


 「由来は? 小金しか持ってなさそうだから?」


 「そっちのコガネじゃなくて、黄金色のコガネ」


 「ほぉ……?」


 説明しても、本人は何のことかよく分かっていないらしく、首をかしげている。僕は勉強机からノートを持ってきて、ページの空きスペースに「黄金」と書いた。


 「これで、ともとも読むんだよ。まあ、アンタの髪の色をそのまま呼び名にしたってだけ、なんだけど」


 「俺の髪の色か」


 「うん。ちょっと綺麗、……じゃなくて、印象に残るから」


 つまらない。捻りがないな。そんな感想が降ってくると思っていた。今も外で降り続いている雨みたいに、冷たく。


 だから「いいぜ、それで」という二つ返事が聞こえた時、僕は反射的に二段ベッドを見上げた。でも声の主はそこにいなかった。後ろに気配。振り向いた先、目の前に人間の人差し指があって思わず仰け反る。一見しただけでは生身の人間の指と変わらないけれど、よく見たらやっぱり透けていた。


 「しばらく、俺の名前はコガネな。で、お前の名前は?」


 「……僕? 日高真汐、だけど」


 「真汐、か」


 どうしてだろう。呟くように名前を呼ばれた時、背筋に心地いいピリッとした感覚があったような。


 きっと、特別な意味も理由もなく名前を呼ばれるのは、これが初めてだったせいだ。


 「ちなみに、漢字ではどう書くんだ?」


 漢字二文字をノートに書いてみせると、コガネは「ほうほう」とうなずいた。大して感心してもいないんだろうな、ということが何となく分かる。


 「もう一つちなみに言うと、名字は日高山脈の日高」


 「ああ、北海道の真ん中あたりにある山か」


 「……記憶がないくせに、そういうのはおぼえてるんだ」


 「一般常識だからな」


 「そう……かなぁ」


 本州で暮らしている人には馴染みのない山脈のような。


 コガネは自らを浮遊霊だと言っていたけれど、生きていた時は北海道で生活していたのかもしれない。案外、そう離れていない土地で僕たちはお互いを知らずに暮らしていて、肉体を失って身軽になった彼がこの街に流れ着いて、たまたま出会ったのが僕だった。奇妙な出会い、その始まりの舞台である図書館は、コガネが生前によく訪れていた場所だったりして。


 そんなシナリオを漠然と思い描いていく頭を振る。あまりに都合の良すぎる解釈だ。僕はいつの間にこんなにロマンチストになったんだろう。


 嘆息し、想像を振り払う。


 この幽霊の過去よりも他に考えるべきことがある。半月もの間、僕を悩ませている難問と真正面から対峙する時が来たのだ。


 「さっき、僕を生き返らせる……とかなんとか言ってたけど、それってどういう意味。何するの?」


 「何って、いじめをやめさせるに決まってんだろ」


 「どうやって?」


 「それはこれから考える。まずは、心当たりがあるっていう原因について聞かせて欲しいんだが」


 「……」


 誰にも言えないこと、言いたくないこと。


 心の中にある、それらを一まとめにした部屋。扉に付けられたカギは、僕にしか開けられない。目を背けて、カギを何処か遠くへ放り投げて、それこそ死ぬまで固く閉ざしておきたい、開かずの間。よっぽどのことがない限りは、近づきたくも触れたくもない場所。


 今がその、よっぽど……なのだろうか。出会ってばかりの赤の他人――しかも幽霊に本当のことを話してしまってもいいのだろうか。


 いや、違う。赤の他人だから、知らない相手にだからこそ気楽に話せる。


 どうせ長く続く付き合いでもない。それにコガネはもう故人で、幽霊。僕にしか認識できない存在だ。たとえ僕のどんな秘密を知ったとしても、それが他の生者に伝わる訳でもない。死人に口なし、とはこういうことか。


 もっとも、僕はおしゃべりな死人の方を多く見てきているけど。


 「……いいよ。でも、話すからにはちゃんと解決してよね」


 「おいおい。解決するのはあくまでお前だぜ。俺は助力してやるってだけ」


 「幽霊に何ができるのか疑問だけど」


 「こういうのは、できるぞ」


 コガネは机に近づいて、手で何かを真上へ投げるような仕草をした。


 すると、机上に置いてあったプリントが宙を舞った。紙は四方に飛んで、はらはらと床に落ちた。


 「生きてる人間にはともかく、物には触れる時もあるんだ。オカルトやホラーでよく出てくる、ポルターガイストってやつだな」


 「そんなの知ってるよ。小さい時、知らないおじさんの幽霊とよくボール遊びしてたし」


 「へぇ。真汐の能力は生まれつきなのか。それじゃあ、幽霊を見てもいちいち怖いと思わないだろうな」


 「幽霊より生きてる人間の方が怖いよ」


 「うん、お前が言うとすげぇ説得力あるわ」


 生きている人間の怖い一面を、僕は今から幽霊へ語る。何だか滑稽だ。多くの生者が恐れる存在へ、恐ろしい話をするだなんて。


 「きっかけは、些細な好奇心だったと思う」


 落ちたプリントを拾い集めながら切り出す。


 そう、本当に些細なこと。僕らくらいの子供なら口にしない方が不自然な話題によって、何かが変わってしまったんだ。

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