第五話 波紋


 八月のある猛暑日。僕は涼介を家に呼んで、一緒に夏休みの宿題をしていた。


 窓を開けていても、扇風機をまわしていても汗が噴き出てくるお昼過ぎ。暑さに耐えかねた涼介がプールに行くことを提案した。


 「宿題はどうすんの。夏休みが終わるまであと三日だよ?」


 「平気平気。三日あれば楽勝だって」


 涼介の宿題はまだ手付かずな部分が多かったけれど、僕も部屋の暑さにはうんざりしていたから、すぐにプールの誘惑に負けた。


 お互いに必要なものを用意して、バス停で待ち合わせることになった。涼介の家は、僕の家から目と鼻の先にある。いわゆる、ご近所さんだ。近所に住んでいて、たまたま同い年だったから仲良くなった。幼馴染という関係は、そんな偶然から始まるものなのだろう。


 中学生の少ないお小遣いでも利用できる施設は限られる。行き先を話し合うまでもなく、二人の足はごく自然に市営プールへ向かった。料金が安いこともあって、夏が来る度におとずれているので僕たちにはすっかりお馴染みの施設だ。ロッカールームの場所なんて、目をつぶっても辿り着けるだろう。


 「水着、新しいのにしたんだー」


 隣りのロッカーから涼介の声がする。見ると、新調したらしい海パンを僕の方へ掲げていた。その動作と弾んだ声は、新しく買ったワンピースを友達に見せびらかして自慢する女の子を連想させた。


 「あれ。こないだも新しいやつ買ったって言ってなかった?」


 「それがさ……、聞いてくれよ。先週、公太こうたたちと海まで遊びに行ったって話、バスでしただろ? その時に不幸が起こってさ」


 「不幸?」


 「流されたんだよ、海に。俺の海パン」


 「なっ、なんで」


 詳しい理由を聞かないうちから僕は笑っていた。頭の中で、顔色を青くした涼介が肩まで海水に浸かっている様子を思い描いた。夕方になっても、まだ帰りたくないと駄々をこねる子供がいるけれど、涼介もその子たちに負けじと海から上がろうとしなかったかもしれない……なんて考え始めると、可笑しくて仕方なかった。


 「いやぁ、あれって意外と簡単に脱げるもんなんだな。気づいたらなくなってた。母ちゃんがサイズ間違って買ってきて、ちょっと大きいのに無理して履いてたら案の定……ってやつ。ないって分かった時、焦ったわ」


 「それ、その後どうなったの」


 「どうなったと思う?」


 「漂着したわかめを、海パンの代わりにした……とか」


 「さすがにそれはねぇよ」


 僕の冗談で涼介も笑った。快活で、見ているこっちも清々しくなる笑顔。ずっと隣りで見てきた、馴染みのある表情。まぶたの裏に思い描くだけで明るい気持ちにさせてくれる。


 水着に着替えてからも、しばらくロッカールームで駄弁っていた。涼介と話していると楽しくて、時間の感覚が曖昧になる。


 心地いい。まだ水に触ってもいないのに、僕はそんな気分になっていた。


 いっそ水場まで行かずに、ずっとこうしていたっていい。涼を求めてやって来た人たちでごった返している場所で配慮しながら泳ぐより、人気ひとけの少ないロッカールームで親友と雑談する時間の方が僕にとっては有意義だから。


 幼馴染が、笑い話をしながら心の中ではこんなことを考えているだなんて、彼には予想もつかないだろう。僕は会話を心の底から楽しみつつも、どうにかしてこのひと時を永遠のものにできないかと実現不可能なことで真剣に悩んでいた。全身が熱を持っているのに、頭の中だけは扇風機の風でもあたっているみたいに冷めていた。


 僕が永遠にしたいと願った時間は、たった数分のうちに終わりを告げた。「プールに来たのに、これじゃ意味ねぇじゃん」苦笑してロッカールームを出て行こうとする涼介を、黙って追いかけるしかなかった。


 予想した通り――というかいつもそうだけど――プールは人であふれていた。夏休み中だから、大人よりも子供の姿が目立つ。中でもちびっこが多い、と思ったらちょうど水泳教室の授業中だったようだ。


 泳ぎの練習をする小学生たちの邪魔にならないように気をつけながら、僕たちも泳いだ。


 涼介は泳ぐのが上手い。初心者の僕を置いて、どんどん先へ行ってしまう。泳ぐスピードも速くて、ついて行こうと必死に水をかいても追いつけない。涼介と一緒に泳ぐ度、ほくろがある白い背中をつかまえようと奮闘する。そうして泳ぎ続けて、すぐに疲れ果てる。プールサイドまで這い出て休んでいる僕に気がついた涼介が、きれいなクロールで向こう側から泳いでくる。この時、大抵「もうへばったのかよ」なんて僕を見上げて茶化してくる。それから二人で肩を並べて、ちょっと休憩。プールへ来ると、毎回こんな感じで過ごした。時間割でもあるみたいに、いつも同じ流れが繰り返された。


 「今日こそ追いつけると思ったんだけどな」


 「水泳部員に本気で追いつこうとするお前の根性は認めてやろう」


 「それはどうも。素人の僕と泳いでも張り合いないし、次は同じ水泳部の女子でも誘ってみたら? 涼介にしてみたらその方が楽しいでしょ」


 「確かに張り合いはないけど、真汐と泳いでる時、俺はいつも楽しんでるぞ。頑張って俺についてこようとするお前を見てると初心に帰れるし。あと、少しずつ泳ぎが上達してくのを見るのが楽しみなんだ」


 「上達……してる、かなぁ」


 「してるしてる。何なら、手っ取り早く上達するように俺が教えようか?」


 「遠慮しとく。今日はもう疲れた」


 涼介が泳ぎを教えたがるのも、いつものことだ。適当な言い訳を見つけて僕が断ると、決まって残念そうにする。水泳部は部員が少なく、一年生は二人しかいない。部長である涼介は指導力を持て余していて、泳ぐ時のフォームとか速く泳ぐコツとかを、部の後輩の代わりに僕へ伝授したいらしい。


 教わりたいのはやまやまだけれど、断る以外の選択肢が僕にはない。こうして隣り同士でいるだけで限界なのに、もっと接近して、お互いの肌が触れ合うかもしれない……なんていう状況、想像しただけで身動きが取れなくなりそうだ。


 そもそも、涼介の提案に乗るべきではなかった。あとで困ることになるかもしれないって、どうして思いつかなかったんだろう。自分の気持ちにはとっくに気がついていたはずなのに。


 流されやすい性格は、自覚も予兆もなく災いを招いてしまうのだと、その日僕は理解した。


 「真汐ってさ、好きなやついんの?」


 「……え」


 何気ない口調だった。あたかも、たった今思いついて何となく口にしたような。でもそうじゃなくて、プールに来る前から用意されていた話題らしかった。そのことを僕は間もなく察してしまう。


 「気になる女子の一人や二人、いるよな。お前のクラス、可愛い子多いし」


 「……」


 「お。黙り込むってことは、いるんだな」


 「ち、違うよ。今のは、僕のクラスってそんなに可愛い子たくさんいたかなって、考えてただけで」


 「いるだろ。真汐の隣りの席の子とかさ。えっと……、深沢さん、だっけ」


 思い出そうとする仕草が、嘘っぽく見えた。多分、涼介はわざと深沢という名字を忘れていたように振る舞っている。普段はろくに働かない勘が、この時は不思議と仕事をした。


 「ああ、深沢さんか。席隣りだからか、よく話しはするけど」


 涼介の態度に疑問を感じつつも、僕は無難な言葉を無難な箇所で切った。


 深沢さんとは、毎日何かしら会話を交わしていた。国語の授業で使われた小説の話とか、前日に見たテレビの話なんかを休み時間にしている。おっとりとした温厚な性格の持ち主で、通学路にいる女子高校生の幽霊と同じくよく笑う女の子だ。


 どうして今、深沢さんの名前が出てきたんだろう。


 熟考するまでもなく、すぐに一つの予想が浮かんだ。事実かどうかも分からないのに、それは冷たい水のように僕の中に広がって、みるみる内に支配してきた。


 涼介が好きなのは、深沢さんなんだ。


 「……でも違うよ? 僕は深沢さんのこと、何とも思ってない」


 早口気味で言ったのが悪かったのかもしれない。涼介の目が細められた。何かを疑って探ろうとする目つきだ。


 「そうかな。深沢さんと話してる時のお前、いつもすごく楽しそうだけど」


 「楽しいけど……、それは涼介といる時も同じだし。会話に深い意味はないよ」


 「……ふーん」


 気のない返事。きっと僕のことを信じてない。


 何とかして誤解を解くべきだ。いや、下手に言及しない方がいいかもしれない。話題を変えよう。


 「そういえば、さっき泳いでた時にぶつかりそうになった男の子がいたんだけど」


 「俺さ、頼まれてるんだよね。深沢さんから」


 遮るように発せられた声は、何処か自嘲気味だった。


 反射的に、膝に置いていた両手を握る。

 怖い。その先は聞きたくない。なのに、即座に「何を」とたずねる間抜けな自分。せめて問いかけた後に涼介の答えを聞かなければよかった。プールに飛び込んで、派手な水音を立てればごまかせたのに。


 「真汐から、好きな女の子のタイプを聞き出して欲しいって。あと今、好きな人はいるのかどうか。深沢さん、お前のことが気になってるみたいだぜ」


 涼介は笑顔だった。でも、いつもの笑顔とは全然、違う。屈託がなくて、優しい、僕が知っている涼介の笑顔じゃない。笑みの奥には色々な思惑が隠されている。疑念、好奇心、嫉妬。それから敵意。間違いなく、それらすべては僕に向けられたものだ。


 「いつ、そんな頼み事されたの」


 「は? そんなのどうだっていいだろ。なあ真汐、ここは幼馴染の面子のためにも正直に答えてくれ。好きなやつ、いるのか?」


 「……。……いる、けど」


 愚かで浅はかなことをしてしまったと、すぐに気がついた。あとでいくら「嘘つき」と罵られようとも、この時だけは嘘をつくべきだった。涼介の言いなりになるべきではなかったんだ。


 「誰? どんな子?」


 「そ、それは……、言いたくない」


 「なんでだよ。俺とお前の仲でも、言えない相手なのか」


 言えないよ。

 だって、その人には好きな相手がいるって、たった今知ってしまったんだから。


 涼介が深沢さんを意識していることには、少し前から気がついていた。彼は昼休みによく僕のクラスに顔を出す。そして他愛もないおしゃべりをして別れる。ある時、ふいに深沢さんが僕たちの会話に参加してきたことがあった。どんな話題だったかは忘れてしまったけれど、その日を境に休み時間に三人で話す機会が増えた。


 やがて、涼介が何気ないふうを装って深沢さんを盗み見ていることに気がついた。初めは偶然かとも思ったけれど、回数を重ねるうちにそうじゃないと分かった。涼介は、僕がたとえ話や冗談で場を和ませている時、ちゃんと僕に茶々を入れてくれながらも、いつも視線は笑う深沢さんの方へ向けていた。二人だけの時に深沢さんについての話題を持ち出すことはなかったけれど、涼介が彼女に対して好意的なのは間違いなかった。


 僕は、深沢さんが僕をどう思っているかなんて考えようともしなかった。彼女のことはただの友達の一人としてしか見ていなくて、向こうもその程度の認識だろうと信じて疑わなかった。


 深沢さんがいくら可愛くても、僕には好きな人がいて、その人以外のものは眼中になかったから。


 今だって、視界も頭の中も好きな人の姿でいっぱいだ。


 幸せな気分、とは言い難いこの状況が恨めしい。


 「せめて相手はどんな子なのかくらい、教えてくれてもいいんじゃねぇの」


 「どんな子って言われても……。そんなこと聞いて、どうするの」


 「別にどうもしない。真汐が誰を好きでも、俺には関係ないしな」


 「なら、僕だって話す必要はないよね」


 沈黙がおとずれたのは僕たち二人の間だけで、まわりの騒がしさは変わらなかった。でも、子供たちがはしゃぐ声は、黙り込んでいるとなおさら耳障りに感じられた。


 先に口を開いたのは、涼介だった。


 「分かった。それがお前の答えってことでいいんだな。本当はどうであれ」


 「どういう意味?」


 「隠そうとするってことは、やましい理由でもあるんだろ。幼馴染の頼みすら聞き入れられない理由がさ」


 「それは、だって……幼馴染にも言いたくないことはあるだろ。涼介だって、同じじゃないか」


 「一緒にすんなよ。俺はお前とは違う。だから正直に言う、俺は深沢さんが好きだって」


 視線は天井に向けられていたけれど、声はまっすぐで真剣なものだった。


 ああ、やっぱり。知ってはいたよ。でも、改めてちゃんと言葉にされると、たまらなく苦しい。


 この世界から消えてしまいたいと、僕が初めて感じたのはこの時だ。


 「お前の好きな相手も、深沢さんなんじゃねぇの」


 「……」


 何も答えなかった。何かを答える気力を失くしていた。こんな状況下では、たった一つの何気ない言動ですべてが台なしになる。溝は簡単に深まる。違う、と言わなかったのは、何を言ってもこの誤解が解ける見込みはないと頭の何処かで感じ取っていたから。


 いっそ、わざとうなずいてみようか。


 自暴自棄になってそんな考えすら過った。それでもやらずに終えた理由は、必要のない嘘をつきたくなかったからだ。涼介に、大好きな人に対してだけは、正直でありたい。


 否定ならば、さっきちゃんとした。だからもう返す言葉はない。


 「……もういいや。深沢さんには、聞いたけど教えてもらえなかったって言う。そうすれば、まだ望みはあるって思えるだろうから。俺はさ、なるべく今の状態を保っていたいんだ。お前と会うのを口実にして、深沢さんと話せるし」


 隣りで涼介が立ち上がる気配がする。僕もそれにならおうと体を起こしかけた時「けどな」という低い声が降ってきた。


 「もしお前が嘘をついてるんだとしたら、俺は絶対に許さない。覚悟してろよ」


 冷ややかに言い放って、涼介は一人でロッカールームの方へ歩いて行く。


 彼の背中が遠ざかる。僕が何年も追いかけ続けた黒い点が滲んで、二つか三つに増えたように見えた。プールの冷水とは違う、生ぬるい水が頬を伝っていく。


 泣いているのは、涼介に好きな女の子がいたからじゃない。


 ずっと近くにいて、一番に分かり合えていると思っていた人に、信じてもらえなかった。そのことが途方もなく、哀しかった。

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