第六話 臆病者
「――で、次の日から僕は涼介に無視されるようになった」
夏休み中にプールで起きた出来事を、僕はコガネに話した。ロッカールームで僕が感じていたことや、立ち去る冷たい背中を見送りながら泣いたことは、もちろん省略して。
好きな人のそばにいられて幸せだと思えた時間が一瞬で、しかも最悪の形で終わってしまったあの日から、まだ一か月も経っていない。当時はあの後ろ姿を思い出す度にしんどくなったものだけど、つらかった体験を他人へ話すだけでも心は軽くなるらしい。そのせいか、今の僕はあの時の哀しみが嘘のように落ち着いていた。不思議なことに、ため息一つすら出そうもない。
そこを気に入りでもしたのか、コガネは再び二段ベッドの上段へ腰かけて話を聞いていた。素気のない、でも涼介が発したものよりは何処かやわらかい「ふーん」が小さく聞こえた。
「最初は、話しかけても無視されるだけだったんだけど、二学期になって少ししたら暴力が始まって……今に至る」
「暴力は学校でも振るわれてんのか?」
「ううん。痛い目に遭うのは、登校する時だけ。多分、教師に知られないようにするためだと思う」
「臆病者だな、お前の幼馴染は」
フンと鼻を鳴らしてから、コガネが呆れたように言った。
いじめっ子も遅刻を気にするんだな――。道端で彼が初めて発した一言も、涼介たちに向けられたものだった。せせら笑うようでもあり、退屈そうでもある。そんな響きを含んだ声だったと思う。
臆病者。それは僕も同じかもしれないけれど、この時はコガネがはっきりと言い切ってくれて何だかすっきりした。
言いたくても言えないから、口に出すことさえしなくなっていた本音。
こんなふうに、代わりに言ってくれる人がいるなんて。
「……うん。本当に、その通りだよね」
「お、初めて笑ったな。やっと生きてる人間らしく見えてきたぜ」
「ちょっと顔の力を抜いただけだよ。こんなの笑ったうちに入らない」
「照れることないだろ。せっかく生きてるんだから、今のうちにたくさん笑っとかないと損だ。死体になったらぜんぶ固まって動けなくなっちまうんだから」
まだ生きている身としては反論しづらい話も、幽霊のコガネは何のためらいもなく、それこそ呑気に笑いながらしてみせた。もう死んでいるから、怖いものなんてないということか。
「ところで、その深沢っていう女子との交流はまだ続いてるのか」
「うん。僕も、それから涼介も深沢さんとは未だによく話してるよ。三人で」
「はぁ? お前はともかく、なんで幼馴染も一緒なんだよ」
「さっきも話したけど、涼介は僕と会うのを口実にして本当は深沢さんに会いに来てるんだよ。だから昼休みは毎日欠かさずに、僕のクラスへ顔を出してる。クラス中におかしな噂を流してみんなから僕を遠ざけてる張本人なのに、仲良しな幼馴染のふりを続けてるってこと。……なかなか、やることがひどいよね」
「おかしな噂?」
「なんか……、僕が大人相手に身体を売って稼いでるとか、そんな内容だと思う。まあ、僕はクラスメイトのほぼ全員から無視されてるから、噂の詳しい内容は知らないんだけど」
そんな悪評を流されてもなお、深沢さんはいつも通り僕と接してくれている。クラスの誰しもから、見えない存在のように扱われている僕が今、唯一、心を許せる相手。
その存在に救われている半面、幼馴染と仲違いした理由でもあり、想い人が恋焦がれる相手なのだと認識すればするほど、苦しくなる。
もちろん、深沢さんには何の非もない。彼女の期待に応えてあげられないことだって、申し訳なく思う。でも深沢さんはきっと、涼介にあの頼みごとをする時、条件もつけたんじゃないだろうか。
「会話で、私の名前は出さないで欲しい」と、こんなふうに。つまりは世間話を装って、さりげなく探りを入れて欲しい、と。
ただの推測でしかない。でも僕が彼女なら絶対にそう念を押す。あくまで探りを入れて欲しいだけであって、代わりに想いを告げてもらいたいわけじゃないからだ。好きな人への気持ちはちゃんと自分で伝えたいに決まってる。ましてや、誰かの口から勝手に告げられるなんて、許せるはずもない。
そうだ。涼介は自分でも気がつかずに、してはいけないことをしてしまったんだ。
「恋は盲目って、こういうことを言うのかな」
「恋と言えば、真汐が好きな相手ってどんなやつなんだ?」
「アンタまで……。どうでもいいけどさ、それって本当に知りたいことなの? 他人に踏み入られたくない場所まで勝手に入って来て、胸の内を強引に聞き出そうとするなんて、プライバシーの侵害もいいとこだよ。秘密を勝手にばらすやつも、最低だ」
その最低とは、もちろん涼介のことだ。深沢さんの気持ちを考えればこそ、腹が立ってくる。
苛立ちにまかせて乱暴にベッドへ腰かける僕を目で追っていたコガネが、急に笑い声を上げた。何が可笑しいんだよと睨みつければ、上から明るい声がする。
「お前にも反抗心があるって分かって、安心したぞ。まあ、お前のことだから幼馴染のことは憎くても、やり返そうとまでは思わないんだろうけどさ」
まるで僕のことをよく見知っているかのような口振りだ。「人の気も知らないで」と文句を言ったら、苦笑交じりに「まあそうだけど」と返された。
「でも、その調子で怒りの気持ちも持ち続けてろ。そうすれば作戦も立てやすい」
「作戦……?」
「いじめをやめさせる方法。今から考えようぜ」
コガネの声は弾んでいた。上段のベッドから覗いた逆さまの顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。無邪気な笑顔だ。まるで、修学旅行の自由時間に何処へ行こうかと計画を立てる時の僕たち中学生みたい。
「……楽しそうだね、アンタは。なんか子供みたい」
「これでも真剣なんだぞ。まあ、多少は楽しみでもあるけどな。一人の少年が、これからは心の底から笑えるようになるって考えれば」
「何それ。楽しみにする意味が分かんない。というか、どうしてアンタが見知らぬ少年の手助けをしようとするのかも分かんない」
金色が引っ込む。頭に血でも上ったか……と考えて、彼には血も通っていないことを思い出す。
「俺のことも助けて欲しいから、かな」
答えが返ってくるまでに少しだけ間があった。見えなくても、彼がさっきまでの笑顔を封印して言ったのが声から読み取れた。
「僕に、どうして欲しいの」
「俺を探して、見つけ出してくれ」
「どういう意味?」
「調べて欲しいんだ、俺のことを。何せ、ぜんぶ忘れちまってるから成仏しようにもできないんだよ」
「この世に残した未練も、思い出せないから?」
「そーいうこと。名前とか、生きてた時に住んでた場所とか、あの世へ旅立つ前にちゃんと知っておきたいしな。他でもない、自分のことだし。自分が何者かも分からずに消えていくのは、もったいない気がするしさ」
もったいない。コガネはそう言い表したけれど、僕は違う感想を抱いた。
多分、淋しいと思う。
人間は一人ぼっちで死ぬ生きものだ。それでも、最期の瞬間まで大切な人たちの顔や楽しかった出来事を思い出して、一人でこの世界を離れる淋しさをやわらげることができる。
気がつくと何の思い出もなくて、おまけにまわりからは見えない存在になっていて、頼れる人もいない。そんな状態になったら、誰だって心細いに違いない。
僕にはその気持ちが分かる。少しだけ、だけど。
助けて欲しい。コガネの一言が、急に切実なものに思えてきた。
「調べるって……、どうすればいいの。アンタのこと、何一つ分からないのに」
同情なんかじゃない。これは単なる質問だ。たずねる前に、そう自分に言い聞かせた。
「俺のことについては、あとまわしだ。まずはお前が先に助からないと」
交換条件、ということか。コガネは僕を手助けする代わりに、自分の素性を調べろと言っているのだ。理解は出来るけれど、疑念も残る。
「それってさ、僕の方が圧倒的に不利益じゃない? というより無茶だ。記憶喪失を回復させるなんて、できっこない。医者じゃないんだし」
「医者じゃなくても、医者の息子ではあるんだろ。本棚が医学書だらけだった」
「なっ、勝手に母さんの部屋を覗くなよ!」
「見たくて見たんじゃねぇよ。部屋の前を通った時に、見えちまったんだ。文句があるなら、部屋の戸はちゃんと閉めろって母親に言っとけ」
目の前でコガネの両足がプラプラと揺れている。やっぱり、言動がどこか幼いような印象を受ける。ひょっとしたら、見た目以上に僕と歳が近いのかもしれない。「黄金」を「こがね」と読むことも知らないようだったし。
生白い足を眺めていると、嫌なことを思い出しそうだ。
僕は足早にベッドから離れた。立ち上がる時に思わずコガネの足を避けてしまった自分に、何やってんだと心の中で毒づく。ぶつかるはずなんてないのに。
「まあ、俺の事情はそんなところだ。とにかく、臆病者の幼馴染と早いとこケリをつけることだな」
この話はもう終わりだ。と、彼は言いたいらしい。強引に話を戻した。
「ケリをつけるって言っても、どうすればいいのか……」
「涼介ってやつは、何を目的としてお前をいじめてるんだと思う?」
「ただのストレス発散……、とか」
「そもそもの発端は、一人の女子の存在だったはずだ。要約すると、涼介は深沢っていう女子が好きで、お前もそうだと思い込んでる。好きな相手のことを話そうとしないのを見て、お前が嘘をついてると勘違いしてるんだよな」
「うん。何度か、嘘はついてないって涼介に直接言ったけど、ぜんぜん信じてくれなくて……」
「だったら、嘘をついてないってことを証明すればいい」
「証明するって、どうやって?」
最初からないことを証明するのは難しいんだって。
途方に暮れかけている僕を尻目に、コガネはベッドの上であぐらをかいて質問に答えた。笑顔で、やけに自信満々で。けれどそれは、ただの無理難題だった。僕の気持ちを理解していないからこそできる、無茶振り。
「涼介の目の前で、好きなやつに告白しろ」
僕は文字通り、頭を抱えた。
それから、すぐに顔を上げてコガネがいる方を見た。
僕を見下ろすビー玉とよく似た青い瞳は、不思議な輝きを放っていた。まるで……何もかもを見透かしているかのような。あの青い球体は、指先で軽く弾いたって転がることはないけれど、僕の内側では何かが動き始めていくのを感じた。
その晩、僕はスマートフォンで涼介にメッセージを送った。
「明日の放課後、二人だけで話がしたい」
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