甲賀頼芳の幻戯(めくらまし)

夏目

第1話

「神様。なにとぞ、お助けくだっし」

 瓦斯ガス灯や電灯の光もない薄闇の中で、べそをかく声がした。

 明治二十三年、四月中旬の黄昏たそがれ時である。さる山国の奥深くにある村はずれの社では、百姓姿の若者がひとり、朽ちかけた本殿の前で手を合わせていた。

「神様、あの鬼のような人買いから助けてくだっし。おらの妹が借金の片に売り飛ばされちまう。金も工面くめんがつかねえし、もう神頼みしかねえだ」

 と若者は見るも哀れな様子で、ぶつぶつ拝んでいたが、

「……いや、もう、神様でも鬼でもペテン師でもかまわね。誰か助けてくれんだろうか?」

 と力なくつぶやいた、そのときである。

「わしが、手を貸してやろう」

 鈴ののような声に若者が振り向くと、金色の瞳をした狩衣かりぎぬ姿のわらべが、狛犬の石像の頭に腰を下ろしていた。

「ほ、本当だか。ありがてえ」

 人離れした美しい童を、若者は思わず天の助けと伏し拝んだ。

「けんど、……人買いは、幻術を使う恐ろしいやつだ。おめ様はっこいし、大丈夫だか?」

「心配要らぬ。そなたの名は」

「へえ、伊八いはちですだ」

「では伊八。――うぬの家に案内せい」

 童は狛犬の像をぽんと蹴って地面に降り立つと、もう鳥居のほうへ歩き出している。その影を伊八は慌てて追いかけた。


 童を連れて山を下りた伊八が、ふもとの家に戻ったのは、丸いおぼろ月が山の上に高く上った頃だった。

「おうい、けえったぞう」

 裏口から土間に入った伊八が声を上げたが、返事はない。家の中には薄墨うすずみを溶いて流したような闇が、しいんと広がるばかりである。

「おや。糞餓鬼くそがきが、戻ったか」

 土間の片隅から飄々ひょうひょうとあざ笑う声がして、上がりがまちに座っていた黒い影が伸び上がった。影は月明かりの下で、長身痩躯そうくに中折れ帽子をかぶり、黒いインバネスをまとった二十五、六の男と変わる。

「この人買い。妹をどこに隠しただ」

 伊八の問いに、白面の人買いは薄茶色の目をにいと細めた。

「妹は、手下がおまえの親父と一緒に連れて行ったよ。今頃は列車の中だろうぜ」

「また、親父をだましただな」

「あきらめなよ。妹はおれの幻術一座の玉乗り芸人になるんだ、もう証文もある」

 人買いは燐寸マッチを擦ると、紙巻き煙草に火をつけた。その口元からふうと吐かれた一筋の紫煙が一匹の蛇となり、伊八に向かって身をくねらした。

 そこに横から童の袖が伸びる。袖に払い落された蛇は床に落ちて煙と消えた。

「これは確かに、鬼のごときやからじゃのう。さても悲しき人の世よ」

 そうつぶやいた童の手刀がひらめき、人買いの脇腹から背中までをずぶりと貫いた。うつ伏せに倒れた人買いを見て、伊八が青ざめる。

「このような輩に踏み潰された者が、我ら鬼を呼び、騙されて、餌食えじきとなる。--その愚かさも人の業。……明治の世になっても変わらぬわいなあ」

 突然、童の口端が耳までつり上がり、その額に二本の角が生えた。小さな体が膨れ上がって、みるみる牛と人を合わせたような異形の姿と変わる。

 伊八は肝をつぶしてへたり込んだ。

「あはは、久しぶりの馳走ちそうじゃ。頭から喰ろうてやろう」

 おどろの火を吐く鬼の笑い声を聞きながら、伊八は悔しさ情けなさにこうべを垂れた。――ああ鬼のような人間への憎さがために本物の鬼に食われちまうとは、おらは莫迦ばかだと伊八が思った、そのとき。

「愚かなのは、おまえたちさ」

 飄々ひょうひょうとあざ笑う声が、鬼の背中を打った。

 鬼が背後に振り向くなり、真っ向からふうっと吹きかけられる紫煙。煙は鎖と変わって鬼を二重三重と縛り上げ、倒れた人買いの体も煙と消える。

「……実体も定まらぬ幻が、人を騙して、憑いて、鬼となる。明治の新時代でも、鬼となる幻はそれを繰り返す。だから、鬼よりもずる賢く幻を見せないと、鬼殺しは勤まらない」

 くわえ煙草で立った人買いが、中折れ帽子のひさしを傾けた。

「僕が誰かって? 鬼殺しの鬼、甲賀三郎頼方よりかたの七代目、頼芳よりよし。――明治の鬼殺し、だよ」

 甲賀頼芳が指を鳴らすと、鬼を縛る鎖が絞まって異形の体は雲散霧消し、煙もろとも夜風にさらわれた。

「おや。名乗りを終える前に、幻にして、消してしまったね。……ま、いいか」

 頼芳は鬼のいた場所から目を離し、茫然としている伊八の前にかがみ込んだ。その指がぱちんと鳴ると、伊八は夢からめたがごとく目をしばたたかせた。

「あっ、先生。また、おれに暗示をかけなすったね?」

「今回もいい芝居だったよ。伊八くん」

 頼芳は伊八ににっこりと笑いかけた。

「まったく。君は僕の暗示にかかるとどんな人間にもなって、そのお人好しの顔で鬼をころりと騙してくれるんだからねえ」

 愉快そうに肩を揺すった頼芳はきびすを返し、黒いインバネスが悪魔の翼のように翻る。

「伊八くんは、僕にとって最高の助手だ。これからも僕への借金を返すまで、――せいぜい騙されてくれたまえ」

 笑い声とともに去る主人の黒影に、伊八は頭をかきむしって叫んだ。

「こんの、ペテン師め! --あんたが、いっちばんの鬼だよう!」

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