布団の中で読む自分の物語

兵藤晴佳

第1話

 この家だけは、さっき抜け出してきた僕の家とは違っていました。 


「ここ……見たことある気がする」


 街のどこにある家も、地面にぺったりと寝そべっているみたいな形で、窓はなくて屋根は丸くなっています。

 でも、この家だけは高くて窓があって、板みたいなものを並べた平たい屋根は、斜めになっているのでした。

 不思議なのは、街を歩いているのが小さな僕だけで、気になるのはこの家だけということでした。


「どうして?」


 そうつぶやいたとき、目の前で光の幕が弾けました。

 遠くから聞こえる、あの歌声と共に。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 僕は誰もいない道の上へ、身体にまとわりついた子供服の破片を投げ捨てた。

 裸の身体を隠すように、その古い家の中へと足を踏み入れる。


「誰かが、いる……」


 そんな気がしたのは、扉の側にある姿見の鏡に、僕が裸の少年の姿で映っていたからじゃない。

 始めて見た場所のはずなのに、懐かしかったのだ。

 着替えを求めて目の前の階段を上る。その先にあった部屋で、ベッドの上にあった服を手に取った。

 その下には、本が1冊だけ放り出されている。

 そのとき、窓の外から僕の名を呼ぶ声が聞こえた。


「パルチヴァール!」


 今朝、僕をベッドの中で抱きしめて離さなかった大人の女性……リュカリエールが、僕を探しに来たのだった。 

 僕は慌てて、ベッドに身を隠す。

 それでも、あの歌声は聞こえてきた。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 どこまで広がっているか分からない街のはずれで、原子炉の暴走と人々のパニックを抑えている女の人……プシケノースの声だ。

 布団の下で本を開くと、こんな言葉で始まっていた。

 


「徒歩で避難してください」


 遠くにある原子炉からのアナウンスが聞こえてくる。広い街の電気を全て賄う原子炉が、事故で止まったのだ。

 放射性物質が風で運ばれてくる恐れがあるということで、退避が呼びかけられていた。父と母に促されて家の外の道へ出ると、街から逃げ出そうとする人の群れでいっぱいだった。


「もたもたしないで、ゆっくり歩け」

 

 父が求めていることは、明らかに自己矛盾している。だが、仕方ないことだった。僕も母も、黙々と歩く。

 そうしなければ、先を急ぐ者同士、人の押し合いへし合いが起こる。そうなれば道が塞がって、逃げ道はなくなる。

 ましてや、自動車で逃げようなどという自分勝手な態度は、もってのほかだった。

 だが、いきなり立ち止まった父は、誰にともなく悪態をつく。


「言ってるそばから……」


 僕たちの目の前には、道を塞いで立ち往生する自動車の列があった。後ろからは、先へ行けと怒鳴り散らす男たちの声が聞こえる。振り向けば、後からやってくる人たちの群れがあった。

 父が僕たち家族に囁く。


「やむを得ん……あの車を乗り越えていけ」

 

 僕たちが動き出すより先に、前にいた人たちはもう、自動車のトランクやボンネットに足を掛けていた。

 自動車の運転席からはいくつもの罵声が聞こえるが、そんなことなど誰も構いはしなかった。僕たち家族も思い切って車体によじ登ると、後から来た人たちが一斉に続く。

 そこで、思わぬ悲鳴が聞こえた。


「痛い!」

 

 人の群れが押し寄せる中で、小さな子供が呻くように泣き出したのだった。誰も手を差し伸べる様子はない。

 どうしたらいいか父に尋ねようと思ったが、もう、その姿はなかった。

 考えている暇はなかった。放っておけば、子供は人の群れに踏み潰されてしまうかもしれない。

 僕は、向かってくる人たちを押しのけ払いのけして駆け戻った。子どもを助け起こそうとして、手を差し伸べる。 

 そのときだった。

 いきなり襟首をつかまれて、僕は後ろから怒鳴りつけられた。


「オレの子どもに何てことしやがる!」


 完全な誤解だった。

 こんなことなら、父にものを尋ねようとしている間に抱き起こしておけばよかったのだ。

 気が付くと、僕は完全に取り囲まれて、罵声の渦の中心にいた。

 

「恥を知れ!」

「自分が助かりゃいいのか!」


 たぶん、逃げ道は完全に塞がってしまったのだろう。募る恐怖と鬱憤は、とりあえず悪者として認定された僕に向けられたのだ。

 このままでは袋叩きだと、ある程度の覚悟を決めたときだった。


「放射能が漏れたぞ!」

 

 あとからあとから逃げてくる人たちが、口々に叫んでいた。逃げるのを諦めたはずの人たちが、一斉に騒ぎ出す。

 助かった!

 僕は急いで駆け出した。まだ立ち往生している車の上によじぼって、その屋根の上を歩いていく。

 どれほどの車を越えていっただろうか。車の屋根の上から眺めても、まだ家族の姿は見えてこない。

 先を急ごうと思ったときだった。

 僕の後ろで突然、何かが爆発した。

 思わず振り向くと、道端で上がった火柱の間で暴れる男たちがいる。


「邪魔なんだよ! その車!」

「降りろ!」

  

 窓を閉め切った車のドアが引き剥がされ、大人も子供も情け容赦なく引きずり出されていた。

 男たちは車に取りつくと、息を合わせて次々と道の脇へ転がす。ひっくり返った車は次々に炎上して、無傷の車からは逃げる人たちがあふれ出した。

 その人たちがやってくる車の上を、僕は逆向きに歩きだす。

 燃え盛る炎の間からは、まだ、男たちの罵声と子供たちの悲鳴が聞こえていた。

 もう、見ていられなかった。

 声を限りに叫ぶ。


「こっちへ逃げてください! まだ間に合います!」


 もちろん、分かっている。

 僕の声なんか、届きはしない。

 それなのに。


 ……こっちへ逃げてください……まだ間に合います。


 こだまが人の声を真似るように、女の人の声が僕の言葉をくりかえした。

 暴れていた男たちが、泣き叫んでいた子供たちが、いっぺんに静まり返る。

 だが、どこから聞こえてくるか分からない声の主を探して、誰もが茫然と立ち尽くしている。

 そこに喝を入れたのは、別の女の人の声だった。


「こっちだって言ってるでしょ!」


 昇りつめた太陽の中から降ってきたのは、しなやかな身体つきをした、青い髪の女の人だった。

 それに目を奪われていた人たちが、大人も子供も、我に返ったように車をよじ登ってくる。やがて、その周りの車が道の端から火を吹き上げはじめた。


「急ぎなさい!」


 青い髪の美女に叱り飛ばされた人たちが、突っ立ったままの僕とすれ違う。

 だが、ひとりだけ、僕の後ろから走ってくる者があった。

 耳元で囁く。


「一緒に来るだろ? 君なら止められる……命懸けだけどね」 

 

 いろいろと言葉は足りなかったが、言おうとしていることはひとつしかない。

 囁いた声が誘う先で、今、動いているもの。

 それを、僕がどうにかできるとは思えない。

 だが、走る男は、僕の手を引いて言った。


「理屈はいらない。君が正しいと思うことをするんだ」

「君は?」

 

 右も左もわからないところへ、ひとりで放り出されても困る。

 でも、走る男は素っ気なかった。


「アレが街の外へ暴れださないよう、周りを見張ってくる」

 

 そこで突然、僕の意識は遠のいた。

 気が付くと、目の前は真っ暗になっている。

 ただ、耳を塞ぎたくなるような大声だけが聞こえた。


「お前は誰だ」


 その声は、さっき、子どもを助けようと頭から怒鳴りつけてきた親に似ていた。

 いや、言いがかりをつけられた僕を、逃げられないことへの恐怖と鬱憤のハケ口にしようとしていた連中にも似ていた。

 確かに、僕には何もできないけど、その分、まともに返事する気にもなれない。

 

「静かにしてくれないかな」


 言いたいことは、それだけだった。

 だが、闇の中から聞こえる声は止まらない。


「私を作ったのは誰だ、お前たちではないか。夜は暗いものなのに、朝が来るまで光を欲しがり、夏の暑さと冬の寒さを厭うて常春の世を願う、お前たちではないか。それを、お前たちの都合で静まれとは」


 そういう意味で言ったわけじゃなかった。

 どうやら、これは原子炉の声らしい。

 確かに言うことはもっともだが、僕の話も聞かないで、ただ大声でまくし立てられては、そうもいかない。

 僕は再び、必要なことだけを告げた。


「理屈はいらない。静かにしてくれればいい」


 だが、それで大人しくしてくれるような相手ではなかった。

 これも仕方がない。頭に血を上らせて理屈を言う乱暴者を説き伏せられる言葉なんか、ありはしないのだ。


「では、命を差しだすか?」


 まるで、子どもの理屈だ。しかも、いちばん性質が悪い。最初から、こっちがたじろぐだろうという腹積もりでいる。

 こういう連中に、怯んではいけない。

 これまで通り、僕は無駄な反論なんかするつもりはない。


「好きにするがいい。僕は、静かにしてほしいだけだ」


 そこで意識が途切れた。

 この闇の中での出来事が、本当に遭ったことなのかどうかもわからなくなっていく。


 目が覚めたとき、僕はものすごく広くて大きい、真っ白な建物の中にいた。

 そこには、大きな建物がもうひとつある。扉は、どこにもない。


「ここは?」


 何か温かくて柔らかいものが、僕を包み込んでいる。


「あなたは知らなくていいわ」


 青い髪をした女の人が、僕の頭を大きな胸の中にぎゅっと押し込んくる。


「私たちが守ってあげる」


 ふうわりと明るく輝く女の人に、背中からふわっと抱え込まれた。

 そんなことができるくらい、僕は小さな子どもなのだった。

 でも、どうしてこんなことになったのか、さっぱり分からない。


 

 僕はベッドの中に身を隠したまま、僕が僕自身を読者に、仲間のことを書いたかのような本を閉じる。


「とうとう、見つけちゃったのね」


 その声を聞いて、布団から顔を出してみる。

 部屋の戸をノックもなしに開けて入ってきた、青い髪のリュカリエールだった。

 続くのは、暗い部屋の中をふうわりと明るくするプシケノースだった。

 確か、原子炉を制御しているはずだが……。


「もう、私では止められない。制御装置のほうが止まってしまったの」


 まあ、そういうときもあるだろう。


「分かった」


 僕はベッドから下りると、目を閉じる。

 真っ暗闇の中に、あの声の主がいるのを心の奥底で感じる。

 大丈夫だ。まだ間に合う。

 遠くから聞こえる、あの走る足音がある限りは。





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布団の中で読む自分の物語 兵藤晴佳 @hyoudo

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