物書きは読者と仲間を求める

芦原瑞祥

私と読者と仲間たち

 俺が小説を書き始めたのは、仕事にも慣れて多少余裕の出てきた二十八歳のときだった。当時は小説投稿サイトはメジャーではなかったので、まずは小説学校の門を叩いた。


 授業は週に一回、二十人弱のクラスで当番を決めて作品を出し、それに対して全員が「どこが良い悪い、どうしたらもっとよくなるか」をコメントし、議論するスタイルだ。


 自分の考えていることを全部さらけ出すのだから、いわば精神的な裸の付き合い。

 さらに授業のあと、安居酒屋で終電まで呑みながら、自分は小説家になるんだと息巻いたり、文学について語り合ったりするうち、クラスのみんながかけがえのない仲間になっていった。


 そうはいっても問題も起きる。

 まったく作品の主旨を読み取れていないのに的外れな批評で作者を攻撃する人、クラスの女性全員を口説く人(全員を同じ手口で口説いていたのがバレて、あとで袋だたきされたらしい)、自分の作品は高尚だけど他のは駄作と見下す人。


 ちょっと前にSNSで問題視された「文化系説教おじさん」もたくさん目にした。

 若い女性の書き手に「君は見所がある。僕が指導すればもっと書けるようになる」と先生でもないのに個人指導を申し出て、まずは「ここがダメ」と相手を批判することで自信を失わせ、ついでに自分の方が上だと思い込ませる。そして適当なアドバイスと応援で相手を精神的に支配して口説くのだ。


 俺は、そんなおじさんにロックオンされていた、純文学書きの女性の盾になったことがある。別に下心があったわけじゃない。彼女は本気で文学に向き合おうとしているのに、しょうもないオッサンの餌食になって欲しくなかったからだ。


 オッサンが授業中に、彼女の作品についていい加減な批評をすれば、自分の番が回ってきたときに「先ほどこのような意見を言われた方がいますが」と完膚なきまでに批評し返して彼女を擁護する。

 飲み会では彼女の側にオッサンが行かないよう、「まあこっちで呑みましょうよ」と他の若手男性たちとオッサンを連れ出してブロックする。


 ちなみにそのとき助けた女性が、今のカノジョの純子だ。


 小説学校は居心地がよく、このまま十年以上居座りたいくらいだった。けれども、俺は学校を卒業することにした。


 居心地がよすぎて、合評終わりの飲み会の方が楽しくなってきてしまったこと。

 波風立てたくないからと甘めに批評してくれる人の褒め言葉に、図に乗ってしまう自分に気づいたこと。

 俺の書くジャンルがエンタメやキャラクター文芸なので、九割を占める純文学の人には分かってもらいづらく、「浅い」「低俗」「どこかで見たような」と言われ続けるのが不本意だったこと。


 本当に俺に実力がないのならともかく、俺の作品は大手出版社の新人賞で二次予選までは通っていたので、箸にも棒にもかからないわけではないはずだ。……たぶん。


 小説学校を辞めた俺は、ちょうど話題になり始めた小説投稿サイトに登録した。

 ここなら、エンタメ系の作品にも理解があるだろうし、書き手の人との交流で仲間もできるかもしれない。


 期待に胸を膨らませて、自信作だった新人賞二次予選通過作を数回にわけて投稿した。

 けれども。


 PV0


 この数字は、思い上がっていた俺の鼻を完膚なきまでにへし折った。

 

 ジャンル的に需要がないのか、筆力がないのか。

 俺は他の投稿作品を読んで勉強した。おもしろかった作品には☆を入れ、推したい作者さんはフォローした。

 それは「俺もこの世界に混ぜてくれ」という祈りにも似ていた。


 それでも俺の作品のPVは第一話がちょっと伸びただけで、そこから先が続かない。

 俺はまた他の投稿作品で勉強する。


 公募の長編小説を分割投稿するだけでは全然ダメなのだ。

 読者は隙間時間にサクッと読みたいのだから、一話ごとに盛り上がりとヒキが必要。次も読みたいと思わせる導線を入れなくては。

 あと、携帯電話で読む人が多いから改行と一行アキで読みやすくする。

 タイトルとあらすじも「おもしろそう!」と思ってもらえるものにしなくては。


 これでまた少しPVは伸びた。けれども☆はつかない。


「俺、本当は下手くそだったのかな。公募の予選通過もまぐれで、小説学校で『おもしろかった、続きが読みたい』なんて言ってもらえたのもお世辞で」


 週末、いつものカフェで純子と並んで執筆しているとき、思わず愚痴を言ってしまった。


「こないだ読んだ異能バトルの話はおもしろかったけど」

 変換キーを、ターン! とでかい音を立てて打ち、純子が顔をあげる。


「お世辞言ってくれなくてもいいよ」

 いや、お世辞じゃないし、と純子が理路整然と、俺の作品のどこがよかったかを解説し始める。


 キャラクター一人ひとりに幼少期からのエピソードまで付与して設定した人格が、まるで実在の人間のように感じられるとか、読者も気づかないような伏線やイメージのシンクロが、物語の根底にリズムを刻んでいるとか。

 生真面目な純子は延々と語り続けた。


 嬉しいよ。嬉しいんだけど、やっぱりどうしてもカノジョからの感想は「身びいき」が入っている気がして、素直に喜べない。


 それを言うと純子は苦笑した。

「私がお世辞を言うとでも? 批判するときはちゃんとしてるじゃない。いい加減三点リーダーは二マスだって覚えなさいよ。……で、どこの小説投稿サイトだっけ?」


 俺はサイト名を教えた。確か登録したときに純子も誘ったんだけれど、「純文学はお呼びじゃなさそうだし、ちらっと見たら行頭一マス空けができていない人が多かったからパス」と言われたんだっけ。


 どうせ読まれないんだろうなと思いながら、帰宅した俺が長編小説の書き直しをしていたら、携帯の通知欄に小説投稿サイトのアイコンが灯った。


 作品に☆レビュー


 あわててページを確認する。

 俺の長編小説に、☆が三つ輝いていた。しかも、この作品を熱烈に推してくれるレビューつきで。


「え、誰? arimaさんって」


 レビューをくれたarimaさんのページを見たが、自分の小説は投稿していないし自己紹介文もないから、知り合いなのかすらもわからない。

 一瞬、純子なのかと思ったが、登録した時期が何ヵ月か前だから違うだろう。


「読んでるうちに主人公が友達みたいに思えてきて、妖のあとをつけていくシーンでは『ああもう、またそんな無茶して!』と本気で心配しちゃいました」

 

 このレビューコメントからも、純子ではなさそうだ。彼女なら「読んでるうちに」と書くだろう。


 この見知らぬarimaさんからのレビューは、俺にとって真っ暗な道に灯った明かりだった。


 arimaさんに読んでもらうため、俺は途中で更新をやめていた長編小説の投稿を再開した。arimaさんにおもしろいと思ってもらえるよう、文章の演出にも気を遣った。ただ描写するだけじゃなく、映画みたいにカメラワークを意識するのだ。

 arimaさんはそのたびに読んでくれて、「ああ、これからどうなるの!?」など、簡単だけど励みになるコメントを残してくれた。


 arimaさんのレビューが呼び水になったのか、俺の小説は徐々に読者が増え、コメントももらえるようになった。


 俺は他の人の作品を読んで学ぶことはもちろん、近況ノートやSNSなどで彼らがいかに努力しているか、自分の作品を愛しているかを垣間見て、勝手に仲間意識を持つようになった。


 小説学校と違って面と向かって語り合うことはないけれど、あなたたちの背中から学び、一緒に物語を紡ぎ、心を動かされています。本当にありがとうございます。



 ちなみに、arimaさんはやっぱり純子だったと後に判明した。

 きっかけは、純子に読んでもらった初稿とアップした小説とでキーアイテムの色を変更したのに、arimaさんからのコメントが変更前の色になっていたからだ。


「だって、私からの感想だと真に受けないでしょ? ……でも、よかったじゃん。今は読者もいるみたいで」


 みんなには感謝しているけれど、俺の一番の読者であり仲間なのは純子だよな、なんてのろけながら俺は今日も小説を書く。

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物書きは読者と仲間を求める 芦原瑞祥 @zuishou

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