北村不思議探偵事務所

石濱ウミ

・・・



 私の事務所に、その奇妙な依頼が持ち込まれたのは、桜の蕾が綻び始めた頃であった。


 暗く薄汚れた階段を昇った先にある雑居ビルの最上階角部屋。そこはかつて、古いビルにはお約束の薄汚れた雀荘だった。

 だが現在は、経営者が世間様から遁走してしまったために、私の事務所となっている。

 その事務所とは何かといえば、しがない探偵事務所であり、入り口の硝子扉には知らしめるべく『北村不思議探偵事務所』と掠れた白い文字で書かれているが、実際のところは、看板を掲げているだけの開店休業状態なのだ。

 ではどうやって食べているのかと問われれば、私は単なるつまらないビルのオーナーとして、生活を送っているに過ぎない。

 気楽な身分が羨ましいよ。趣味を仕事に出来るなんて素晴らしいじゃないか、とよく嫌味を言われるが探偵は趣味ではなく、私が世の中を確実に生きていると肌で知るために、必死でぶら下がる細い糸なのである。


 その雀荘の名残りとして置かれたままになっているピンク色のくたびれた公衆電話が酷い音で事務所中に鳴り響いたのは、私が応接セットのソファの上で毛布に包まり惰眠を貪っている時だった。

 事務所にかかってくる電話は、過去の雀荘に繋がると思っている頻繁な間違い電話か、現在の私に宛てた滅多にない依頼の二種類しかない。


 こうして平日の昼少し前、今の私が依頼人との待ち合わせのため地方へ下る電車に揺られ、ぼんやりと流れる窓の外の景色を見ていることからも分かるように、その日鳴った電話はつまり、私に宛てた仕事を依頼する極めて稀な方だったのである。


 各駅に停まるごとに乗っていた人は減り続け、外の景色はだんだんと鄙びた様子に変わってゆく。

 そうして気づけば私以外、誰一人として居なくなってしまった。

 暖かい日差しに瞼が重くなり、うとうとと微睡む。

 夢の中で誰かの話を聞いていると思ったら、右肘に触れる柔らかな肉の感触と誰かのなまぬるい体温を感じ、ぎょっとして目を覚ました。

 

 ちらと薄目で確認する。

 女だ。

 若いのか、年寄りかも分からない。


 どこかの停車駅で一人の女が乗り込んで来たらしい。

 その足元にふと目をやると、丈の合ってい

ないパンツに踝が見え、白くカサカサと乾燥した爪の伸びた汚い素足は水色のポリ塩化ビニルのサンダル……いわゆる便所サンダルと呼ばれるもの、を引っ掛けていた。

 そしてガラガラに空いた、どこにだって座れるこの車両の中、私の隣りにわざわざ並んで座っていたのである。

 それも身体が触れるように。

 恐怖と嫌悪で下手に動けなくなった私は、寝たふりを続けるべきか否か束の間の逡巡をする。

 その間も女は私が目を覚ましたことに気づいているのかいないのか、手垢で茶色く汚れたノートに顔を埋めるようにして、それを声に出して読んでいた。

 ぶつぶつと抑揚のない低い声が、私の耳に絶え間なく届く。

 夢の中の話し声は、これだったのかと腑に落ちた時、女の持っているノートに何が書かれているのか気になった。

 先ほどから押し付けられている女の柔らかい脇腹の肉に食い込む私の右肘から伝わる感触も、もう耐えられなかった。別の車両に場所を移動したら、ついて来るだろうか? そう考えながら、立ち上がるついでに好奇心に負け、さりげなくノートを覗き込む。


 白紙だった。


 途端、女が顔を上げ私に歯を見せて笑う。

 話しかけられる前にその場を離れる。

 振り返る勇気はなかった。



「あの……来てくれたってことは、ですよ? サイトに記載されていたように、どんな不思議なことでも解決してくれるんですかね?」


 寂れた駅前の、時を止めた喫茶店で依頼人と向き合った私は、暇だからとの本当のことは言えずに黙ってコーヒーに口をつけた。

 事務所のサイトには『解決する』とは記載されていない。『どんな不思議な話でも承ります』と書いてあるのだ。

 沈黙は何も生まないのを知っている。

 だから仕方なくその旨を説明すると、大抵の人は怒りだす。

 だが、この依頼人は違った。藁にもすがる、とはまさにこのことであろう。


「いえ、良いんです。こんな話、どこで誰にすれば良いのか分からなかったから……聞いて貰えるだけでありがたいというか。あ、だけど聞いてもらうだけでこの料金ねだん……か。あ、いやいやいや。良いんです。すみません、こんな所まで来て貰っておいて」


 だいぶ緊張していたのであろう。テーブルの上に放って置かれた私の名刺は、依頼人のがぶ飲みするグラスから溢れる水に濡れ、またそれを持つ手が微かに震えていることからもよく分かる。


「実際にお会いしてみて、安心しました。どんなに変わった……いや、あの。えっとその」


 私の見かけが、ごく普通であるとは褒め言葉として受け止めることにした。


「ここに呼び出したのも、実を言えば北村さんには、直接見て欲しいからなんです。その方がよく分かると思いますし。道すがらお話しますので……」


 胡散臭い風体でなかったことが、役に立ったのだろう。どうやら話だけでなく、その不思議を実際に見せて貰えることになった私は、同意した印に席を立ち、依頼人の案内で駅の駐車スペースに待たせてあった車に乗り込んだ。


「これは、娘のナツミです。お会いするのは自分だけと決めて来たのですが、もしかしたら北村さんを家までお連れすることになるかもと……待たせて置いて正解でしたわ。車を運転出来るのが娘しかおらんものでして」


 ちらと覗いたのは、どこの方言だろう?

 私の疑問をよそに、運転席から依頼人と全く似ていない、危うい艶っぽさのある二十代後半から三十代くらいに見える女性がぺこりと頭を下げた。それに応えるように、私も小さく頭を下げる。


「古民家を購入したんです。まさか、その家が曰く付きとは……」


 依頼人、佐藤 すすむは早期リタイア後、娘の夢を後押しするべく家族三人でカフェを開こうと、この地にあった古民家を購入したのだそうだ。

 農家レストランや、古民家カフェは珍しくもなくなってしまったこともあって、当初、古民家を購入するつもりはなく、田舎で開く普通のカフェの予定だった。

 だが広い土地付きの農家が破格の値段で売りに出されていると知って飛びついてしまったのである。

 せっかくなら。

 古民家カフェも素敵だから、と。


「購入する前に、地元の人に話を聞かなかったわけではありません。いくら安いと言っても実際に土地付きの家を買うんですから、駄菓子を買うのとは違います」


 土地勘もない、ゆかりもない田舎。不動産屋にはもちろん、近辺の人に以前の住人のことを確かめたのだ。

 子供のいない老夫婦がごくごく普通に暮らしていた、その人たちに特に変わった様子は見られない、と誰もが揃って口にする特に問題など見受けられない家だった。

 他にも購入希望者がいると聞かされて、検討中だった気持ちは決断に変わる。

 茅葺き屋根を葺き替えるのは、予算を大きく上回り大層値段が張ったものの、使いやすくリノベーションした家は、素敵なカフェとしてオープンすることが出来た。


「カフェは定休日でして……そっちはおかげさまで、今日まで問題なく……あ、あそこのカーブを曲がって……一瞬だけ、見えましたか? あの茅葺き屋根がウチです。この先、細い道を行ったら到着です」


 暗い樹々のトンネルを抜けた先にあったその古民家を、私だったら購入しないだろう。


 見て頂きたいは、住居として使用している所なんです。ご案内しますと言って通された畳部屋には、二間半四枚立の見事な襖障子があった。

 住居と店との間仕切りとして使われているらしく、襖障子を隔てて向こうは、店の部分だそうで、そちらは板目らしい。


 視界いっぱいに広がる襖。


 そこに吸い寄せられるように目をやれば、描かれているのは枝を大きく伸ばし、ふっくらと丸みを帯びた花芽を持つ桜の大木。

 そして、その太い幹には顔のような樹洞。


「……自分たちが悩まされているのは、この襖なんです」


 襖の前に畏まるようにして座る家主に習って、自然と私も正座になる。


「この襖絵……信じられないかもしれませんが、んです。それが……」


 もとは白の無地で、何の柄も入っていないところに。

 滲みが浮いてきた。

 黴でも生えたのかと思っていた矢先。

 縞模様のようだったそれは伸び、勢いを増し、気づけば古い樹に見えるようになった。


「……いまや、はっきりと蕾があるのが分かるんです。これは……これは桜ですよね? いったいどうしてこんなことが? それだけじゃない。この蕾が、日に日に膨らむのが分かるんです」

 

 一度襖を張り替えてみたものの、また暫くすると絵が浮かび上がるのだと言う。

 いったい何故、こんなことが……と、膝の上に置かれた両の手の関節が白く浮くほどに力を入れている依頼人の肩は、微かに震えている。

 襖絵の桜の幹を見ながら私は、ひとつ質問をぶつけてみた。


「……? 思い当たること、ですか? 桜の木の絵……これが浮かび上がるまでに、何かきっかけになるようなものがあったのではないかって?」


 首を傾げ、懸命に何かを思い出そうとしている依頼人の元に、娘と紹介された女性が盆に載せたお茶を運んで来る。広く開いた襟ぐりから、艶かしい柔く白くとろりとした肌が覗いていた。

 私は目を逸らし頭を下げ、お茶を頂く。

 畳の上に置かれた茶碗は、三つ。

 私と依頼人と……。

 

『ところで奥さまは、今どちらに?』


 その質問に不意を突かれた顔の依頼人が、驚いたように顔を上げ、私の目を不思議そうに覗き込んだ。

 どうも意味が分からない、といった顔をしている。

 私はもう一度、尋ねた。

 最初におっしゃっていましたが、、カフェを始めたのなら奥さまは今、どちらに?


 私の目の前には、声を失くした依頼人とその娘だという二人。

 依頼人の背後の襖絵には、黒々とした太い桜の幹がある。


 今やはっきりと、そこに浮かび上がる女の、首だけの顔が、依頼人には見えないのだろうか。


「……家内、ですか……?」 


 襖絵の女の首が、つつっと動いて依頼人の声のする方へ向くと、大きく唇を歪めた。

 ……ああ、笑ったのだ。

 と、少し遅れて気づいた。

 どこを見ているのかわからない色のない白い眼が、すうっと細められる。


 み つ け た


 女の唇が、動く。

 嫌な汗が背中に、つと流れた。



『襖絵の桜が咲くことがありましたら、また連絡をください』



 それから私はそう言い残し、逃げるようにその家を後にした。

 

 依頼人からの二度目の連絡は、まだ無い。

 




《了》




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