第4話 君の言葉で、愛してくれよ。

 一八時。

 私は東京駅にいた。

 新しいホテルのグランドオープニングセレモニー。

 ホテル最上階のレストランでの食事券。

 高級フレンチフルコース。それが何とペアチケットで無料。


 多分、この抽選権を手に入れるのに青汁を段ボールひと箱買うとか、食パンについてる券を何十枚集めるとかいうことをしなければいけなかったのだろうけど、そういうことは全部、由香がやってくれた。


 だから本当は、私にこのチケットを楽しむ権利はないのだと思う。


 それでもめいっぱいお洒落をした。フルカップの下着で体の線を調整して、細く見えるよう努力した。耳に綺麗なピアスをして、爪を飾った。化粧もちょっと豪華にした。ホテルでの会食にふさわしいよう、ドレスアップもした。そんな準備をして、東京駅に向かった。


 二上さんは、前日にこんなメモを私のデスクに残していた。

〈一八時、東京駅の丸の内駅前広場で待っています〉


 丸の内駅前広場。少し、見渡す。

 二上さんがいた。


「すごく、美しいです」

 出会い頭、そう褒められる。

 嬉しい。素直に。


「来てくれたんですね」

 彼の低い声。甘い。

「来ました」

 私は手にしていた鞄を握りしめる。


「参りましょうか」

 そう、エスコートしてくれる彼に、私は告げる。


「ごめんなさい」

 彼がこちらを振り返る。その顔に、私は一生懸命告げる。


「ごめんなさい。あなたとは行けません。私には、好きな人がいます。愛している人がいます。その人は、裏切れません。だからあなたとは、行けない」

 そのことを、伝えたくて。


 私が懸命に言葉を紡ぐと、二上さんは情けない顔になった。

「そっか」そう、項垂れる。「幸せ者ですね、彼氏さんは」

「それは分かりません」私はなるべく、泣かないようにする。「私、重いから」


「僕なら受け止められますよ」

 彼の声が、やっぱり甘く響く。

「もう一度、考え直してもらえませんか」


 誘惑。すごく、甘美な。

 目の前にいるのは、イケメンだし、優しいし、ただの大学院生の拓也より、収入もあって、社会的信用も立場もあって、私のことを思って、大切にしてくれる、そんな男性だ。


 でも。


「……ごめんなさい」

 やっぱり私は、あなたには付き添えない。

「せめて、あの人の口から、ちゃんとフラれたいんです」


「それじゃあ、こうしましょう」二上さんが口を開く。「僕の終電は今夜一二時過ぎまであります。それまで、ここで待ちます。もし、彼氏さんにフラれたら、戻ってきてください。ずっと、待っています」


 何て、甘美な誘惑。

 めげそう。

 でも、負けない。


「それも、ごめんなさい」

 私は今頃になって、ちゃんと頭を下げていなかったことに気づく。

 下げる。地面に向かって、でも彼に届くようにしっかりと、言葉を続ける。


「フラれたら、しばらく一人でいようと思います。自分勝手な恋をした罰として。それに、フラれてすぐ他の男性と付き合うような軽率なことはしたくないし、あなたをキープしておくようなこともしたくない。あなたは私に真っ直ぐ向き合ってくれたから、私もあなたに真っ直ぐ向き合います。私のことは待たないでください。今から六時間も立ち尽くしていたら大変です。お願いですから、帰ってください」


 二上さんは口元に手を当ててから、ちょっと迷うような顔になると、私に連絡先を教えてくれた。


「いつでもいいです。連絡、ください。もちろん、寂しかったら、でいいです」

「受け取れません」

「勘違いしないでください」

 彼はやっぱり、真っ直ぐこちらを見てきた。

「友人として、です」

 男と恋バナするのも、悪くないでしょう? 


 そう笑って、二上さんは去っていった。後に残された私は、彼の背中を少しの間、見送った。

 それから真っ直ぐ、ホテルに向かった。


 拓也が……私の愛しい人が……待っているホテルへ。



 オープニングセレモニーは派手に行われていた。

 拓也はホテルの前で待っていた。安物のスーツ。安物の靴。安物のネクタイに安物のシャツ。ぼさぼさの髪。寝不足なのだろう。目元には隈。眼鏡も曇って見える。心なしかちょっと猫背だ。さっきまで私に向き合ってくれていた二上さんとは、何もかもが対照的だ。


 でもそれが、愛しかった。


 私のためにここまで来てくれただけで。

 私に会いに来てくれただけで。

 私の前にいるだけで。

 ううん、もういっそ、私の傍にいるかはどうでもいい。

 この地球上にいてくれるだけでも、概念として存在してくれているだけでもいい。

 とにかく彼の全てが、愛おしい。


「やあ」

 疲れた声。やつれた顔。

 私はそっと近づき、触れる。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「体調悪いの?」

「平気だよ」

「……無理、しないでよ」

「うん。……そんなことよりさ」


 綺麗だねぇ。


 彼の言葉が、胸に、体に、心に、染み渡る。

 綺麗、って言ってもらえた。今日はもう、それだけで幸せ。


「行こうか」

 ボロボロな様子なのに。

 しんどそうなのに。

 私をエスコートしてくれる。


 彼の腕を取る。ぎゅっと、抱き寄せる。

 彼がぴくりと、揺れた気がした。


「すごい」

 彼がきょろきょろする。

「めちゃくちゃ豪華だ」

 これ本当にタダ? そう訊かれる。

「うん」

 彼にどんな態度をとっていいか分からなくて、私は頷く。

「そこの席みたい」


 テラス席。夜景が見える。

 すごく、ロマンティック。

 フラれる準備を、しているのでなければ。


「すごい。シャンパンも、飲めるんだ」

「飲む?」

「いや、やめとくよ」


 彼の「やめとく」が何故か胸に刺さる。何だか私を拒絶されたみたいな気持ちになる。


「私、飲んじゃおうかな」

「大丈夫?」

「うん」


 彼はノンアルコールカクテルで。私は、ロゼのシャンパンで。

 乾杯する。しばらく、コース料理を楽しむ。


 一時間くらい。

 話したいことはいっぱいあるけど、しゃべれない。

 彼は時々「美味しいね」とか、「すごいね」とか言ってくれるけど、私は生返事しかできない。


 もう、殺してほしい。

 こんなの耐えられない。彼にフラれるのを待って待って待ち続けるのなんて拷問だ。こんな苦しみに耐えるくらいならいっそ心臓を串刺しにされた方がいい。


 泣きたくなってきた。

 我慢できなかった。

 涙が、零れた。


「……どうしたの?」

 異変を感じ取った彼が訊ねてくる。

「体調、悪い?」


「しんどそうなのはあなたでしょ……」

 私は何とか、拓也に告げる。


「しんどいなら、無理して私に会おうとしなくていいから。無理して私に付き合わなくていいから。無理して私を好きでいようとしてくれなくていいし、無理して私と言葉を交わさなくていいし、無理して私の傍にいてくれなくていい。私なんていいの。あなたが幸せなら……」


 彼が口を開いたが、その言葉を待たずに私は続ける。


「私、あなたのことが大好き。愛してるの。だから、あなたが幸せならそれでいい。……ごめん。重いよね。重たいよね私なんか。だからしんどかったら離れていい。私なんか置いていっていいから、だからどうか、あなただけは、私の大好きなあなただけは、幸せで……」


 顔を伏せる。涙が零れて、この日のために爪を飾ってハンドクリームも塗った手に落ちた。鼻の奥が痛む。嗚咽が漏れそうになるのを、我慢する。目を閉じた。


 次の瞬間、目を開けたら。


 拓也がいなくなって、私の傍から離れて、自由になってくれたら、それでいいのにな。


 そう思って、目を開けた。前を見る。


 拓也が、いない。


「こっちを見て」


 気づけば拓也が、私の椅子の隣にいた。跪いて、私を見上げている。

 それはまるで、いつかのように。

 私に好きだと言ってくれた、高校時代のような姿で、彼は私を見つめていた。


 そして、彼の手の中にあったもの。


「僕に幸せになってほしいなら、聞いて欲しい願いがある」

 言葉を失う。口を手で覆う。目の前で起きていることが、信じられなかった。


「結婚してほしい」


 彼の手の中にあったのは、キラキラと、外の夜景より綺麗に輝く、指輪だった。


 周りから声が上がる。注目されているのを肌で感じた。


「本当はね、こんな、無料で来れるようなイベントでするつもりじゃなかったんだけど……」

 申し訳なさそうに、彼は微笑んだ。


「でも、ここすごく綺麗だろ? だから、ここにしよう、って、決めたんだ。僕、実は集合時間よりずっと早くに着いて下見をしていたんだ。ここなら、プロポーズに最適だ、って思った」


 拓也は照れ臭そうに笑った。


「本当はね、この間ショッピングモールでデートした時に言おうか迷ってたんだ。でもかわいい君を見ていて思った。指輪がいる。きちんと、けじめをつけなきゃ、って」


「こんな指輪買うのにいくら使ったの……」

 場違いなことを訊ねてしまう。

 でも、拓也は文学部の大学院生だ。とてもじゃないが高級な指輪なんて買うお金はない。


 しかし彼は笑顔で答えた。


「バイトしたよ。いっぱいね。食費や交遊費、通信費なんかも切り詰めて、お金を作った。ごめんね。だからあんまり、会えなかったね」


 視界がかすむ。何だよ。そんなことだったのかよ。


「馬鹿」

 拓也をぶん殴る。

「馬鹿。馬鹿。返せ。私の気持ち返せ」

 何度も殴る。拓也はそれを、嬉しそうに受け止めた。


「受け取ってくれるかい」

 拓也が、私の振り回す拳を受け止める。そっと、解く。左手を。薬指を伸ばしてくれる。丁寧に、優しく、指輪をはめる。


「僕の妻になってほしい」


 周りから拍手が起こる。


 でも私には、気になることがあった。


「『アイスが溶けそう』とかさ、『酔わなきゃ見つめられないよ』とか、『いつも頭に血が上ってる』とかって、どういう意味だったの」


「ああ、あれか」拓也はちょっと目線を泳がせた。視線が上に行った。それを追いかけると、夜空に浮かんだ、綺麗な月が見えた。


「夏目漱石は、『月が綺麗だ』と言ったね」

 拓也の声。優しい声。

「二葉亭四迷は『死んでもいいわ!』だったかな」

「それって……」


「全部、『I love you.』だったんだ」


 I love you.を僕なりに訳したんだ。

 そう、彼は告げた。


「ごめんね。伝わりにくかったかな。僕なりの『I love you.』を伝えたんだ。君を愛してるって、大好きだって、ずっとずっと、そう言ってたんだ」


「じゃ、じゃあ、『君はいつも僕を困らせる』とか、『ごめんね、僕ばっかりで』とか、『君はいつも尽くしてくれるね』とか、『君のためなら潰されてもいい』とか……」


「ごめん。センスなかったね」

 一応、文学を研究しているんだけど。

 拓也は頭を掻いた。


 馴化。

 父が言っていたそんな言葉が頭に浮かぶ。

 私はずっと、愛してるって言われてたんだ。大好きだって言われてたんだ。言われて言われて言われ過ぎて、その言葉が、分からなくなっていたんだ。


 そんな単純なことにようやく思い至る。父やさく姉すみ姉のにやにや顔が浮かぶ。ちくしょう、あいつら、みんな気づいてたな……。


「もっと真っ直ぐ言えばよかったね。ちょっと恥ずかしくて。ごめんね」

 拓也が謝る。そんな謝罪、少しもいらない。

「ううん。嬉しい」

 私は目を拭う。左手ではもう拭えない。指輪が瞼を引っかくから。


「……次は、君の番だよ」

 拓也が真っ直ぐ私を見つめる。眼鏡の奥の強いまなざし。綺麗な瞳に、私は吸い込まれる。


「君の言葉で愛してくれよ」


 言葉に詰まる。

 何と言おう。この気持ちを。この思いを。どうやって言葉にしよう。どんな言葉のプレゼントを彼に送ろう。彼のことを包みたいこの気持ちを、彼に包まれているこの嬉しさを、どうやって表現しよう。


 口を開く。

 丁寧にリップを塗っておいてよかった。唇の手入れをしておいてよかった。彼に届くこの言葉が、少しでも彼にとって喜ばしいものに、彼にとって甘いものになるように、一生懸命、言葉を紡いだ。


 彼はにっこり……すごくすごく、幸せそうに……微笑んで、くれた。



「行こうか」

 父が私に囁く。タキシードを着た父。様になる。元々西欧系の顔をしているから、こういうパリッとした姿がよく似合う。

「うん」


 私は父の腕を取る。

 ドレスはすごく窮屈だ。でも、この日のためにダイエットをした。エステにも通ったし、食事にも気を遣った。


 多分、三回目だからだろう。

 父はすごく、慣れていた。俺に任せろ。そんな様子だ。

 頼もしい。でもさく姉の時は、頼りなかったんだろうな。そんなことを思うと少し笑える。


 バージンロード。

 深紅の長い絨毯の先に、私の未来の……ほんの数秒先の未来の、だけど……夫、拓也が待っている。


 照明が私と父を照らす。私は、父に向かって、告げる。

 お父さん。

「ん」父がこっちを見ずに応える。その耳に、囁く。


「大好き」



 

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君の言葉で愛してくれよ 飯田太朗 @taroIda

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