第3話 心の、隙間に。

〈私拓也に何かした? 謝るから、教えて〉

 必死に私は連絡した。しかし拓也からは、意味不明な言葉ばかり。

〈ごめんね、僕ばっかりで〉

〈意味が分からないんだけど。私が拓也に何をしたのか教えて欲しい〉

〈君はいつも尽くしてくれるね〉

〈どういうこと? 私が重たかった?〉

〈君のためなら潰されてもいい〉

〈何なの? いい加減にして〉

 何でこっちが怒っているのだろう。怒っているのは拓也のはずなのに。


 鬱々として仕事をした。まず変化に気が付いたのが由香だった。

「どうした。顔色悪いぞ」

「別に」

 口に出してしまうと、拓也との軋轢が本物になってしまいそうで嫌だった。


「……さては彼と喧嘩したな?」

 バレた。

「喧嘩ってほどでもないけどさ」

「すれ違い?」

「そんな感じ」

 ため息。私、拓也に何しちゃったんだろう。

 最後のデートを思い返す。


「アイスが早く溶けそうだね」

 帰りたいってことだったのかな。

 付き合わせちゃったのかな。

 胸の前で拳を握る。


 もしかして、そういうことがいっぱいあったのかな。私ばっかり楽しくて、私ばっかり拓也からもらって、私ばっかり幸せで、私だけ、私が……。


 胸の奥に針が刺さる。痛い。血が、出ている。



「あの」

 二上さんに話しかけられたのは、残業で二〇時まで居残っていた時のことだった。


 私は休憩がてらぼんやりと、由香からもらったチケットを眺めていた。拓也と行きたい。けど、拓也を付き合わせるのは申し訳ない。拓也がもし、私のことが嫌いになったのなら、もうこれ以上拓也に、無理はさせたく……。


「あの。そのチケット」

 気づけば二上さんが私のデスクの近くに来ていた。私の手元のチケットを示してくる。

「今度オープンするホテルのですよね? イベントですか?」

「……え? あ、はい」

「……よかったら、それ、僕と行きませんか?」

「え?」


 びっくりする。拓也以外の男性からアプローチされたのなんて初めてだ。


「行きましょう。何だか最近、元気ないみたいだし」

「そ、それは……」

「彼氏さん、ひどいな」

 二上さんの目が、強くなる。

「僕なら、あなたを悲しませない」

 う……。

 二上さんの言葉が、針が刺さって血だらけになった心に染みる。心の隙間に入り込んでくる。


 二上さんはこれ以上ないくらい真っ直ぐに私を見てくる。

 ちょっとくらいなら……。

 気持ちが揺らぐ。 


「じゃ、じゃあ、こういうのはどうですか」

 渋る私に痺れを切らしたのか、二上さんが一歩こちらに近寄ってくる。

「オープニングイベントですよね? その日、僕は東京駅にいます。もし、僕と行ってくれるなら、会いに来てください」

「え……」

「すぐには決めなくていいです。当日、当時、最後の瞬間まで、迷っていい」

「そ、そんな……」

「お待ちしてます」二上さんはぺこりと頭を下げた。「あなたのことが、好きです」


 好き……。

 涙が出そうになった。

 いつぶりだろう。人に「好き」と言われるのは。



 帰ると、玄関に靴がたくさんあった。パンプス、スニーカー、そして、小人のみたいにかわいい靴が、二人分。


「さく姉、すみ姉」

「おかえり」

 お父さんとさく姉すみ姉がお茶をしていた。すみ姉は、多分、妊婦なのでノンカフェイン。匂いからして、ローズヒップ。


「チビたちは?」

 さく姉の息子と娘。私にとっての甥っ子姪っ子も、来ているはずだ。

「寝かせた。今日は泊っていくの」

「お義兄さんは?」

「出張。そしたらね、すみれがちょうどこっちに帰ろうかと思ってる、って言うから、ちょっと様子見てあげようと思って」

「初めての出産だからさー。いろいろ大変で」


 すみ姉が大きくなったお腹を撫でて「ふう」と息を吐く。

「もうね、感情の波がやばい。ジェットコースター。わけもなく泣いちゃったりして、夫を困らせてる」


「すみ姉が泣くなんてよっぽどだね……」

「でも、優しい旦那さんみたいよ」

 さく姉が頬に手を当てる。

「つわりがひどくても、何時間でもトイレで背中擦ってくれるんですって」


「いいなぁ」と、胸の奥が痛む。

 拓也は、私が泣いたり体調崩したりしても、もう背中を擦ってはくれないのだろうか。


「……何か悩んでるな?」すみ姉。

「えっ」私。

「あなたは昔から、顔に出やすいから」さく姉。

「そういうところはお母さんに似てるな」お父さん。「お母さんも俺と出会った頃はすぐに顔に出るから分かりやすかった」


 にやにや。みんなで私を笑ってくる。

「何だし。真剣に悩んでるんだし」

 むっとした私に、さく姉とすみ姉が声をかけてくる。

「まぁ、そこ座れよ、妹」

「お姉ちゃんに話してみなさい」


「お父さんがいるところでは話しにくいんだけど……」

「席を外すか?」お父さんが腰を浮かす。

「いや、いい」意地になる私。「娘の恋バナ聞きたいんだったら、聞いてもいいよ」


「恋バナ、か」お父さんが笑う。「聞いてやろう」

「何で上からなんだよ」と、言いつつ私はテーブルに着く。

「話してごらん」さく姉のその言葉で、私は話し出す。


 拓也とうまくいっていないこと。拓也が謎の言葉で私をはぐらかすこと。拓也と四カ月も会っていないこと。職場のイケメンに言い寄られていること。チケットの使い道に迷っていること。

 多分、普通の娘が父親の前で話さないようなことまで話したと思う。でも、「もうやってやれ!」という気持ちだった。


 一通り話したところで、すみ姉がつぶやいた。


「あんた、鈍感ねぇ」

 さく姉が「ふふふ」と笑う。

「心配はなさそうね」

「どうしてだよ。心配しかないだろうが」


「馴化、って知ってるか」お父さん。

 ……知ってる。刺激を受けすぎてその刺激に対する反応が徐々に見られなくなる現象のこと。簡単に言ってしまえば「慣れ」。心理学用語。この家に本がある。

「慣れ過ぎたんだな」ローズヒップティーを飲む父。「俺もそろそろ、心の準備をしておかないとな」

 立ち上がる父。さく姉が訊ねる。


「寝るんですか」

「ああ」お父さんはすみ姉の肩に触れる。「お前も寝ておけ。体に障る」

「うん。ありがとう」


 父が去ってから、姉妹三人で顔を合わせる。

「お父さん、お母さんの部屋で寝るようになってから大分経つね」すみ姉。

「もう心配はいらないんじゃないかな」さく姉。

「後はあんたのことだけだ」私を示すすみ姉。


「私に心配なんてないし」

 しかしさく姉もすみ姉も笑う。

「自分で自分のこと心配しているくせに」すみ姉。

「拓也くんのことが大好きなのねぇ」さく姉。

「何だし、さく姉もすみ姉も」


 ふふふ、と姉たちは笑う。私はむすっとする。

「ま。あんたの好きにしなよ。拓也くんをとるか、イケメンをとるか」

「どっちにしても幸せにね」


 むー。

 何か気に入らない。

 けれど、さすがに不貞腐れるほど子供じゃないので、私は夕ご飯を食べて、部屋に帰る。


 ジェームズは二年前に死んでしまった。私の部屋にはジェームズの写真が飾ってある。ねう。ジェームズが鳴いた気がした。


〈拓也。話がある。時間ある時でいいから〉


 そんなメッセージを送る。

 返事は、来ないかもしれない。

 来なかったら。

 私は二上さんのことを考える。


 と、拓也から返事が来た。私は覚悟を決める。


〈君のためならどこでも行くよ〉


 今更すぎる甘い言葉に、私は胸焼けしたような気分になった。

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