第2話 嫌われ、ちゃった。

「おはようございます」

「あ、おはよ」


 金曜日の残業から。

 二上さんが毎朝話しかけてくるようになった。といっても挨拶程度のこと。おはようと言ってから、時事ネタや天気のことについて少し。


 私は、他の男性社員と同じ扱いをしている……つもり。でも由香が突いてくる。


「二上さん攻略したの?」

「してないよ。どうしてそうなる」

「あの人、仕事中もあんたのこと見てるよ」


 え、嘘。

 少しぞわりとする。私の知らないところでまなざされている。拓也の視線なら嬉しいけど、そうでもない人の目線だとちょっと怖い。


「まぁ、でもあんた、彼氏いるもんね」

 由香がため息をつく。

「高校の頃からの彼氏でしょ? いいなぁ、純愛って感じ」

「あれ? 由香も彼氏いたでしょ?」

「この間フラれた」


 しょんぼりする由香。

「え、嘘。どうして」

「浮気。あいつ最近残業多いなぁ、なかなか会えないなぁ、って思ってたら、よそで女作ってた。問い詰めたら大喧嘩。それで、別れた」


 それじゃフラれたのかフッたのか分からない。

 まぁ、でも、浮気されて別れたのだから、フラれたのか。


「そういうわけで、だな」

 由香が白衣のポケットに手を突っ込む。

「これが、余った。やるよ」


 手渡される。何かのチケットのようだった。


「東京駅近くのホテルのオープニングセレモニー。屋上のレストランの食事券。懸賞でペアチケット当たったの。私行く相手いなくなったし、それ持ってると辛いからさ。あんた、行ってきて」

「え、いいの」

「うん。あげる」


 チケットを見る。半年後の金曜午後七時から。仕事終わりにも行ける。


「いいの? 半年後だよ? そんだけ時間あったら新しい彼氏できるかもよ?」


 すると由香は首を振った。

「男はしばらくいいわ。彼に費やした時間とお金を今度は自分にかける。男探しは、それからにする」


 半年間の準備期間だ。由香はそう笑う。


 じゃあ、受け取っておくか。私はチケットを白衣のポケットにしまう。

「ありがとう。彼誘ってみる」

 由香は笑う。

「二上さんも残念だねー。意中の彼女にナイトがいて」

「そんなんじゃないって、きっと」私は由香の肩を小突く。「この間仕事でミスしたから、多分気にかけてくれているだけだよ」

「そうだといいけどね。ま、職場であんまり波を立てるな」


 立てる気なんてない。向こうが勝手に立てているんだ。



「あの」

 その日の昼。声をかけられた、と思ったら、件の二上さんだった。

「よかったら、ランチ行きませんか」

 私は昼を会社の食堂で済ませている。勤務先が工場敷地内の研究室ということもあり、職場の近くに食事をする場所はない。


 ……と、思っていた。


「この間、近くに雰囲気のある店を見つけて。個人経営っぽいんですけど、一人だと入りにくくて」

「その辺の男性社員捕まえていけばいいじゃないですか」


 すると二上さんは笑った。

「皆さん愛妻弁当か、行ってもラーメン屋さんです。僕が見つけたお店、どうもフレンチかイタリアンっぽくて」


 まぁ、男同士で行く店ではない、ということが言いたいのだろう。


 うーん。この辺りでフレンチかイタリアンの店か。ちょっと気になるな……。

「由香も誘います」

 妥協点を私は見つけた。例えランチでも、拓也がいる手前、男性と二人で食事はしたくない。

「後で二上さんの机に行くので、待っていてください」


 二上さんはちょっと残念そうな顔をした。

「分かりました」

 去っていく。私は由香に声をかけに行った。


「えー! 二上さんから? あんた行ってきなよ」

 由香はパソコンから目を離さずにそう答える。

「いや、二人は気まずい」

 すると由香が肩をすくめる。

「気にすることないと思うけどね。それに私、ちょっと今は手が離せないし」

「そうなの?」

 まぁ、確かに忙しそうだ。


 由香が笑う。

「分かった。彼氏の手前、男と二人で食事したくないんでしょ」

「バレたか」

「食事くらいいいじゃん。セックスするわけじゃなし」

 そんなの極論すぎて検討の価値がない。

「何でお金払ってまで気まずい思いしてご飯食べなきゃいけないのさ」

「じゃあ、奢ってもらえば?」由香は事も無げだ。「二上さんあんたに気があるんでしょ? 甘えたら奢ってもらえるかもよ?」

「絶対嫌」


「あのう」

 不意に背後から声がした。

「行きませんか?」


 どうやら痺れを切らして私たちを迎えに来たようだ。

 二上さんが腰を低くして私たちの背後にいた。


「あ、ごめんなさーい。私忙しくて」

 由香が私のお尻を押す。

「この子だけ、連れていってくださーい」

「ちょっと由香……」

「いいから。行ってきなって」

 強く押される。よたよたと、二上さんの方に寄ってしまう。

「ごゆっくりー」


 くそ、由香め。覚えてろよ。

 仕方なく、私は二上さんと食事に行くことになった。

 前を歩く彼は、心なしか姿勢が伸びている気がした。


「美味しいですね」

 連れていかれた場所は、工場の裏手、住宅街の中にある小さな店だった。

 こんなところで商売できるのか、と、いつか拓也に連れていかれたカフェと同じような感想を覚える。

 イタリアン。ピザしかやっていないらしい。石釜で焼いているそうだ。結構、本格的。


 手でちぎったピザを食べながら二上さんが微笑みかけてくる。

「休日は何されているんですか?」


 拓也とデートか、そうじゃなきゃ手芸。

 大学に入ってから、拓也に気に入られたくて女の子らしい趣味を、と思って手芸サークルに入った。素人でも一から面倒を見てくれるようなサークル。最初はちまちまとクロスステッチでコースターとかを作っていたが、最近はレースを編んだり、編みぐるみを作ったり、かなり凝ったものを作れるようになった。


「手芸」

 拓也とのことはプライベートなので突っ込んでほしくなかった。知られてもいい情報だけを吐く。


「手芸ですか! じゃあこういうの作れたり?」

 と、テーブルの上に置かれたランチョンマットを指す。

 多分、これくらいなら、作れる。


「ええ、まぁ……」

「すごいなぁ」

 手芸ができる女性って素敵ですよね。

 分かりやすい賛辞を送ってくる。


「暇なだけです」

 ピザを食べる。あんまり味がしない。


「あの」

 少しの沈黙の後。

 二上さんが意を決したように話しかけてくる。

「もしかして、僕との食事嫌でした?」


 やばい。

 気を遣わせたか。さすがに無愛想すぎたか。

「いえいえ、全然……」

 慌てて否定する。


「もしかして、付き合っている男性がいるとか……?」

 見抜かれた。何だこの男。

 とはいえ、事実は事実。肯定する。

「ええ、います」


「それは、申し訳ありません」

 二上さんは頭を下げてくる。

「いえ、そんな……」

 別にこの男に気を遣ってもらいたかったわけではない。

「全然、気にしてません。ただの食事ですし」

 由香の言葉が蘇る。

 食事くらいいいじゃん。

 そう。食事くらい、なのだ。


 すると二上さんはすっと顔を上げて、それからちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「じゃあ、彼氏さんには、内緒で」

 何だその言い方。

 まるで私が、火遊びしているみたいじゃないか。


 それでも結局、彼の悪戯な笑顔が頭から離れなかった。

 仕事中。ランチのことを思い出す。

 多分、だが。

 私には拓也以外の男性と親しくした経験がない。まぁ、厳密に言うと一人あるが、あれはノーカウントでいきたい。


 だからだろう。新鮮な刺激だったのだ。いつもと違う刺激は脳に残りやすい。あの場面だけが、繰り返される。悪戯な笑顔。「彼氏さんには、内緒で」


 何だし。

 自分に苛立つ。

 何やってるんだろう。私には拓也がいるのに。



〈お疲れ〉

 帰宅後。拓也に連絡を取る。

 ふと、カレンダーを見る。

 このところ、拓也に会ってないなぁ……。


 最後にデートをした日から、一か月。いや、もう一か月半か。

 随分会ってない。完全に拓也不足。ため息が漏れた。拓也に、会いたいなぁ。


 しばらく待っても、拓也から返信が来ない。

 待つ。待ちぼうけ。気が付いたら、寝ていた。


〈お疲れ〉

 拓也からそんな短い返信があったのは、翌朝のこと。何だか悲しくなる。

〈最近会ってないね〉

 このメッセージには、返事がなかった。


 最後のデートから二カ月。連絡は取り合うけど、デートはなし。

 最後のデートから三カ月。連絡も稀になり始めた。

 最後のデートから四カ月。


 どうしたんだろう。私、拓也に何かしたかな……? 

 全然拓也と通じ合えていない気がする。だいたい、彼女を四カ月もほったらかしにするだろうか。するのだとしたら、私側に何か問題があったに違いない。

 そう思って、今更かもしれないが、メッセージを送ってみる。


〈ねぇ、拓也。怒ってる?〉


 唐突でかなり意味不明なメッセージだったと思うけど、何も訊かずにこのまま膠着状態が続くよりは、と思って送ってみた。

 しかし意外にも、返事はすぐに来た。


〈いつも頭に血が上ってる〉

〈どういうこと?〉

 意味が分からない。何故だろう。泣きたくなる。


〈君はいつも僕を困らせる〉

〈困らせる? 私拓也に何かした?〉


 返事がない。


 何でよ。何か言ってよ。言わなきゃ分からないじゃん。


 でも、同時に思った。

 言わなきゃ分からない仲だったんだ……。私、最低だ。彼女失格だ。


 その日。

 部屋に籠って私は泣いた。拓也に、嫌われたんだ。

 その喪失感で、頭がおかしくなりそうだった。

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